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第48食 いざ、覚悟の地へ

 

 《大型で非常に勢力の強い台風が、関東地方に――》


 秋風家のテレビには、全国共通の気象情報が流れている。


 普段は締まりのない表情をしているノイチも、さすがに緊迫した面持ちでそれを眺めていた。


「台風だって。おばあちゃん、今日はどこにも出かけないようにしてね?」

「はいよ」


 心配するノイチに笑顔を返す、弁聖ぼぎ。


 権威ある称号も、かわいい孫娘の前では形なしか。


 その膝では、今日も猫が丸くなっている。


 外はまだ雨こそ降っていないものの、時折、強風で窓がカタカタと鳴る。


 猫はそのたびに目を開けて、寝ぼけまなこで外を見ては、再び眠りの中に落ちていく。


 居間のふすまが、すっと開け放たれた。


 締まりのない顔代表、真菜ミツルの登場である。


「どこ行くの?」


 シェービングフォームの独特な匂いを嗅ぎつけたノイチはいち早く立ち上がり、ミツルへと歩み寄る。


 剃り残しを発見した彼女は、指で彼のフェイスラインをおもむろに撫で始めた。


「……バイト」


 真面目な表情を作ってきたのに、すぐコレだ。


 自分の情けなさに少しだけガッカリしたミツルは、短く告げた。


「でも、台風だよ?」


 どこから取り出したのか、ノイチは自分のフェイスシェーバーで産毛まできっちりと剃り上げてやる。


「仕方ないね。台風でも、行かないと」


 されるがまま。


 トリミングされる犬のようにじっとしながらも、ミツルは重々しく決意を口にした。


「私も一緒に行ってあげようか?」


 ノイチが親指でタップすると、シェーバーの振動が止んだ。


 窓の外に広がる雨雲は、昼間の街から光を奪っていた。


 それでも彼女の表情は明るかった。


「それはダメだ! 危ないから!」


 両手でしっかりと肩を掴み、彼女の身を案じるミツル。


 この日の彼は本気だった。


「ミツル……」


 肩越しに伝わってくる、優しい温度。


 鼻の先がくっつきそうになるほどまで迫った、真剣な瞳。


 鼻先をくすぐる、彼の匂い。


 さらには先日の、プロポーズ。


 ノイチの胸が高鳴らないはずがなかった。


「じゃあ、行ってきます。帰りの時間はどうなるかわからないから、また連絡するね?」


 ミツルは一瞬だけ、ノイチの薬指へと視線をやってから背中を向けた。


「いってらっしゃい……」


 チャンスを逃したかもしれない。


 そう思ったノイチは、ミツルが家を出た後、ほぼ一日をかけて『彼氏にキスをしてもらう方法』をSNSで必死に調べた。


 彼女が最終的にたどり着いたのは【ミッシェル・スーの素敵なクッキング】という、なんか頭良さそうなおばさんが料理をしているだけの、まったく関係がない動画だった。





 ――303,000円。


 出かける前に見た、あの指輪。


 最高に似合っていた。


 プレゼントしてよかった。


 ――303,000円。


 いち大学生に過ぎないミツルにとって、あまりにも重すぎる金額。


 だが、今日という日が、それをチャラにしてくれる。



【共同実験棟D】



 普段足を踏み入れることのない、工学部エリアにその建物はあった。


 無機質で巨大な四角い建造物を前に、ミツルは息を深く吸って気合いを入れ直した。


「いくぞ……」


 ワンダーランドは、すぐそこにまで迫っていた。


 覚悟を決めて、足を踏み入れた実験棟は外も白ければ、中も真っ白。


 棟内を突き進んだミツルは、指定された階段を降りる前に、周囲へと目を向ける。



 ――誰もいねぇ。台風だからかな?



 無人の空間にコツコツと足音を響かせ、たどり着いたのは地下も地下にある、実験室の前だった。


 待ち受けていたのは、アクリル窓付きのスチール扉。


 濁った窓からは、青白い光が怪しく漏れ出ている。


 扉のすぐ横には、インターホンも備えられていた。



 ――インターホン、何に使うの?



 雰囲気に呑まれそうになった彼は、またしても呼吸を整える。


「すぅー……」


 湿った空気の中に漂う、消毒液のような匂いが鼻をついた。



 ――あぁ、このニオイ……嫌なこと思い出しちゃった。



 俺が五歳くらいのとき。


 近所の団地の下のところの、Y字路。


 の! そのY字路の! ちょうど角に建ってる、耳鼻科でのお話。


 ちょっとヤンキー入ってる感じの、真っ赤なルージュを引いた金髪の、


 まあ、髪型で言えばパイナップルヘアっていうの?


 そういう、女看護師がいたの。


 すごいでしょ?


 今は離れちゃってるから、さすがにわからないけど、俺が子供の頃の茨城って、そういうとこだったの。


 で、その人は、診察台で暴れる俺をものすごい力で押さえつけてきたんだ。


 おかげで喉から鼻から、耳まですごいことやられちゃって。


 まあ、耳鼻科だから当たり前なんだけど。


 それにしても、思い返してみれば、あの頃から、俺の人生に諦めという概念が入ったのかもしれない。


 強引な女に弱いというか、なんというか。



 ミツルの思い出小咄は以上。


 《何してるの? さっさと入ってきて?》


「あ、はい」


 インターホンに向かって浅くお辞儀したミツルは、流されるがまま、ウカウカ先輩の研究室へと入っていった。

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