静かな亀裂
重厚な扉が閉まったあとも、部屋の空気は凍りついたままだった。
王太子アルベルトの言葉が、まだ残響のように響いている。
「私は君を尊重している。だが彼は――君を渇望している」
レオンは跪いたまま、拳を握りしめていた。
否定できない。
騎士としてあるまじき感情を、王太子に見抜かれている。
ルクセリア王国において、王家への忠誠は絶対だ。
その婚姻は国家そのもの。
王太子妃を想うことは、すなわち王権への挑戦に等しい。
「レオン」
エリシアの声が震える。
彼は顔を上げない。
「私は、近衛騎士です」
それだけを言い残し、退出する。
逃げるように。
王都アルヴェインの夜は、月光に照らされていた。
ルクセリアは“月の恩寵”に守られた国。
王家の血に宿る月紋が王城地下の魔導陣と共鳴し、
国土を守護していると信じられている。
ゆえに魔力は神聖。
魔力を持たぬ者は価値が薄い。
そして今、魔力を持たぬ王太子妃がいる。
それは均衡の上に置かれた、あまりにも繊細な存在だった。
翌日、重臣会議は荒れた。
「北方侯が動いております」
「魔力なき妃では王威が揺らぐと」
「公爵家の月属性令嬢を推す声が……」
アルベルトの蒼い瞳が冷える。
「エリシアは私の妃だ」
短い言葉。
だが王太子としての断固たる意思。
それでも、貴族たちの不満は消えない。
魔力至上派は確実に勢力を増している。
彼らにとってエリシアは象徴だ。
“王家の弱点”という。
謁見の間。
貴族たちの視線が突き刺さる。
エリシアは背筋を伸ばした。
王太子妃として、決して怯えぬ顔で。
隣に立つアルベルトが、小さく囁く。
「無理はするな」
「殿下こそ」
穏やかなやり取り。
だが、その背後に立つレオンの気配が、いつもより鋭い。
まるで何かを警戒しているかのように。
彼の視線は、常にエリシアを追う。
それが噂を生む。
「近衛騎士が妃を見過ぎだ」
「忠誠か、それとも……」
ざわめき。
その瞬間、アルベルトは公然とエリシアの手を取った。
「私の妃に、不敬な視線は不要だ」
静かな牽制に場が凍る。
レオンの瞳が揺れた。
夜。王妃宮の書斎。
エリシアは古い記録を読み返していた。
過去、魔力の弱い王妃がいた時代。
その末路は――病死、失脚、政略離縁。
(……排除されている)
背筋が冷える。
そこへ静かなノック。
「失礼します」
レオンだ。
「警備を強化します。北方の動きが妙です」
「……私は、やはり足枷でしょうか」
零れた本音。
レオンの銀の瞳が鋭く光る。
「違います」
即答。
「あなたは弱点ではない。
この国が、あなたを恐れているだけです」
「恐れている?」
「魔力がなくとも、人の心を動かす存在だからです」
その言葉は、騎士の報告ではない。
男の告白に近い。
「俺は……あなたを王太子妃としてではなく」
言葉が止まる。
廊下の向こうで、衣擦れの音。
誰かが聞いている。
政治と感情。
均衡が、音を立てて軋む。
エリシアは初めて理解する。
これはただの恋ではない。
王家と騎士団、
魔力至上派と改革派、
ルクセリア王国そのものを揺るがす火種。
それでも。
胸の奥で、小さな灯が揺れる。
尊重ではない。
義務でもない。
――欲されているという熱。




