忘れられた傘
五月も半ばを過ぎると、
街の空気は春というよりも初夏に近いものへと明確に傾き始めていた。
昼間には肌が汗ばむほどの日差しが容赦なく降り注ぐ日も増えていたが、
それでも夜の帳が下りれば、まだ少しだけ冷えた風がビルの狭い隙間を気まぐれに抜けていく。
その気だるい温度差だけが、季節の移り変わりを静かに、けれど確実に告げていた。
ユキが働く深夜のコンビニでも、
棚に並ぶ冷たい飲み物の売れ行きが目に見えて増え始めていた。
強炭酸水。
鮮やかな色のスポーツドリンク。
氷の入ったプラスチックカップで飲むアイスコーヒー。
人間達は、自覚している以上に季節の変化へ敏感だ。
そしてそれは、彼らが纏う「匂い」のグラデーションにも如実に現れる。
冬の人間は寒さに身を縮め、凍った硬い匂いがする。
夏の人間は熱を帯び、生命力の横溢した汗と高揚の匂いがする。
春と秋は、そのどちらでもない曖昧な境界の匂い。
そしてこの五月という過渡期の匂いには、どこか焦燥に似た「焦り」が混ざることが多かった。
新しい環境に適応し終えたはずの人間達が、ふと立ち止まり、
張り付けた笑顔の裏にある自らの現実と生々しく向き合い始める時期だからかもしれない。
午前一時。
店内は比較的静けさに満ちていた。
ユキはレジ横でフェイスアップと呼ばれる商品の前出し整理をしながら、
帽子の下で小さく二つの耳を揺らしている。
低くハミングし続ける冷蔵棚のモーター音。
電子レンジが発する微かな待機音。
遠くの幹線道路を滑っていく深夜トラックのロードノイズ。
そのすべてが、フィルターを通さずにユキの鼓膜へと容赦なく届く。
相変わらず、世界は自分にとって少しばかり騒がしすぎる。
その時、自動ドアが滑らかに開いた。
生ぬるい夜風が足元をかすめ、一人の客が店内へ入ってくる。
四十代半ばほどの、くたびれたスーツ姿の男性だった。
肩を少し落としたその佇まいは、深夜のオフィス街のコンビニでは決して珍しくない、
ありふれた労働者の姿。
男性はアルコール類の棚には目もくれず、温かい緑茶のペットボトルと、
地味なミックスサンドイッチを一つだけ手に取ってレジへと運んできた。
会計は何の問題もなく、淡々と済んだ。男は小さく会釈をして、そのまま店を出ていく。
ただの、名前も知らない一過性の客。そう処理するはずだった。
だが、男が出て行った数分後、
ユキの耳が自動ドアの付近で奇妙な違和感を捉えてぴくりと跳ねた。
入口の横に設置された傘立て。
そこに、黒いビニール傘が一本だけ、ぽつんと取り残されている。
さっきのスーツの男性が、無意識に置いていってしまったものだろう。
ユキは少しだけ考えた。
外へ飛び出して声をかけるべきか。
だが、すでに男の足音は夜の闇の中に遠く消えており、今から追いかけても間に合いそうにない。
(……とりあえず、バックヤードの忘れ物置き場に移しておこう)
そう思いながら、ユキはレジを出てその黒い傘の持ち手を握りしめた。
その、瞬間だった。
「――っ」
微かな、本当に爪の先ほどの僅かな気配だった。
傘の持ち手に残された、男性の手の温もりと混ざり合う、その独特な「匂いの粒子」。
安価な古いシプレ系の香水。
湿った雨。
安煙草の煙。
それと――どうしようもないほどの、暴力的な「懐かしさ」。
ユキは思わず、美しく整った眉をひそめた。
ひどく奇妙で、胸が締め付けられるような感覚だった。
目の前の傘の持ち主である男性のことは、確実に知らない。
今日初めて見た他人だ。
それなのに、なぜかこの匂いを、自分の鼻の奥が熱くなるほどによく知っている気がする。
どこで嗅いだのだろう。いつの記憶だろう。
どれだけ脳の引き出しを引っかき回しても、核心となる映像が結ばれない。
けれど、胸の最深部が、まるで古い振り子時計が突然動き出したかのように、
静かに、激しくざわついていた。
ユキは這い上がってくる得体の知れない感傷を振り払うようにして、
傘を店の奥の保管棚へと納めた。
考えても分からないことは、この世界にはたくさんある。
目に見えない気配や感覚のすべてに形を与えようとすれば、
それだけで心が摩耗して擦り切れてしまう。それは、この過敏な身体を持つユキ自身が、
誰よりも身に染みて理解していることだった。
深夜二時。
店内からは、完全に人間の気配が途絶えていた。
雨こそ降ってはいないものの、夜空には重たい積乱雲が低く広がっているらしく、
ガラス窓の向こうの空気は水分を含んでじっとりと湿っている。
ユキがモップを手に取り、入口付近の床を掃除していた、その時だった。
自動ドアが勢いよく開き、慌ただしい、少し焦ったような足音が滑り込んできた。
息を少し切らせた、さっきのスーツ姿の男性だった。
「すみません……! さっき、ここに傘を忘れてしまって」
男は決まずそうに苦笑しながら、白髪の混じり始めた頭をがしがしと掻いた。
「お預かりしています」
ユキはすぐにモップを止め、
保管棚から先ほどの黒い傘を取り出して男へと差し出した。
「ああ、よかった! 本当に助かります、ありがとうございます」
男が心底ほっとしたように、目尻に細い皺を寄せて破顔した。
――その笑顔を真正面から見た瞬間、
ユキの白い耳が、帽子の奥で弾かれたように跳ね上がった。
今度は、はっきりと分かった。モザイクのようだった匂いの正体が、
鮮明な一本の線となってユキの脳裏に閃光を走らせる。
(この人は――あの人に、似ているんだ)
顔の造作が似ているわけではない。声のトーンが似ているわけでもない。
ただ、彼が発する空気の「匂い」が。
ユキがまだ小さくて、自分の耳のせいで世界中のすべての音に怯えていた頃。
そんな自分を、大きな手で包み込んでくれた、あの「祖父」の匂い。
愛用していた安煙草。
埃っぽい古い書物の紙の匂い。
そして、雨の日に好んで着ていた分厚いウールのコートの匂い。
そのすべてが、目の前の見知らぬ男性の気配と、
奇跡のような精密さで重なり合っていた。
ユキは思わず、男の顔を言葉を失ったまま見つめてしまった。
男は自分の顔に何かついているのかと不思議そうな顔をして、「あの……どうかしましたか?」と首を傾げる。
「……いえ。なんでも、ありません」
ユキは我に返り、慌てて視線を床へと逸らした。
男は「最近、どうにも忘れっぽくて困るんですよ。歳ですかね」と、また少し照れくさそうに笑った。
その、どこか世間を達観したような静かな笑い方まで、記憶の中の祖父の面影と酷似していた。
男が傘を手に取り、今度こそ夜の街へと帰っていく。
自動ドアが閉まり、再び訪れる圧倒的な静寂。
ユキはモップを握りしめたまま、男が去っていった暗いガラス窓の向こうを、
いつまでも、いつまでも見つめ続けていた。
胸の奥に灯ったのは、切ないほどの「懐かしさ」だった。
けれど、その温かさと同時に、どうしようもない寂しさが胸の隙間から隙間風のように吹き抜けていく。
匂いを思い出すということは、同時に「その人はもう、この世界のどこにもいない」という残酷な事実を、
再確認することでもあるからだ。
ユキの祖父は、もう何年も前にこの世を去っている。
それでも、ふとした瞬間に、匂いだけは昨日のことのように鮮烈に蘇る。
獣人という種族は、匂いの記憶が人間に比べて桁違いに強固だ。
一度脳に刻まれた気配は、何年経とうが、どれほど遠くへ行こうが、決して色褪せることはない。
だからこそ、時々酷く苦しくなる。
忘れてしまいたい痛烈な過去も忘れられない。
もう二度と会えない、大好きな人の匂いも、鼻の奥がずっと覚えている。
深夜三時。
客足は完全に途絶え、世界は静止したかのようだった。
ユキはバックヤードで、紙コップに淹れたブラックコーヒーを少しずつ口に含みながら、小さな窓から外を眺めていた。
等間隔に並ぶ街灯の光。
濡れたようなアスファルト。
時折若葉を揺らす五月の夜風。
静かな街の景色の中で、ユキの意識は、遠い子供の頃の記憶へとゆっくりと沈んでいった。
祖父は、とても風変わりな人だった。
ユキの頭の上に生えた白い耳を見ても、お尻の後ろで揺れる尾を見ても、
彼が「獣人」だからという理由で特別視したことはただの一度もなかった。
甘やかすこともなければ、腫れ物に触るように哀れむこともしない。
ただ、庭に咲く名もなき花を見るように、当たり前の存在としてユキをそこに居させてくれた。
『じいちゃん、私、いろんな音が聞こえすぎて頭が痛い。
みんなの悪い考えてることが、匂いになって鼻に入ってくるの』
幼いユキが、泣きそうな顔でそう訴えたとき、
祖父は吸っていた煙草の煙をふぅと灰色の空へ燻らせながら、ただ豪快に笑ったのだ。
『そうか。耳が良いなら、泥棒が入ってきたときにすぐ分かって便利だな』
『便利じゃないよ、苦しいんだもん』
ユキが小さな手で耳を塞ぎながら膨れてみせると、
祖父はユキの銀色の髪を大きな手で手荒に、けれど優しく撫で回しながら、こう言った。
『じゃあ、不便な才能だな』
――その言葉が、ユキは子供心に、たまらなく好きだった。
可哀想にと泣いて同情するわけでもない。
「いつか慣れるよ」と無責任に励ますわけでもない。
ただ、ユキの抱えるその生きづらさを、そのまま「不便だな」と、等身大の重さのまま受け止めてくれる。
祖父は、そういう静かな強さを持った人だった。
外で、一陣の強い風が吹き抜けた。
五月の夜風が、コンビニの分厚いガラス窓を微かに震わせる。
ユキはコーヒーの熱を感じながら、静かに目を閉じた。
匂いという媒介は、本当に不思議だ。
色鮮やかな景色よりも、耳を震わせる音よりも、もっとダイレクトに、
魂の最も深い場所にある記憶の地層を呼び起こしてしまう。
綺麗に忘れていたはずの幼い感情。
遠い故郷の空気。
子供の頃に見上げた、祖父の広い背中。
そのすべてが、見知らぬ他人が残していった傘一本の匂いだけで、一瞬にして今ここに蘇る。
それは、胸の古傷を抉られるようで、時々とても苦しい。
けれど同時に、それはとても切なくて、大切なことのようにも思えた。
もし、その人の匂いの記憶まで完全に忘れて失くしてしまったら
、その時こそ本当に、その人が宇宙の彼方へ遠く消え去ってしまうような気がするからだ。
自分が覚えている限り、祖父の生きた気配は、この世界から消えはしない。
壁の時計の針が、三時二十分を指していた。
夜はまだ、深い闇を湛えたまま続いている。
ユキは残ったコーヒーを飲み干すと、パイプ椅子から立ち上がった。
エプロンのしわを伸ばし、再び白い蛍光灯の下へと歩みを進める。
店内の冷蔵棚は相変わらず規則的な音を立て、人間達もまた、
それぞれの場所で不器用に今日という日を生きている。
そして自分もまた、獣人という不便な身体を抱えながら、
この街の片隅で静かに息をしている。
忘れられた、黒い傘一本。
他人から見れば、明日の朝には誰も覚えていないような、
取るに足らない深夜の微細な出来事。
けれど今夜のユキにとっては、それは胸の奥の澱を優しく洗い流してくれるような、少しだけ特別な夜だった。
もう二度と会えない、大切な人の面影に触れたから。
そして、その人が自分にくれた「不便な才能」と共に生きる今の自分を、ほんの少しだけ、愛おしいと思えたから。
五月の夜風は、どこか湿った花の匂いを孕みながら、静かに街を吹き抜けていく。
暗い夜の底を通り抜けながら、
立ち止まりそうな誰かの大切な記憶を、優しく、そっと揺らすみたいに。




