43.二人で共に生きる世界
波の音がどんどんと近づいてくる。
奏士はその音に引き寄せられる様に砂に足を取られながらも浜辺を走り抜けた。
奏士の頭の中に美雨の一つ一つの表情が浮かび上がっては消えていく。
(美雨の美しい歌声は幻なんかじゃなかったはずだ!)
そう心の中で叫んだ。
もうすぐあの岩陰が近づいてくる。
(美雨……!! 頼む………生きていてくれ……!!)
美雨が消えた場所をそっと覗き込む。
そこには彼女が無防備に横たわっていた。
奏士は血の気の引く思いで、
「美雨!! 美雨!!!」
目を閉じて倒れている彼女を必死で揺り起こす。
「お願いだ……、他には何も望まないから……目を開けてくれ……!!」
冷え切った美雨の身体から彼女を失ってしまう恐怖に震えてうまく言葉が出てこない。
彼女の細い指を大切そうに手に取り、優しく撫でる。
ぴくりとも動かない指を絡めて、身体を自分の膝の上に乗せた。
「美雨……」
パタリと彼女の頬に奏士の涙が一粒煌めき落下すると、白く細い指先微かに動いたのを奏士は見逃さなかった。
「美雨……? 美雨!!」
奏士の呼びかけに引き戻される様に、ゆっくりと少しづつ瞼が開いていく美雨。
「………奏ちゃん………?」
長い夢から目覚めた様な現実味を帯びない表情で、ゆっくりと奏士の膝から起き上がる。
奏士は泣き顔を隠す様に、力強く美雨を黙って抱き寄せた。
息が止まりそうな位の強さで、彼女を二度と離すまいと自分の身体に溶け込ませる様に……
あまりの力強さに、
「奏士ちゃん……、苦しいよ!」
美雨は奏士の耳元で優しく訴える。
「もう……何処にも行かないでくれ……」
ほんの少し緩んだ腕から微かな震えが伝わる。
彼の腕の中でコクリと頷いた……
どれほど時が経ったのか……
二人は時間を忘れた様に、顔を見ることもなくじっとお互いの呼吸を感じあっていた。
トクントクンと絶え間なく動き続ける二人の鼓動が、波の音と共鳴し合う様に心地よく響き合う。
ようやく奏士は美雨の肩に手をやり、彼女の顔を覗き込んだ。
「………美雨。………俺の望んでることは、生きている美雨とずっと一緒に歳を重ねていく事だ。
どんな理由があっても……先に逝こうなんて、これからは絶対に思わないって約束してくれ……!!」
真っ赤に目を腫らした奏士は美雨の瞳に訴えかける。
「奏ちゃん……、これからも、私ずっと奏ちゃんの側に居ていいの?」
美雨の目から温かい涙が流れ落ちた。
奏士の長い指でゆっくり美雨の頬を拭い、
「当たり前だろっ! ずっとずっと……一緒にいよう」
近づいてくる奏士の顔をこれ以上ない幸せな気持ちで受け入れた美雨は、そっと触れ合う唇を見つけ、初めて彼の恋人になれた様な気持ちなった。
お互いの今までの想いを告白するが如く、求め合ったキスは終わることがない。
(大好き……)
たった一言では伝わりきれない思いが湧き上がり、穏やかに混ざり合って、お互いの心に空いていた穴が次第埋められて行く。
そっと唇を離し、見つめ合った視線の先には、自分にとって一番大切な人が微笑んでいた。
頬を合わせもう一度抱きしめあい、奏士は美雨の髪を撫でる。
「さあ、帰ろう」
彼女の手を取り立ち上がろうとすると、傍らにみゅうの身体が横たわっていることに気がつく。
「みゅう……!」
奏士は久し振りに再会した冷たくなったみゅうの身体を拾い上げ、悲しく愛おしそうに撫でる。
「猫の身体はもう天国に行っちゃった……。見送ったの、私」
みゅうを撫でる奏士の切ない表情に、どれほどに彼から沢山の愛情を貰ってきたのか……改めて奏士に今まで貰った愛情を、これからたくさん返していきたいと心の中に強い決意が生まれた。
「一緒に……帰ろう……」
みゅうを抱え、美雨を見る。
美雨は頷き、奏士の隣に寄り添った。
しとしとと毎日の様に雨の降り止まない六月。
庭の花々からは空からの恵みを受け、美しい花々や、葉の間から輝く雫が其処彼処でポタポタ静かに滴り落ちていく。
奏士の部屋の窓から美雨はそんな様子をじっと眺めながら、憂鬱な雨空とは裏腹に彼にたっぷりと満たされた愛情が溢れ出しそうだった。
美雨の後ろから包み込む様に抱きしめて、奏士が目線の高さを合わせる。
「よく降るなぁ」
ポツリとそう呟く奏士の顔を見ると微笑んでいる。
「でも、私雨って結構好き」
ふふとはにかむ美雨。
「なぁ、みゅうだった頃も雨の日よくこの窓辺で外眺めてたよな?」
懐かしそうに奏士が目を細める。
「うん……。空が真っ青で柔らかい潮風を感じるのも好きだけど、こんな穏やかな雨の日は普段聞こえない草花の会話が聞こえる様で、なんだか楽しいんだ」
そんな微笑む美雨の言葉が奏士の心を温めた。
自分の知らない世界をたくさん知っている彼女の話はとても新鮮で、不思議と今まで聞こえる事のなかった自然の音が聴こえてくる。
奏士はピアノの蓋をそっと開け、また新しく見つけた世界を音に変えていく。
その煌めく音に美雨は耳を傾けて、奏士を感じながら今日もまた幸せを歌い続けた……




