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第1話 侍、配信に現れる

結界に、ひびが入った。


薄い膜の上を細い亀裂が斜めに走り、その向こうでホブゴブリンが錆びた鉈をもう一度振りかぶる。


「っ、まだです……!」


張り直す。ひびが消えたそばから、今度は別の場所に爪が立つ。


数えるのは十体を超えたところでやめた。通路の奥から次々に湧いてくる緑色の頭が、減っているのか増えているのかも分からない。


背中のほうで、何かが結界にこつんと当たった。小さな石の感触が指先に返る。いつの間にか、後ろにも回り込まれていたらしい。振り向く余裕はない。


――朱音。


あの声さえ聞こえなければ、こんな所まで来なかった。


攻略済みのはずの二十八層に見覚えのない横穴が口を開けていて、その奥から兄の声で名前を呼ばれた気がしたのだ。気づけば足が動いていて、奥の広間に踏み込んだ瞬間、背後の岩が落ちて退路が消えた。


配信者としては最悪の判断だと、我ながら思う。


朱音は右手を突き出し、結界の一部を針のように細く伸ばした。


正面の一体の眉間を貫き、そのまま奥の一体の喉元まで届かせる。黒い霧になって崩れる仲間を踏み越えて、すぐに次が前へ出てくる。


「左に三体……右からも回り込もうとしてますね」


薄く引き延ばした結界を、波紋のように一瞬だけ広間へ走らせる。膜に触れたものの形が指先へ返ってくる。いつもなら「こうやって索敵するんですよ」と解説を挟むところだけれど、今の朱音の口から出るのは独り言に近い確認だけだった。


視界の端で、配信画面のコメント欄が流れていく。


『逃げて逃げて逃げて』

『救助呼んだ!協会に通報済み』

『これ演出?』

『演出でこの数は無理だろ』

『結界もっと厚くしろ』

『今日の晩飯カレーだった』

『↑今それどうでもいい』


逃げられるなら、とっくに逃げている。


内心で毒づきながら、朱音はさらに二体を串刺しにした。腰の小刀に伸びかけた手を途中で止める。これを抜くのは結界が破られてからだ。


もう一度、波紋を走らせる。岩の割れ目の向こう、天井近くの窪みにも二体が張りついていた。上から飛び降りてくるつもりらしい。


「そこ、見えてますよ」


細い結界を斜めに打ち上げると、窪みから二つの影が霧になってこぼれ落ちた。


『えっ天井?』

『見えてんのこわ』

『結界先生の索敵講座はじまった』

『講座やってる場合じゃないんよ』

『ドローンの充電大丈夫?』


同接の数字はいつもの千五百を少し超えたあたりで揺れている。救助が二十八層まで降りてくるのに、あとどれだけかかるか――


ずん、と床が鳴った。


ホブゴブリンたちが一斉に動きを止め、左右に割れていく。


通路の暗がりから身をかがめて出てきたのは、天井に届きそうな影だった。灰色の肌を岩とも鉄ともつかない殻がびっしりと覆い、拳だけで朱音の頭より大きい。


鎧殻巨鬼(アーマード・オーガ)


名前を思い出すより先に、喉がひゅっと鳴った。


『は?』

『でっっっか』

『オーガ!?しかも鎧殻持ち』

『C級くらい?』

『A級だよバカ』

『28層でA級!?』

『今来た何これ』

『先生逃げてええええ』


「……大丈夫です。結界、厚くしますから」


声が少し裏返った。カメラに向けて笑ったつもりだったけれど、口角がちゃんと上がっていたかは自信がない。


巨鬼が拳を引く。


朱音はありったけの魔素を流し込み、結界を三枚重ねた。


拳が来た。


轟音と一緒に、三枚がまとめて砕け散った。


衝撃で体が後ろへ転がり、背中を岩に打ちつけて肺の空気が全部抜ける。体を包む結界がなければ、骨の一本や二本では済まなかったはずだ。


張り直そうとしても手が震えて、薄い膜はすぐにぼろぼろとほつれてしまう。


巨鬼がゆっくりと、もう一度拳を持ち上げた。


視界の端で朱色の組紐が揺れている。髪がほどけかけていた。


「……たす、けて」


カメラのことも八十六万人の登録者のことも、頭から抜け落ちていた。


「助けてっ……誰か!」


拳が振り下ろされる。


目をつぶることすらできなかったから、朱音には見えた。巨鬼が出てきたあの暗がりの奥から、何かが猛然と駆けてくるのを。


それは巨鬼の脇をすり抜け、朱音との間に滑り込んだ。


鈍い音がして、拳がすぐ横の岩を粉々にする。割り込んだ男が鞘ごと突き出した刀で、巨鬼の手首を横から叩いて逸らしたのだ。


ずいぶん大きな男だった。擦り切れた着物に袴、胸元には色の剥げた古い鎧。足元は草鞋で、腰には背丈に見合った長大な太刀を佩いている。鞘の幅だけで朱音の小刀の倍はあった。髪も髭も伸び放題で泥にまみれ、顔立ちすらよく分からない。


『え、誰』

『侍???』

『痛いコスプレイヤー来たwww』

『初見です!』

『これ上層に出るって噂の侍おじさん?』

『タイミングwww』

『刀一本で何すんの』

『汚し加工だけガチで草』

『ドッキリ?これ仕込み?』

『また売名か』


正直なところ、朱音もコメント欄と同じことを思った。そういえば上層に侍の格好をした変な人が出るという噂を、前にコメントで見た気がする。


鎧は本物の鉄に見えるし、袴の破れ方もやけに生々しい。生々しすぎて、かえって作り物くさい。どこかの撮影チームが迷い込んだのかと本気で考えたけれど、こんな階層まで降りてくる物好きな撮影チームがいるとも思えなかった。


それに、この人はどこから来たのだろう。あの奥には魔物しかいないはずだった。


「あの、危ないです!その装備じゃ――」


男が肩越しにちらりと振り返る。


「下がっておれ」


低い声でそれだけ言うと、男はもう朱音を見なかった。


巨鬼が吠え、洞窟の壁がびりびりと震える。


「推参なり」


『なんて?』

『すいさん?』

『水産?』

『魚の話してる?』

『【有識者】「無礼、差し出がましい、生意気」って意味です』

『有識者おるの草』


男は刀の柄に手をかけたまま、じっと巨鬼を見ていた。


肩、腕、脇腹、首。視線がゆっくりと鎧殻の上をなぞっていく。弱点を探しているにしては目の動きが妙に細かくて、殻と殻の合わせ目を一つずつ数えているように朱音には見えた。


巨鬼が身じろぎして殻がきしむたびに、男の目がほんの少しだけ動く。


焦れたように、巨鬼が両腕を振り上げた。


そのとき、男の唇が小さく動いた。


「――凛丸」


何と言ったのか、朱音には聞き取れなかった。


『今なんか言った?』

『なんて?』

『りん……?』

『リンゴ?』


男が床を踏んだ。


重い音がした。


抜いた瞬間は見えなかった。気づいたときには分厚い刀身が振り抜かれていて、男の体は巨鬼の脇を抜けている。


肩口から脇腹へ、鎧殻に一本の線が走った。


その線に沿って、巨体がずるりと斜めにずれる。


『…………』


上半身が床に落ちる鈍い音がして、巨鬼は黒い霧になって崩れた。あとには拳ほどもある魔石が一つ転がっているだけだ。


『は????????』

『え』

『斬った?今斬ったよな?』

『えぐ』

『CGだろ』

『生配信でCGは無理なんよ』

『SNSで流れてきた』

『逃げて!!!』

『↑遅いw』

『コスプレおじさんごめんなさい』


ホブゴブリンたちが一斉に後ずさる。


男は構わず群れの中へ歩いていき、一振りで三体、返す刀で二体を斬り伏せた。足取りは決して速くないのに、逃げる背中にもなぜか刃が届いている。


振るうたびに、ぶん、と重たい音が広間に響いた。あれだけの長さと厚みの刀を、男は小枝みたいに扱っている。


朱音が三回息をするあいだに、広間で立っているのは男だけになった。


男は刀を一振りして鞘に収め、それからぴたりと顔を上げた。


その先にあるのは、朱音の頭上に浮かぶ配信用のドローンだ。巨鬼を見ていたときと同じ目つきで、男はそれを睨んでいる。


「からくり鳥か」


男の手が、また柄にかかった。


「斬ってよいか」


「だめです!!」


自分でも驚くほどの大声が出た。背中の痛みも忘れて跳ね起き、両手を広げてドローンの前に立ちはだかる。


「それは斬らないでください!味方です、たぶん味方です、すごく大事なものなので!」


男の眉がわずかに寄った。


「あれはその、配信……ええと、皆さんに見てもらうための道具で」


言いかけて朱音は口をつぐんだ。これ以上説明しても、たぶん一言も通じない。


「……左様か」


男はしばらくドローンを睨んでいたが、やがて柄から手を離した。


『やめてwww』

『からくり鳥www』

『ドローン逃げて』

『先生がこんな顔するの初めて見た』

『古参マウントやめろ』

『ドローン目線で見てる俺らも斬られる?』


肩で息をしながら画面の隅に目をやって、朱音は固まった。


同接の数字が一万を超えている。見ているそばから、一万二千、一万五千と跳ね上がっていく。自分の配信で五桁の数字を見るのは、たぶん初めてだ。


朱音は痛む背中をさすりながら男の正面に回った。近くで見ると、首が痛くなるほど見上げなければならない。


男の肩越しに、あの暗がりが見えた。兄の声が聞こえたのも、あの奥からだった。


「あの……助けていただいて、ありがとうございました」


頭を下げてから、まだ手が震えていることに気づいて、朱音はそっと拳を握った。


「お名前をうかがってもいいですか」


男は少しだけ間を置いた。


「鷹守宗次と申す」


『鷹守?』

『地名じゃんw』

『鷹守市のご当地侍?』

『観光協会の回し者説』

『ゆるキャラにしては強すぎる』


同接は三万を超えていた。腰のポーチの中で、スマホの通知がひっきりなしに震えている。


けれど宗次と名乗った男は、コメント欄にも数字にも目もくれない。泥の奥からこちらを見る目は、ひどく真剣だった。


「して、今は天正何年だ?」


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