Part.217 小さな背中!
チェリィ・ノックドゥは、自室にいた。
辺りはしんと静まり返っていて、音はない。チェリィは窓に手をついて、外の景色を眺めていた。向こう側の風景にぼんやりと映る、窓硝子越しの自分と目を合わせていた。
窓から差す日の光だけが、その空間を照らしていた。
「……私は、なにかを間違えたのかしら」
そう言ったのは、チェリィではなかった。
部屋の扉を開けたままの状態で、エドラがチェリィを見て、そう言っていた。チェリィは窓硝子の向こう側に映るエドラを見て、ほんの一瞬だけ、身体を強張らせた。しかし――……そうして、すぐにチェリィは固まった表情を解きほぐした。
いつものように、力の無い笑みを浮かべた。
……やはり、そうなのだろう。そう、チェリィは思った。天蓋付きのベッドと、やたらと少女趣味な椅子。その他様々なものに囲まれて。
「よく似ているのよ。……あの人は」
エドラが『あの人』と言っているのはきっと、ウシュク・ノックドゥの事だろう。エドラはウシュクの名前だけは、例えどのような事情があったとしても、決して呼ぶ事はなかった。
「あなた達のお父様はね、ひどい人だったわ。……いえ、ある意味では、とても人望を集められる人だったのかもしれないわね……表向きは、そうだったのかもしれない」
チェリィは振り返って、車椅子に座ったままのエドラを見詰めた。
どうして今そんな話をするものだろうか、と意識のどこかでは考えていた。
旧式の車椅子。すっかりくたびれた表情で、少し俯きがちにそう話す母親の背中は、どうしてもチェリィには小さく見えてしまった。
絶対の存在。幼い頃には、あんなにも大きく見えた背中が。
「お父様はね、『妻は手下』だと言っていたわ。国を経営する事が、お父様の目標だったの。私はおまけみたいなものね。私を前に立てて、裏で主導権を握って……私は、殴られてばかりだったのよ」
そうか、とチェリィは思った。
エドラがウシュクの事を、頻繁に『あの人』と呼ぶのは。
そう考えた瞬間、出来事が繋がったような気がした。同時に、若干の寒気も感じた。
「悪気があったかどうかは、今でも分からない。……でも、私はそれきり、怖くなってしまったのよ。屈強な男の人が……頭では分かっていても、どうしても、ね」
今は苦笑している、その顔が。
まだウシュクとチェリィの二人が産まれていない時に、どれだけ歪んでいたか知れない。
どれだけ、涙に濡れていたか。
「あの人が成長していくたび、お父様と似ていくたび、どうしても怖くて。……どうして自分の子供にこんな感情を覚えるのか、分からなかったわ。理解できなかった。本当の事を言うと、苦しくて――……でも、どうしようもなかったのよ」
チェリィは、唇を引き結んだ。
「……こんな事、なんの言い訳にもならない事は、十分わかっているのですけどね」
目を閉じて、エドラは苦笑していた。
エドラがグレンオードと初めて出会った時、必要以上に緊張していた。あの誠実なクラン・ヴィ・エンシェントでさえ、慣れるのには相当の時間を必要とした。
自分を殴り続けた夫とよく似た顔をした男。それにどれだけエドラが恐怖したのかは、少し理解できた。
抑えていたのだ。
エドラはウシュクに対して感じている恐怖を、抑えて抑えて、それでもやっとの所で、ようやくあの状態だったのだ。
そう思った瞬間、チェリィは奥歯を噛み締めた。目の奥がじわりと湿る感覚を、やっとの所で堪えた。
「お父様が早くに死んでいなければ、きっと私の方が死んでいたでしょうね。今でも、そう思うわ」
チェリィをどうにか女性に仕立てたかったのは、ノックドゥの女王にしたかったから……それだけではなかったのかもしれない。
あの夫と重ならないように、自分が恐怖しないように、どうにか可愛くしようとしていたのかもしれない。
どうして?
愛情を注ぐために。
我が子が我が子であると、自分に言い聞かせるために。
こんなにも悲しいことがあるだろうか。
「……でも、今ここに生きている『あの人』は、ウシュク・ノックドゥです。……お父様ではありません」
そうだ。『悪人』などいない。
或いは、歴史が違うからだ。或いは、境遇が違うからだ。誰もが自分の中に確固たる正義を持ち、その認識の違いによって、人は争っているのだ。
このどうしようもなく崩れてしまった家族にさえも、『悪人』は居なかった。
元より、悪事を働こうとして悪事を働く人間など、ほんの一握りに過ぎないのだろう。それは、分かる。
「あなたが目を離している時にしょっちゅう風邪を引いていて、運動も魔法も苦手で。……とても、屈強な人間ではありません。弱い……とても弱い、人間です」
「それは、分かっているけどね」
「いいえ。お母様は、分かっていません。これまで兄さんがどんな気持ちでいたのか、当事者ではないあなたには分からないでしょう。……勿論、僕にも」
どうしてか、泣きそうになってしまった。涙をぐっと堪えて、チェリィは歩き出した。
ドレスは要らない。ブラウンのチノパンに、チェックのシャツとベスト。ベレー帽を被り、大きなリュックには小さな魔物を。
そうして、それらの装備からすれば異色な、聖職者の握る杖を手に取った。
「…………行くの」
エドラの隣を通り過ぎると、エドラはチェリィにそう問い掛けた。
何か、彼女に話すことがあるだろうか。
チェリィは、ふと考えて立ち止まった。
「助けたい人がいます」
少なくとも、どこに行くのかは、伝えておく必要があるだろう。
ここは、チェリィにとっての家なのだから。
「僕がいないと、回復役がいなくて。……きっと今も、困っていると思います、から」
「そう」
「お母様。やっぱり僕は、もう少しだけ――……冒険者でいたい」
チェリィは振り返って、エドラに笑みを浮かべた。すっかり痩せてしまったエドラは、そんなチェリィに笑顔を返した。
どうしてだろうか。
その儚い笑顔の向こう側で、或いは初めて、通じ合えたような気がしたのは。
「行ってきます」
それだけを、チェリィは伝えた。振り返り、走った。
どうして、黙っている必要があるだろうか。チェリィは使命を持っている。その事に今まで、気が付いていなかっただけだ。ノックドゥの女王など、まだチェリィには早すぎる。
国民を護る、その前に、チェリィは、身近な仲間を護るために全力を尽くさなければならないはずだ。
廊下を出て、少し冷えた空気の中をひた走ると、すぐに風景は、いつもの場所へと辿り着く。
チェリィは、城の扉を開いた。
――――…………明るい。
青空は遠く、どこまでも深く澄み渡っている。
この美しい空を見上げずに過ごした日々が、チェリィにもあった。喪失し、嘆き、くたびれた日々を送っていたことが。
「ひとつ、聞いて良いか」
入口の近くに、ウシュクが立っていた。壁にもたれ掛かって、煙草を吸っていた。
深呼吸をするように、ウシュクは深く煙を肺に入れた。そうして、空に向かって煙を吐き出した。その表情はまたくたびれた様子ではあったが、どこか晴れやかな様子でもあった。
「俺は、お前に生かされた。死ぬつもりでいたんだ。……お前に生かされた俺は、これからどうして良いのか分からない」
死人のような瞳は、チェリィに向けられた。
「俺の命を、お前に預けたい。……何でも良いから、指示をくれないか」
暫し、チェリィは悩んだ。その言葉は予想していなかったからだ。
指示をくれ、などというのは、これまでの二人の関係からすれば、まったく有り得ない事だった。ウシュクはいつも、チェリィの知らない所で動いていた。これまでは、ずっと。
ウシュクはそれだけを伝えて、また押し黙った。どう答えるべきか、チェリィは悩んでいたが――……
「自分の好きなことを、してください。……そうしたら、今まで見ていた景色も、変わるかもしれない……から」
結局の所、チェリィはウシュクにそう伝えた。
他に伝えるべき言葉が見付からなかったのだ。チェリィはいつも、ウシュクの背中を見てきた。逆境に流されず、戦う姿勢を見せていたウシュクの事を、チェリィはよく知っていた。
ならば、ウシュク・ノックドゥもまた、すれ違ってしまっただけなのだろう。
「僕は、本当は……兄さんに、相談して欲しかったんだと思います。あなたを子供として扱ってくれない母を、どうしたら良いのか」
ウシュクは静かに、チェリィの目を見ていた。
「二人で考えて、二人で生きて行きたかったんだと。……今では、そう思います」
チェリィは簡単に、誰かを憎めるような人間ではなかった。どうしても、どこかで、許してしまうのだ――……相手の立場を思えば、思うほどに。いつもそこには理屈があり、どうしようもない理由があった。
「でも僕は、それをあなたに伝えなかった。壊れていくあなたを心配する余裕がなくて、荒んで僕を憎むあなたを怖がって、城を飛び出してしまいました」
ウシュクは少し驚いたような瞳で、チェリィを見た。
そうだ。
『悪人』など、初めから、この世のどこにも居なかったのだ。
「それが、僕の過ちだと……そう、思います」
チェリィは、笑った。
凍った視線を向けていたウシュクの瞳に、光が灯った。それだけの大きな意味が、その笑顔にはあった。
少なくとも、チェリィの知る全ての『悪人』は、悪人ではなかった。皆一様に人間として、人間らしい悩みを抱え、大きくすれ違ってしまった人間だった。
その事実が、チェリィにひとつの覚悟を与えていた。やがて訪れる、おそらくチェリィの知る限りで、最も『大きくすれ違って』しまった、敵対する相手と出会うための。
誰もが自分の中に、確固たる正義を持っているのだ。
「ひとは、愚かだと思います。迷い、間違えることもあります。……でも、それでも良いんじゃないでしょうか」
全ての行動には、意味があった。ならば、責めるべきは『人間』そのものではない。
「生きて行く中で、過ちを犯さない人なんているでしょうか。僕は、いないと思います。……だから、僕の出した答えは、『過ちを受け入れること』です」
間違った事こそを憎み、『悪』とし、人を憎まない。
それこそが、チェリィの決めた覚悟の姿だった。
「僕は兄さんを責めません。死んで欲しいとも思いません。生きて、そしてお互いに、変わっていきたいです」
その笑顔は、慈愛に満ちていただろうか。
「一度間違えた事を改善して行けるのなら、ひとは愚かではなくなる気がするから――――…………」
それだけを伝え、チェリィはノース・ノックドゥを後にした。
向かう先は、セントラル・シティ。行かなければならない場所。
仲間のいる場所だ。
*
ウシュク・ノックドゥは、ノックドゥ城の城門にいた。
先程、チェリィが現れた。その去り跡を見詰めていた――……煙草を吸う。
ウシュクは考えていた。
――――――――罪が、消えた訳ではない。
ずっと、続いていくのだ。例えチェリィがそれを気にしなかったとしても。自分はこれを未来永劫、抱え続けて行かなければならないのだ。
大きく息を吐くと、煙は空に昇っていく。やがて大気と同化し、嘘のように消えて無くなった。
ウシュクのした事が、いつかこの煙草の煙のように、消えて無くなる日は来るのだろうか。
いや。……恐らく、来ないだろう。
決して、忘れてはならない。二度と、同じ事を繰り返さないために。過去の愚かな自分と向き合うことはきっと、今ウシュクが想像している以上に苦しく、後に引くだろう。だが、それでいい。それをしなければならない理由がある。
『死ぬことで、罪滅ぼしができると思ったか? ――――甘えるな』
全くもって、あの変態剣士が言っていた事は、的を得ている。
ウシュクはそう思って微笑み、煙草の火を消して歩き出した。
「あなたも、行くの」
問い掛けられたが、ウシュクは立ち止まらなかった。振り返りもせず、顔も向けなかった。
どうしても、話す気になれない。エドラが自分に用事があるとすれば、それはチェリィの事くらいのものだろう。チェリィは今、冒険者として城を出て行った。行き先はおそらく、セントラル・シティ。
「チェリィなら、今出て行ったぜ」
それだけを伝えて、ウシュクはそのまま、去ろうとした。
「行ってらっしゃい。……ウシュク」
ウシュクは、立ち止まった。
その溢れ出る感情の正体が分からずにいた。胸の奥からせり上がって来る、暖かいような、嬉しいような悲しいような、複雑な感情。唐突な出来事に、戸惑いを覚えた。焦っている様子をどうにか見せるまいと、ウシュクは身動きひとつ、取ることができなくなった。
視界の端に、エドラを捉える。
柔和な笑みを、浮かべていた。
「――――――――ああ」
その言葉を。その、たった一言を。
もう少し、本当にもう少しだけ早く、聞くことができていたら。
ウシュクはついに、エドラに顔を見せる事はなかった。帽子を押さえ、顔を隠して歩いた。
涙を隠すために。