第8話 律、弟子入りする
再生数が、また増えていた。
古民家の居間で、律は三枚のモニターを順に眺めていた。
昨日出した商店街の切り抜きも、昨日の配信のアーカイブも、コメント欄がすごい速さで伸び続けている。
『侍かっこよすぎ』
『あのモグラ一発かよ』
『結界先生まじで神』
『殿、無事でよかった』
『商店街どうなった?』
『編集、見やすかったぞ』
最後の一行を見つけて、律は椅子を少しだけ画面に寄せた。
その上にも下にも、宗次と朱音の話が山ほど続いている。編集のことを書いている人は、探さなければ見つからない。
それでいい。自分は、画面の外にいるほうが向いている。
学生のころは、探索者になりたかった。けれど授かったのは、物を眺めるだけの【鑑定】だった。戦えないと分かった日に、その夢はさっさとしまい込んだ。
空になったカップ焼きそばの容器を片づけて、画面を更新する。編集の話をしているコメントは、さっきから一つも増えていなかった。
夕方、玄関の戸が開いた。
「律くん、いますかー?」
「あ、は、はい!」
朱音の後ろから、作務衣姿の宗次が入ってくる。黒い刀ケースは、今日も肩に担いだままだった。
「特例の公開試験が決まりました。試験の様子は配信します」
「す、すごいじゃないですか!資格、取れるかもしれないんですね!」
「まだ合格したわけじゃないですけどね。それで律くん、その配信をお願いしたいんです」
律は口を開けたまま固まった。
あの侍の試験だ。昨日の映像だけでも、とんでもない数の人が見ている。次は国内だけでは済まないかもしれない。もし途中で映像が止まったら。もし自分の操作ひとつで、大事な場面を見せ損ねたら。
「ぼ、僕が、ですか……?」
「いつもどおり、ここで管理してくれれば大丈夫です。律くんの仕事は信用してますから」
朱音はあっさり言う。頼られるのはうれしい。うれしいのに、机の下で両手を握りしめていないと落ち着かなかった。
そのとき、宗次が肩のケースを部屋の隅に下ろし、律のほうへ向き直った。
「律殿、字を教えてはくれぬか」
「……字、ですか?」
「昨日、己の名を書けず、指で印を押した。己の名くらいは、己の手で書きたい」
職務質問のとき、署名の代わりに指印を押したという話は、朱音から少しだけ聞いていた。
「お、教えるって……僕、人に何か教えたことなんてないですよ」
「其方は読めるのであろう」
「そ、それは、読めますけど」
「ならば頼む」
毎日何千という文字を目にしているのに、最初の一文字を教えるとなると急に難しく思えた。
「……わ、分かりました。ひらがなからで、よければ」
その夜、朱音が買ってきた夕食を置いて帰っていくと、居間の机はそのまま手習いの場になった。
律はモニターを消して、紙と鉛筆を並べた。宗次は机の前に正座し、紙を真正面に据えている。姿勢だけなら、試験を受ける人よりよほど真剣だ。
「ま、まずは力を抜いて持ってください。刀とは違うので」
「うむ」
律が手本に「あ」を書いてみせる。宗次が鉛筆を握り、一本目の線を引いた。
ぱきん。
芯が折れた。
「……すまぬ」
「だ、大丈夫です。削れば使えますから」
削った鉛筆を渡すと、宗次は二画目に進んだ。
ぱきん。
「……」
「す、少しだけ軽く!紙は敵じゃないので!」
三本目では紙に穴が開いた。律は引き出しから予備の鉛筆を出して、机の端に並べていく。教えているつもりが、すっかり鉛筆の補給係だ。
新しい鉛筆を受け取った宗次は、親指と人差し指の力をそろそろと緩めた。今度は線が途切れずに伸びた。
「宗次さん、何から書けるようになりたいですか?」
「それがしの名じゃ」
律は紙に、大きく「むねつぐ」と書いた。
「これで、むねつぐ、です。一つずつやってみましょう」
「この曲がったのが、む、か」
「は、はい。ここを丸めて……あっ、そこは止めます」
宗次の「む」は横にひしゃげ、「ね」は妙なところで折れ曲がった。「つ」は勢いがよすぎて紙からはみ出しかけたが、最後の「ぐ」まで、芯は一度も折れなかった。
「できました、宗次さん。ちゃんと読めますよ」
宗次は紙を手に取らず、しばらく四つの文字を見下ろしていた。
「……これが、それがしの名か」
「そ、そうです。ちょっと曲がってますけど、ちゃんと名前です」
宗次は紙の端を、両手でそっと押さえた。さっきまで鉛筆を握りつぶしていた手と同じとは思えない、静かな触れ方だった。
「律殿。其方の、すきる、とやらは何じゃ」
不意に聞かれて、律は削りかすを集めていた手を止めた。
「……【鑑定】です。外れスキルですよ。物の名前とか値打ちとか、昔のことがちょっと分かるだけで」
「見せてくれぬか?」
「えっ。い、いいですけど……」
律は庭の奥の道場へ行き、壁に立てかけてあった古い竹刀を一本持って戻った。朱音の祖父が開いていた剣道教室で使われていたものだ。
机に置いて、竹の節や、柄の擦り切れたところをじっと見つめる。少しすると、律にしか見えない文字が目の前に浮かんだ。
【名称:竹刀】【銘:なし】【状態:使い込まれている】【値打ち:並】
【来歴:剣道教室の備品 → 多くの子どもが使った → 道場で保管】
「名前は竹刀で、作った人の銘はなし。だいぶ使い込まれてます。値打ちは『並』です。昔、教室でたくさんの子どもが使ってたみたいで……」
もう少し詳しく読もうとしたところで、目の奥がじんと痛んだ。律は竹刀から目を離した。
「ほら、並ですって。骨董屋さんとかなら使い道もあるんでしょうけど、戦いじゃ何の役にも立たないでしょう?」
宗次は首を横に振った。
「目利きは戦場で何よりの宝よ」
「……え?」
「刀の良し悪しを見誤れば、斬る前に折れる。兵糧に毒が混じっておると知らねば、戦う前に倒れるぞ」
宗次は竹刀に目を落とした。
「並の品でも、子らが幾人も使うてきたと分かる。其方の目がなければ、知れぬことじゃ」
律は、返す言葉を探した。
この力を授かったときから、役に立たないと言われてきた。自分でもそう決めつけていた。値打ちのない物に昔誰が触れたかなんて、分かったところで何になるのか、と。
「あ……その……」
前髪の奥で、そっと目をこする。うまく声が出なくて、律は竹刀を手元に引き寄せた。
少しして顔を上げると、居間の隅の黒い刀ケースが目に入った。ほめられた勢いのまま、口が勝手に動いた。
「あ、あの……その刀も、抜いて見せてもらえませんか。鑑定してみたくて」
宗次の顔から、すっと表情が消えた。
「これは守るためにしか抜かぬ。誰にも触れさせぬ」
「す、すみません!見てみたかっただけで、触るつもりは……」
律が慌てて頭を下げると、宗次は小さく首を振った。
「怒ってはおらぬ。其方の目を疑うておるのでもない」
そう言って、曲がりくねった「むねつぐ」の紙を、折れないようにそっと脇へ寄せた。
◇
翌朝、目覚ましが鳴った。
律は布団から手を伸ばして止めた。二度目も止めた。三度目には、寝ぼけてスマホを枕の下に押し込んでしまった。
四度目で、ようやく体を起こす。窓の外はまだ薄暗い。
昨夜、寝る前にわざわざ目覚ましを合わせたのは自分だ。そんな自分を少し恨みながら顔を洗い、机に残っていたエナジードリンクを一口だけ流し込む。いつもなら、ここで二度寝するところだった。
庭の奥から、風を切る音と、床を踏む音が聞こえてくる。
道場の戸を開けると、宗次が一人で素振りをしていた。作務衣の背中は汗で湿り、後ろで結んだ黒髪が振るたびに揺れている。手にしているのは木刀だった。
一振りごとに足が床を踏み、切っ先がいつも同じ高さでぴたりと止まる。
律は戸口に立ったまま、しばらく見ていた。
この動きで、巨鬼も商店街に出た魔物も斬ったのだ。そう思うと、木刀一本が急に怖いものに見えてくる。
それでも、昨日の「宝よ」という声を、まだ覚えていた。
律は道場に上がり、宗次の正面に立った。膝が少し震えている。
「僕を、弟子にしてください」
宗次の木刀が止まった。
しばらく律を見つめてから、壁に掛けてあった木刀を一本取り、柄のほうを律に向けて差し出す。
「では、字の師は其方、剣の師はそれがしじゃな」
両手で受け取った木刀は、思っていたよりずっと重かった。
「……はい、師匠!」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「まず、振ってみよ」
見よう見まねで振る。一度、二度。五度目あたりで腕が重くなり、十度目には肩が上がらなくなってきた。
「ま、まだ、続けますか……?」
「うむ。左の肘を開くな」
宗次が自分の腕で形を見せる。律は左の肘を寄せて構え直し、もう一度振った。さっきより、木刀の先がぶれなかった。
「左様。そのままじゃ」
「は、はい……!」
さらに振るうちに腕が震えだし、とうとう木刀が頭の上で止まった。床に落とさないように握っているだけで精いっぱいだ。
隣の宗次は、もう同じ調子で振り始めている。
「し、師匠……腕が……」
「まだ握れておるな」
「に、握るだけなら……!」
「ならば、あと一つ」
律はどうにか、最後の一振りを振り下ろした。両腕がだらりと垂れる。
ちょうどそのとき、庭の門が開く音がした。
「おはようございます。朝ごはん持ってきましたよ……って、律くん?」
戸口に、朝ごはんの袋を提げた朱音が立っていた。木刀を抱えてへたり込んでいる律と、その横で素振りを続ける宗次を、何度も見比べている。
「律くん、こんな朝早くに起きてるんですか!?しかも稽古まで?」
「で、弟子に、してもらいまして……」
宗次が木刀を下ろした。
「主殿。律はよう励んでおるぞ」
「主殿はやめてください。……え、待ってください」
朱音の顔がぱっと明るくなった。袋を提げたまま、今にもカメラを取り出しそうな勢いで身を乗り出してくる。
「これ、配信したら絶対バズりますよ」




