カラスと山男①
夏の山は、静かなようで、うるさい。
蝉の声。
葉擦れの音。
遠くで鳴く鳥の声。
湿った土を踏む音。
背中を流れる汗。
風間晴良は、額の汗を手の甲で拭った。
「……暑っ」
そう呟きながらも、その表情はどこか楽しそうだった。
社会人二年目。
平日は仕事に追われ、パソコンと書類と、たまに甲高い上司の声に囲まれている。
だからこそ、休日に山へ入る時間は、ハレにとって貴重だった。
田舎で育った頃から、自然の中にいる方が落ち着く。
大学進学で都会に出て、そのまま都会暮らしになった今でも、それは変わらない。
リュックの中には、小型バーナー、クッカー、水、ロープ、簡易救急セット、熊よけスプレー、スリングショット、予備の布、細かいアウトドア小物。
普通の登山者より、少しだけ物騒で、少しだけ準備がいい。
祖父の影響だった。
七十一歳になっても現役で山に入る猟師の祖父は、子どもの頃のハレ
に何度も言った。
山で一番強いのは、力のあるやつじゃない。
山を知ってるやつだ。
足元を見る。
風を見る。
音を聞く。
無理をしない。
逃げ道を残す。
それが、生き残るということだと。
「……じいちゃん、今日も暑いぞ」
誰に言うでもなく呟きながら、ハレは木陰の多い道を選んで進んでいた。
その時だった。
視界の端で、黒い影が揺れた。
「ん?」
一羽のカラスだった。
だが、様子がおかしい。
羽ばたきが弱い。
飛ぶというより、落ちないようにどうにか空気を掴んでいるように見える。
「おいおい、大丈夫か……?」
次の瞬間。
カラスは、ハレの目の前に落ちた。
ばさり、と乾いた音がした。
ハレは思わず足を止める。
「……え?」
カラスは地面の上で、ほとんど動かない。
呼吸が荒い。
羽がわずかに震えている。
「熱中症か? 鳥もなるのか?」
ハレは近づきかけて、いったん止まった。
野生動物に不用意に触るのは危ない。
怪我をしている動物ほど、何をするか分からない。
だが、目の前で弱っているものを放っておくこともできなかった。
「……落ち着け。まず確認」
ハレはゆっくりしゃがみ、距離を取ったまま様子を見る。
その瞬間だった。
カラスの身体が、淡く光った。
「……は?」
黒い羽が、ほどけるように空中へ散る。
輪郭が変わる。
小さな身体が伸びる。
羽だったものが髪になり、鳥の脚だったものが人の手足になる。
数秒後。
そこに倒れていたのは、黒髪の少女だった。
いや、少女というには少し大人びている。
年は二十歳ほどだろうか。
白い肌。
長い黒髪。
見慣れない衣服。
胸元には、淡く光る石のはめ込まれたペンダント。
ハレは固まった。
「……待て待て待て待て」
声が裏返る。
「カラスが、人になった?」
自分で言って、さらに意味が分からない。
暑さで頭がおかしくなったのか。
熱中症はこっちなのか。
それとも何かの撮影か。
周囲を見回す。
カメラはない。
スタッフもいない。
ドッキリの看板もない。
目の前の女性は、浅く苦しそうに呼吸していた。
「……水」
かすれた声。
ハレの思考が、一気に戻った。
「っ、そうだ。まず水だな」
異常事態ではある。
だが、弱っている人間が目の前にいる。
そこだけは、分かる。




