Part.207 ずっと、このまま
リーシュが、俺の隣にぴったりとくっついている。
「……リーシュ」
「……は、はい」
「…………近い、んですけど」
おい俺よ。どうして敬語になった、今。
月もかなり高い所まで来ている。時計が無いからどの程度の時間なのか分からないが、夜もかなり更けてきたんじゃないだろうか。時折、すうと柔らかい風が俺とリーシュの間を吹き抜けていく。ベッドにするには少々広すぎる葉に座って、どうにも行き場をなくした俺。
胸焼けしそうな程に熱い。見れば、隣でリーシュも沸騰しそうな勢いで真っ赤になっていた。
なんでこんな状況になってるんだっけ。……よく思い出せない。
「あの、グレン様!!」
「は、はいっ……!?」
リーシュが覚悟を決めた様子で、目を閉じて叫ぶように言った。
「私!! グレン様と、キスが、したいです……!!」
硬直。
「おっ、おお……!?」
なんとなく想像していたような、でも想像していなかったような、そんな展開に。思わず俺は、呆けた声を出した。
なんだか、いつもとリーシュの様子が違うような気がしたのだ。いや、それは当たり前で。つい先程まで、リーシュは泣いていて。それが収まると、寄り添っている現実にかなり恥ずかしさを覚えた。そこからの、この展開。
うおっ……!!
リーシュはとろけそうな程に赤くなった顔で俺の目前まで迫って、足を投げ出して座っている俺の上で四つん這いになった。
なんだか色々と、見えてはいけないものが見える……!!
「いや、あの、リーシュ。……さん」
「だ、だめでしょうか……!!」
なんでちょっと怒った風なんだ。……いや、過度に緊張しているのだろう。
一体どうしたこれ。どうしてこうなった。何も準備が無いというか、そんな心の準備はそもそも持ち合わせていない。やばい。
つい、俺は少しリーシュから身を引いて、誤魔化すように笑ってしまった。
「い、いや、さ。俺、よく知ってると思うけど、そのテの経験は全然なくて……」
うっ……。
俺が引くと、リーシュが悲しそうな顔をする。……どうすればいいんだ、これは。回避策が何も思い付かない。
「……スカイガーデンでは、してくれました」
スケゾー。いつも邪魔する、なんて文句言ってごめん。今、邪魔してくれ……!!
思わず手を出して、俺はリーシュに制止を掛けた。
「いやっ……!! あの時は焦っていて、だからこそできたと言うかね!? こうやって真面目に面と向かってキスした事ないだろ、付き合ってる訳でもないし――……」
「好きです」
「うぐっ」
顔が熱い。
なんでこんなにマジな顔で目を見て告白できるんだよ、こいつは……!!
「グレン様、好きです。今から付き合ってください」
だらだらと、全身から汗が止まらなくなる。
リーシュは少し眠たげにも見える眼差しで、陶酔したようにゆっくりと俺に近寄って来る。四つん這いでそうやって寄られると、いつも見ないようにしている豊満な胸の谷間とか、細くて滑らかなくびれとか、肌の白さとか、そういうものを間近で見る事になってしまう。
やばい。……だって今、まともな服を着ていない俺達の恰好は――……。
いや、俺は別にリーシュを、そういう目で見たい訳じゃなくて。なんというか、とてつもない罪の意識を感じる。
釣り合うとかどうというレベルの話ではない。俺が手を出すには、リーシュはあまりにも綺麗すぎるのだ。
俺はリーシュから顔を背けて、目を瞑った。
「い、今は気が動転してるだけかもしれないだろ!! まだ互いの事をあんまり知らないし、それに――……」
「知ってます」
「知っ……てるかも、しれないけど……」
「グレン様、私を見てください」
ふと、頬に手が添えられる。
暖かい、細い指に触れる。
少しだけ、目を開いた。
僅かに、その指が震えている。
潤んだ瞳。リーシュは今にも泣きそうな顔で、俺を見ていた。
……ああ、そうか。
リーシュも今、精一杯になっているんだ。勇気を振り絞って――……。
「私とは、恋人同士にはなれませんか」
心臓の鼓動が速い。ふと気を抜くと失神してしまいそうな程に、速い。戦闘中に経験するものとは、また違う。苦しさを伴わない、でもそれでいて張り詰めて辛いような、不思議な感覚があった。
回答を求められている。……素直な言葉を。
「……………………駄目」
駄目だ。
俺はリーシュみたいに、目を合わせていられない。
「……………………じゃない」
リーシュは真っ直ぐに、俺の目を見ている。瞬きもせず、視線も逸らさずに。その事実に、たまらない羞恥心を覚えた。そうして、ふと微笑んだ。
凄いな、リーシュは。俺はこんなにはっきりと、人に好意を伝える事なんてできない。
「グレン様は、どうして近寄ると、逃げようとするんですか」
どうしてって。……どうしてだろうか。
既に思考力は根こそぎ奪われていて、俺は取り繕った意見を言えない状況にされていた。分かってやっているのか知らないが、リーシュは俺の本音を聞き出そうと思っているようだった。
回りくどいことを考える余裕がない。……どうしても、本音を話すしかなくなってしまう。
「だってさ……怖いよ」
今俺がどう思っているのか、言葉にするまで俺自身も判断が付かない。
「感情で接したら、ただの好意なんて、幾らでも引っくり返るじゃないか。……だから、きちんと俺と居る事にメリットがあるようにしないといけないじゃないか。つい、考えちゃうんだ――……俺なんて、いつ嫌われるか分からないんだから、って」
そうか。
……俺は、そう思っていたのか。
だから、付いて来てくれた仲間を必死で護ろうとしたのか。俺がいれば大丈夫だと思わせたくて、一生懸命になっていたのか。与えられた役割をきちんとこなさなければならないって、そう思っていたのか。
俺は、パーティの先頭にいたから。
虚勢を張った。今まで以上に、俺が人から必要とされるように。でもそれは同時に、俺自身に負担を掛ける原因になっていた。
大切なものを、ひとつでも多く護りたくて。
リーシュは少し微笑んで、上目遣いで俺の顔面に迫った。
「グレン様。……私、メリットはいらないです」
甘ったるい、猫みたいなリーシュの声。……こんな声、聞いた事がない。脳天に突き抜けるようで麻痺してしびれて、何がなんだか分からなくなってしまう。
色っぽくて大人で、まるで普段のリーシュとは違う、別人のようだ。
「一緒に、いてください」
キスをした。
艶やかな見た目と同じだったのか、それともそうではなかったのかは分からなかった。でもそれはとろけるように柔らかくて、味はしない筈なのに、どういう訳か甘かった。
暫し、放心した。むしろ、何も考えたくなくなっていた。押し寄せる幸福感に、どこか時間が経つのを心地良く感じている自分がいた。
俺の隣にリーシュが寝そべって、微笑みを浮かべた。
「……ふふ、しあわせです」
目の前の少女を、どうにかして守ってやりたいと思う。
……そうか。俺とリーシュは、恋人同士になったのか。
唐突に、初めてリーシュと出会った時の事を思い出した。あの時まだリーシュは村の問題を抱えていて、俺もセントラル・シティに問題を抱えていて、二人に接点はなかった。
随分と遠くまで来たような感覚があり、しかしずっと前からこうなる予定だったのではないかという感覚もあり、それらは複雑なバランスで混在していた。
不思議だ。
単なる言葉だけの問題。ずっと前から一緒にいて、これからも一緒にいる事は変わりないのに、どこか満たされる。
「リーシュ」
ふと、俺はリーシュを呼び掛けていた。
「はい」
リーシュも、それに応える。
「ありがとな」
一人じゃない。
俺は一人では、なくなったんだ。
「グレン様?」
ふと、俺自身が涙しているのに気付いた。リーシュは少し不安そうな表情を見せたが、俺は笑みを作って、リーシュに見せた。
ずっと、一人だった。だから、俺は誰かと手を繋ぎたかったのかもしれない。
でも、そう上手くはいかなかった。好意を持って接した筈なのに、嫌われる事も何度もあった。憎まれる事もあった。攻撃される事もあった。
俺の中にはずっと、ぽっかりと空いた一つの大きな穴があった。俺だけではどうしても埋められない、大きくて深い穴があった。
何度も傷付いて、もう見るものかと思って、その穴を見ることさえ、いつしか辞めてしまっていた。
誰にも愛して貰えないとさえ、思っていたんだ。
俺なんかでは。
そんな想いだけが、いつの日も俺には、あって。
「なんでもない」
寂しくて光の見えない俺の中の空洞が、リーシュによって満たされていく。
幸せだ。
もう、離したくない。一つになって溶け合って、二度と離れたくないとさえ思う。
どうか、ずっとこのままで――――…………。