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第64食 驚異の襲来

 

 頭おかしくなっちゃいそう。


 楽しかった自宅お泊まり会も終わり、新しい週が始まった日。


 大学という孤独の海に放り出されたミツルは、そう思っていた。


「……えー、本日は以上です。夏休み明けからは『ミクロでマクロ。存在しないビジネスで成り立つ、巨大国家の罪と罰』の章に入りますので、期末テストが終わろうとも気を抜かず、休暇に入っても学習を忘れないように」


 やはり、講義内容はさっぱりだった。


 だが、本日の授業はこれで終わり、ようやく家に帰れる。


 気分が大きく浮き上がったミツルは、立ち上がりざまに愛用のトートバッグを肩にかけようとした、その時だった。


「愛されてますねぇ? 先輩」


 サイド丸刈りベリーショート。


 ヘソどころか、肩から腕からすべてが出ている、布面積の少ない攻めたファッションスタイル。


 同じ経済学部の後輩女子、リタが現れる。


「……どうしたの?」


 ミツルはため息を吐き、彼女に片手で押さえ込まれていたバッグから手を離し、座り直した。


「自分が思うに、もうちょっと鍛えた方がいいと思うんですよね。先輩、ちょっと華奢過ぎるというか。そんなんじゃ、何かあったとき、好きな子を守れないじゃないですか?」


 それっぽいことを言って、自らの欲望をひた隠しにする。


 こんなやつらばかりが、話しかけてくる。


 一刻も早く、好きな子のもとに帰りたいミツルは、核心を急いだ。


「何が言いたいの?」

「うち、植木屋なんすよ。万年、人手不足で困ってるんで、夏休み」

「お断りですぅ」


 即断る、アルバイトの誘い。


 最近、彼はちょっとした無茶で得た大金によって、扶養から外れなければいけないという業務連絡を実家にしたばかりだった。


「見つけたぞ、真菜ミツル」


 ボーダーのアームガードに、麦わら帽子。


 新たな変人、頂小五郎まで現れてしまった。


「あ……お久しぶりです。どうしたんですか、急に」


 約一か月ぶりの再会となった大学院生相手に、ミツルの脳内はすっかり関係性をリセット。


 どう接していたか、思い出せないままに話しかけてしまった。


「行こう」

「どちらへ?」

「草むしりだ」

「どこの!?」

「そんなもの、決まってるだろう? 行くぞ」


 コゴロー先輩のものすごい力が首根っこを掴む。


「答えてください、帰らせて下さぁい! 植木屋の娘ぇ、出番じゃなぁい!?」


 命の危険を感じたミツルは、すがるようにリタを見た。


「先輩が行くなら、行ってもいいっすけど」

「決まりだな」

「俺の意思は!?」


 憐れ、ミツル。


 今日の相手は、変人二人。


 リタとコゴローは、息を合わせて彼を引きずっていった。


「ちょっと、連絡だけ、させて!? ほんと、怒られるから!!」


 ミツルの悲壮な叫び声が、誰もいなくなった講義室に虚しく響いた。





 ――ミーンミンミンミーン。



 ――シャワシャワシャワシャワ。



 ――クワッ、クワッ、クワッ、クワッ。



 現地に連れ込まれたミツルは思った。



 鉾田に帰ってきちまったのか。



 それは、大学の広大な敷地の端の端に存在する、例のプレハブ小屋の前だった。


 小屋の周辺には、青々とした雑草が詰め込まれたビニール袋が、いくつも積み重ねられている。


 ひと月前と比べ、生い茂っていた草たちはその勢いを落とし、全体的にすっきりとしているように見えた。


 これ以上、草むしりは必要ないのでは。


 ミツルがそう思ったとき、真夏の熱気にムッとした湿り気を孕んだ、不快な風が吹いた。


 なんか、臭い。


 以前はしなかった、腐った魚のような生臭さを、かすかに感じた。


「なんですか、このニオイ?」


 コゴロー先輩は黙って小屋を指差し、ついて来いと手を振っただけだった。


 リタと顔を見合わせて、仕方なく後に続く。


 先輩が足を運んだのは、小屋の裏側だった。



 ――ツッチー、ツッチー、ツッチー、ツッチー。



 ――シャワシャワシャワシャワ。



 ――クワッ、クワッ、クワッ、クワッ。



 裏に回ってみると、虫の声が大きくなった。


 目の前にあったのは、大きな池だった。


 池の脇には高い葦が生えていて、すっきりとした周囲と比べると、そこだけ浮いて見えた。


 声を出してはいけない雰囲気を感じて、無言で先輩の顔を見る。



 中を覗いてみろ。



 先輩が両手を泳がせて、そう指示してくる。



 何だろう?


 蛇だったりしたら、危ない。


 万が一のことを考えて、よそのお嬢さんであるリタは残して、自分だけで池へと進む。


 生臭いニオイも、どんどん近づいてくる。


 嫌なことは、早く終わらせたい。


 ガサッと、一気に、葦の群れをかき分けた。



「クワーッ!!」

「イテェッ!?」



 おしゃもじ一発。


 お米がくっつきにくい、ボツボツ付きの、あのしゃもじで手を叩かれたと思った。


 反射的に手を引き、足元をよく見る。



「クワッ、クワッ、クワッ、クワッ」


 真っ白な羽を大きく広げて、黄色いくちばしを開いている。


 後ろには巣があって、卵を守っていた。


 そこにいたのは、アヒルだった。



「クワッ、クワッ、クワッ、クワッ」


 怒ってる。


 というか、さっきから虫たちの鳴き声に交じって聞こえてたのは、こいつの声だったのか。


 ……いや、だからなに?


 どうしたらいいのか、振り返って先輩の顔を確認する。


 先輩は、ポケットに手を突っ込んで立っていた。


「ダックが……巣を作っちゃってますけど?」

「驚いたか?」

「……はい」


 少しだけの沈黙。


 やがて、少しだけ口元を緩めた先輩が、厳かに語り始める。


「一番最初に、キミに見せたかったんだ」

「アンタ、本当に大学院生!? 大の男が『アヒル見つけたから、ミツルに知らせなきゃ』とはならんでしょ!? 警察なり、学生課なり、もっと他に動けるところ、あったと思いますけど!? あー、びっくりした!! なにかと思った、マジで!! 良かったぁ、鳥で。びっくりして、損したぁ」


 全身の力が抜けていき、そして考える。


 考えたところで、アヒルがここにいる理由も、先輩の行動原理も、マジでわからなかった。


「ちょっとダウナー系っすけど、素敵な先輩ですねぇ? 先輩」

「黙っててくれる!? なんかもう、頭おかしくなっちゃいそう!!」


 とどめは、リタが刺してくれた。



 いきなり現れた、水鳥の脅威。


 果たしてミツルは、この困難を乗り越えることができるのだろうか。


 時を同じくして、彼のトートバッグの中では、スマホが震えていた。


 それは愛の脅威、秋風ノイチからのラブコールに他ならなかった。

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