-The distortion world.9-
麻理はひたすらに森を駆けていた。
あの後も幾度か爆発音が耳に届いていたが、今はもうまるっきり聞こえなくなり、森は先程までとは打って変わってしん、としていた。
爆発がまるっきりなくなったということは、敵が違う攻撃方法に切り替えた、もしくは戦闘がすでに終了しているということだ。そして、森は静寂に包まれている。後者の可能性が高いだろう。今の麻理には結果を知る術はない。もし二人が負けていたら? 弱気な麻理の心が、自分自身を更なる不安に駆り立てていく。
先程は二人が負けるはずないと信じて森の奥まで逃げておいて、いざ不穏な爆発音が聞こえて不安に駆られては、二人が心配になって引き返す。麻理はそんな矛盾した自分の行動を恥ずかしく思っていたが、不思議と心はすっきりしていた。
かつて二人に出会うまでの麻理は、自分が何をすれば分からないまま、絶望の日々を生きていた。しかし、彼らと出会って、仲間と信頼しあう大切さを知り、だんだんと三人でいつまでも笑い合える空間を作り、それを守って生きたいと思うようになった。そしてそれが麻理の生きる目標になっていった。
だから、麻理は仲間の誇りを胸に、二人が負けることはないと信じ、その彼らが危機に陥れば身を案じて引き返すのだ。
そう考えながら走っていると、いつの間にか二人と別れた場所の近くまで戻ってきていた。
闘いはどうなっているのか。勝ったのか。苦戦しているのか。麻理ははやる気持ちを抑えられずに、走り続けてふらふらになっている脚を引きずりながらも歩を進めていく。やがて、どうやら無事らしい彼らの姿を遠目に見て、麻理は一息つく。
さらに近づいていくと、その二人の前で先程の赤髪の少女が膝を折っている様子も確認できた。それを見た麻理が、二人が勝利したと悟り、心から安堵する。そして二人に労いの言葉をかけるべく、残っている力を振り絞り駆け寄る。
「一重さん! 灯馬さん! やりましたねっ」
しかし、その声に誰よりも早く反応したのは、一重でも灯馬でもなく、赤髪の少女であった。一瞬遅れて二人が動き出すが、そのときにはすでに麻理の首は、赤髪の少女に捕らわれていた。
「あんたらの間抜けな仲間のおかげで命拾いできたわ。この子を無事に返してほしければ、食糧全部よこしなさい」
言って少女は空いているほうの腕を麻理の側頭部に近づけ、手のひらから金属を生成する。針状に伸びたそれは麻理のこめかみにあたる寸前で止められた。
「もし従わなかったり、隙をみて何かしようものなら、そのときは容赦なくコレをこの子に突き刺すわよ」
少女は疲弊しきった、しかしいまだ意志の強い瞳で二人を睨む。心なしか麻理の首を押さえている腕にわずかに力が入り、麻理が力なくうめく。
「ちっ、さっきまでの潔さはどこに行っちまったんだよ。見損なったぜ!」
「ふふっ、どうせあたしたちは敵同士。どう思われようが関係ないわ」
吐き捨てる灯馬に少女は吹っ切れたように受け流す。もうお互いに後はない。
そして麻理は再び震えていた。
何故こうなってしまったのだろう。麻理が飛び出すまでは敵を追い詰めていたはずなのに、どうしてか今は最悪の二択を強いられている。
いや、どうしてか、じゃない。
あの時無用心に飛び出したりさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。全ての責任は自分にあるのだ。麻理はそんな間抜けな自分を酷く惨めに思い、つい涙が零れ落ちそうになるが、必死の思いでとどめる。今泣きたいのは自分よりも、仲間を人質に取られた二人のほうなのだ。
そして、麻理は一つの手段を思いついていた。自分を犠牲にして隙をつくり、二人にチャンスを与えて逃がすという、文字通り捨て身の一手である。一重や灯馬がこの考えに気付けば、絶対に止めるだろう。それに麻理自身も命を犠牲にすることなんてしたくない。怖いから。自分はまだ十八、やっと生きがいを見つけたこれからの人生、まだまだすべきこと、したいこと、楽しいこと、つらいこと、経験することがあるのだ。それに大切な仲間とももっともっと一緒にいたい。そう思ってしまうと、再び涙が溢れそうになる。
やっぱり死にたくないっ!
しかしそれは一重や灯馬とて同じこと。それに考えてみれば、麻理一人の命で二人の命が助かるのなら易いものである。麻理は、やはり自分が二人のために犠牲になるべきなのだと、今にも決壊しそうな涙腺に、恐怖のあまり震えすぎて崩れそうな身体に鞭を打ち、精一杯の決断を下した。
しかし赤髪の少女の隙を突こうとする身体も、震えてろくに動かない。なんて有様だろうと、麻理は唇を噛み締める。これでは必死の想いの決断も、無駄に終わってしまう。だが麻理は諦めない。麻理の望みは二人の笑顔を守ること。こんなところで折れるわけにはいかない!
「さあ、どうするの? さすがのあんたらもお手上げ?」
そんな麻理を知らずに焦れる赤髪の少女。そして最善策を模索しようと葛藤している一重と、そんな二人を苦りきった表情で見比べる灯馬。麻理が再び身体に力を入れようとしたそのとき、何者かの声がそれを阻んだ。
「―――てめえの、勝ちだ」
「灯馬!?」
「なっ!?」
灯馬の突然の敗北宣言に一重と赤髪の少女はもちろん、麻理も驚きを隠せなかった。
「どうしたのさ、いきなり負けだなんて!」
声を荒げる少女に、灯馬は意味深な笑みを見せる。
「どうせ、おまえには言っても理解できねえよ」
「なによ、あたしを馬鹿にしてるわけ!?」
「いや、おめえは俺なんかよりもよっぽどキレもんだよ」
「ふっ、わかってるじゃない。身内に助けられてばっかで、挙句の果て勝手に負けを認めるようなあんたとは違うのよ!」
「そうやって、いままで一人で闘ってきたんだろ?」
「ッ!」
その一言に少女が押し黙る。
「一重も、あれこれ考えるなよ。麻理を助けるために、食糧明け渡す。飯なんていつでも食えんだ。どう考えたって、破格の条件だろ?」
そう言って灯馬は一重を見やる。思考に思考を重ね、疲れきった一重の目にわずかに光が戻る。
「ありがとう灯馬。おかげで目が覚めたよ」
「礼なんか後にしとけって」
「なんで、なんでそこまで仲間なんかのためにそこまで必死になるのよ!」
少女が酷く狼狽するのを見て、灯馬が愉快そうにくっくと笑う。
「今のおまえにゃわかんねえよ。そうだ、俺らと一緒にこないか?そうすりゃ俺の言ってることもわかるぜ」
「はあ、負けを認めて仲間になれって? ばかばかしい!」
「そういっている間は理解できねえよ」
「どういうことよ…」
意味深な灯馬の台詞をいぶかしむ少女。
「食いもんなんていつでも手に入るさ。だけどな、麻理という大切な仲間はこの世に一人しかいない。もし失ってしまえば、二度と元には戻らない。だから負けを認めた。それだけさ」
気がつけば麻理は涙を流していた。こんなにも仲間に思われているのが、ただただうれしかった。この人たちと一緒にいれてよかったと、麻理は心から思った。
しかし赤髪の少女は絶句していた。
何故こいつらはそこまで仲間と信頼し合っているんだ。どんなに仲良く取り繕っても、いつかは裏切られるのに! どうせ裏切られて傷つけられるくらいなら、仲間なんて最初から要らなかったのに。仲間仲間仲間、もうたくさんだ!
過去の自分を思い出してしまい、思考が混濁する少女。一重と灯馬はそんな少女から目を離さないが、麻理を人質に取られているため、下手に動くことが出来ない。
「さあ、望みを聞くから麻理を解放してくれないかな?」
一重が少女を刺激しないように諭す。そして赤髪の少女が決めあぐねていると、突然ソプラノボイスが頭上から降ってきた。
「素敵な仲間をお持ちになりましたのね、ダーリン」
皆はっとしてそちらに顔を向けると、大木の枝の上に一人の少女がいた。
少女のセミロングの金色の髪は日差しを受けて輝き、穢れなき陶器のような真白い肌が、そのコバルトブルーの瞳を際立たせていた。そしてその人形のような少女の腕には、身の丈ほどもあるなぎなたが握られており、その刀身はどうしてか黒く、鈍い輝きを放っていた。
「な、なによこいつ。あんたらの仲間なの!?」
突然の乱入者に声を荒げる赤髪の少女。他の三人も声を出せないでいる。
「それにずいぶんと平和主義になりましたわね。ダーリンが躊躇するのであれば、代わりに私が彼女に引導を渡して見せましょうか?」
赤髪の少女の台詞を無視して、続ける少女がそのなぎなたの黒い切っ先を赤髪の少女に向ける。
「な、なによ。あたしに喧嘩売ってるわけ?」
赤髪の少女がなぎなたの少女を睨みつけるが、言い知れない緊張に身体が強張ってしまう。
「意気込んでも無駄ですわよ。あなたの能力では私に勝つことは出来ません」
「状況を見てからものを言いなさいよ、あんた。あたしに手を出そうとしたらこいつの命の保障は出来ないわよ」
「どうぞ」
そう言って何のためらいもなく、少女はなぎなたを構えて、木の枝から跳躍する。
ほとんどけん制のために言った赤髪の少女は、その行動に驚いたが言ってしまった手前、後には退けない。麻理のこめかみを捉えていた針状の金属を伸ばそうとするが、それは伸びるどころか、見る見るうちに消えていってしまった。
「消えた…!? どういうことなの!?」
突然の異変に赤髪の少女は焦り、再び意識を集中させるが、能力が発動することはなかった。そして、赤髪の少女は自分の肩に、なぎなたの少女の腕が添えられていることに気付き、悟る。
「あんた! まさかあたしの能力をっ…!?」
一重といいこの女といい能力がでたらめ過ぎるではないか、赤髪の少女は心の中で不条理さに思わず歯噛みする。
「さあどうかしら」
赤髪の少女に睨まれながらも、冷ややかに受け流すなぎなたの少女は、敵と接触しているというのに眉根一つ動かさない。ただ立っているだけだというのに、なぜか全く隙がない。状況と態度からして、相手に直接触れることで能力を無効化できるようだ。赤髪の少女は素早く思考し、距離を取るのが最善手と分かると、一瞬で周りを見渡す。そして、麻理を捕らえたまま後ろの茂みに向かって跳躍する。
これは予想していなかったのか、なぎなたの少女の目が少しばかり見開かれる。
「くそっ! 待て!」
灯馬が叱咤をして、麻理を捕らえたまま茂みに逃げた赤髪の少女の後を追う。
「ふふ、性格からして逃げるとは思いませんでしたけど、どうやら頭の回転はよさそうですわね。私の能力も大体把握していたようですし。ですが、私からは逃れられませんわよ」
三人が向かった先を見据え、なぎなたの少女もそれに続こうとする。
「待て」
後ろから声を掛けられ、少女が振り返る。
「エンゼル、久しぶりだな」
「ええ、会いたかったですわ…ずっと」
エンゼル、と呼ばれた少女の表情がわずかに曇る。
「二年振りか」
「それは謝りますわ… けれど、あの時も申したように、私には成すべきことがあり、自分を強くしたかった。だから、私はダーリンと離れることにしましたの。そして、成すべきことの一端、そして強くなった私を見せるために、今ここにいるのです」
「俺を無視してまで向こうに行こうとしていたあたり、成すべきことの一端ってのは二人のどっちかに用があるってことか。あの女が襲ってきたのは偶然だしな」
エンゼルの表情に笑みが戻る。
「さすがですわねダーリン。頭の切れるところも大好きですわ」
「ダーリンはやめろ」
半目で睨む少年。
「もう一重ったら、いい加減慣れてください」
「まあそんなことはどうでもいい。話が逸れた」
「自分から逸らしたんじゃないですの」
エンゼルがくすくすと微笑み、顔を引き締める。
「誰が目的かは、もう察しているんでしょう?」
「麻理、か」
「そのとおりですわ。あの能力を是非研究しようと思いまして」
「おまえの気持ちもわからんではないが、麻理は大切な仲間だ。好きにさせるつもりはない」
そう言って、一重が三人の向かった茂みを阻む。
「ダーリンはなにか勘違いしていませんか。私はあの赤い髪の少女を倒しにいくだけですわ。あなたの仲間を守るために」
「それでも麻理に血まみれた世界やお前を見せるわけにはいかない」
「とっても素敵な台詞ですけれど、今の世界では綺麗事にしか聞こえませんわよ? みんな、生きていくのに必死ですもの…」
言われ、一重は歯噛みする。しかし、一重とて退くことはできない。二度と麻理の顔を絶望に染めるわけにはいかないからだ。
「確かにそうかもしれない。けどな、俺はこの闘いで誰も失わずに済むと信じている」
「どこからそんな自信が湧いてくるのですか?」
理解できないといった表情でエンゼルが返す。
「お前は分かってるだろうが、俺は洞察力には自信があってな。闘いはもちろん、人を見る目も多少は持っているつもりだ。そして、俺にはあの女が迷っているようにみえた。孤独に戦い抜くか、仲間の手を取るか」
「それで、彼女を味方にしようと?」
「その通りだ。あの女を説得して仲間にすることが出来れば、誰も傷つかないで済む。それにあの女は強いから、心強い仲間になってくれるだろう」
「たしかにそうなれば理想ですが、今までそれを何回、何十回と言って成果はあったのですか?」
強い意志を込めて熱弁する一重に対して、エンゼルが冷たく返す。
「ッ…」
一重は思わず押し黙る。少女の言うとおり、今までそれを伝えて返ってきた言葉は全て拒絶の言葉だった。むしろ逆上するものさえいた。
いくら手を伸ばしても彼らには視えず、視えていたとしても払いのけられてしまう。エンゼルの言うとおり、皆生きるのに精一杯なのだ。世界が変貌して人々の心は疑心暗鬼になり、裏切り一つで壊れてしまう。
「確かに俺たちは途方もない無謀なことをしているのかもしれない。だけどな、可能性はゼロなんかじゃない。絶望に染まった心に光が戻るのを、たった二度だが俺は見てきた。人は諦めたらそこで終わりなんだよ…」
一重には静かに耳を傾けているエンゼルの表情が、どこか迷っているように見えた。そんな自分を慕う少女に手を伸ばす。
「エンゼル。お前も俺たちと行かないか? 俺はあの日からお前を守れるようになるために努力をしてきたんだ。お前のそばにいるために…」
エンゼルがわずかに目を見開く。一重はただまっすぐにエンゼルを見つめている。
そのしばらくの沈黙をエンゼルが破る。
「わ、私は…」
しかしすぐに首を振る。
「これは私の問題でもあるのです。だからまだダーリンと一緒になることはできません!」
「そうか… 残念だがお前の決めたことだから、俺は口を出さない」
「ごめんなさい。…ところでそろそろあちらに向かってもよろしいですか?」
エンゼルが一重の背後を見据えて言う。
「さっきも言ったがここは通さん。おまえはここで食い止める!」
「今の私をとめられるかしら?」
「お前が強くなったかどうか、確かめてやるよ」
「そういうことにしといて差し上げますわ。でもそうしますと、その間に向こうにいる仲間がもたないのではなくて?」
「ふっ、いっただろう。この闘いで犠牲者が出ることはないと」
「あの風を操る少年では力不足だと思いますわよ。事実、ダーリンの助けがなければ殺されていましたし、人質も取られていますわ」
灯馬のことだろう。小さく嘲笑を浮かべるエンゼルに、一重はにやり、と返す。
「エンゼルは知らないだろうな。あいつが俺よりも、誰よりも仲間思いの馬鹿野郎だってことをな。あいつがあの女を変えると俺は信じている」
一重の言葉にエンゼルが一瞬あっけにとられるが、すぐに平静さを取り戻す。
「なにをおっしゃるのかと思えば、そんなことが出来ると思っていますの?」
「ああ、思ってるさ。もしあいつから仲間の大切さを学んでいなかったら、今の俺はいないだろう」
「っ!」
少女が絶句する。たしかに、昔の人を寄せ付けない一重のままでは、仲間をつくることなど出来なかっただろう。だからこそ、別れてから最初に一重を見たとき、一瞬別人だと思い込んでしまったほどだった。
「どうやら、今目の前にいるダーリンは、昔とはだいぶ違っていますわね。…いいですわ。強くなった私を見せてあげますわ」
苦笑と共にエンゼルが構える。その動きをみて、一重も油断なくエンゼルの動向に注意を払う。
しばしの静寂。先に動いたのはエンゼルだった。尋常ではない脚力で地面を蹴りつけ、一重との間合いを一瞬で詰めて、なぎなたを振りかぶる。一重は反射的に横へ飛び退き、空を切り裂いたなぎなたが地面を殴りつける。いったいその細い腕のどこにそんな力があるのか、叩きつけられた地面の土が、爆発したように抉られ飛び散る。
エンゼルはそこで止まることなく、再び一重の目の前に迫る。一重は先程と動揺に横に跳躍。三人が抜けて行った茂みから離れていることに気付いた頃には手遅れだった。
「しまっ――」
見ればエンゼルは攻撃を繰り出すこともなく、そのまま茂みへと突っ込んで行ってしまった。
「ちっ、やられたぜ。ハナっから俺には用無しか…」
短く毒づいて一重もその後を追うべく、茂みの奥へと向かっていった。