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第二部 保持宣言編 第一章 もう一つの手 1

 第二部 保持宣言編


 第一章 もう一つの手 


    1


 平穏ってやつは、たいてい仕事の量で分かる。


 海上観測施設で暮らすようになって二十三日目の朝、俺はそのことを思い知っていた。


 朝六時。

 観測室の隣にある小さな食堂には、いつもの顔が揃っている。


 冬月は壁際の端末で夜間の観測ログを見ている。

 結理はトレイを机に置く前に、もう二つの画面を開いていた。

 蓮は毛布を肩にかけたまま、リハビリ用の握力ボールを左手で弄っている。

 美羽は全員分の味噌汁を運び終えたあと、自分の席に座る前にまず俺の前へ湯呑みを置いた。


「飲んで」


「ありがとう」


「今日は三回目だから」


「何が」


「お兄ちゃん、朝からコーヒーしか飲んでないの」


 参ったな、と思う。

 最近、美羽は俺の生活習慣に妙に厳しい。


「保持宣言」以降、海上観測施設はただの逃げ場じゃなくなった。

 仮の多元窓口。

 接触派の観測拠点。

 そして、まだ名前を奪われていない側が集まる場所。


 一見穏やかに見える。

 でも実際は、毎日何かが起きていた。


 監査体の短い観測文。

 利用派の新しい起案。

 志奈星本社の法務的牽制。

 そして、保持宣言を見た人間たちから届く、奇妙な相談や通報。


 それらを全部、結理と冬月が振り分け、精査し、危険度順に並べる。

 俺と蓮は、その中で"実際に何が起きているか"の感覚面を担当する。

 美羽はというと――誰も正式に頼んでいないのに、朝昼晩の食事と生活リズムの維持を勝手に窓口化していた。


「人って、ごはん食べないと変な決断するから」


 この前、美羽は真顔でそう言った。

 怖いくらい正しい。


 右手の奥で、リリスが小さく笑う。


『この子、制度より先に胃袋を管理するのね』


「それが一番効くんだろ」


 心の中で返すと、リリスは少しだけ間を置いてから言った。


『否定できないのが悔しいわ』


 帰還格子を切ってから、リリスの輪郭は前よりずっと安定している。

 その代わり、疲れることも増えた。


 前なら平然と流していたような遠い観測ノイズで黙り込むし、

 美羽に「はじめまして」と言われたあの夜のことを、たまに一人で思い出している気配もある。


 "戻る型"を失って、本当に"私"だけで立つことになったんだろう。

 それはたぶん、自由になったのと同時に、今までよりずっと孤独でもある。


「静男」


 結理が、食堂のざらついたテーブル越しにこっちを見た。


「今日の午前、新規相談三件」


「どんな」


「一件は冷やかし。

 一件は宗教団体の勧誘。

 もう一件が、たぶん本物」


 トレイを置きながらそう言う。

 味噌汁には手もつけていない。

 冷めるから食えと言いたくなるが、言っても無駄なのは分かっていた。


「どんな本物だ」


「市内の複数公共表示板が、同時刻に同じ文章へ書き換わった」


 嫌な予感しかしない。


 結理は端末をこっちへ向けた。

 監視カメラから抜いた画像が並ぶ。


 駅前のデジタルサイネージ。

 商店街の電光掲示板。

 市民ホールの案内板。

 全部に、白い文字が一行だけ浮かんでいる。


 個は病気じゃないなら、病院へ返さないで。


 食堂の空気が少しだけ変わる。


「……誰かが、保持宣言を見た」


 冬月が低く言う。


 蓮が、そこで顔を上げた。

 右腕の固定布の下が、ほんの少しだけ脈打つ。


「こわい、におい」


 小さな声だった。


「いたいの、じゃない。

 でも、おなか、すく、みたいな」


『新しい子』


 リリスが、今までになくはっきり言った。


『しかも、まだうまく"私"になれてない。

 飢えてるのよ。

 名前の方へ』


 俺の箸が、そこで止まった。


 保持宣言を読んだ何か。

 病院へ返さないで、と公共表示板に書き換える誰か。


「場所は」


 俺が聞くと、結理はすぐ答えた。


「港北臨海科学館。

 もう閉館した旧プラネタリウム棟の周辺から最初の波形が出てる。

 監視ログの書き換えも、そこを中心に半径五百メートル」


 冬月が短く言う。


「行く」


「俺と結理で?」


「今はそれが一番早い。

 蓮はここ。

 美羽は中継。

 私は市内監視と利用派の動きを見る」


 話が早い。

 でも、それでいい。


 平穏ってやつは、こういうふうに朝飯の途中で終わる。


 味噌汁を一気に飲む。

 美羽が満足そうに小さく頷いた。


「よし」


「そこかよ」


「大事」


 言い返せない。


 右手の奥で、リリスが静かに囁く。


『坊や。

 今度は"戻らない"ってまだ言葉にできてない子かもしれない』


「だったら、言わせるんじゃなくて」


 小さく息を吐く。


「選ばせる」


『ええ。

 それでいいわ』


「そこかよ」


「大事」


 言い返せない。


 右手の奥で、リリスが静かに囁く。


『坊や。

 今度は"戻らない"ってまだ言葉にできてない子かもしれない』


「だったら、言わせるんじゃなくて」


 小さく息を吐く。


「選ばせる」


『ええ。

 それでいいわ』


 2


 港北臨海科学館は、海沿いの再開発から取り残された古い建物だった。


 新しいショッピングモールのガラス壁の向こうで、ひとつ前の時代の公共施設だけが、薄く色褪せたまま残っている。

 本館はまだ開いているが、旧プラネタリウム棟だけは三年前に閉鎖されたと聞いた。


 俺と結理は、保守会社の腕章をつけて施設裏手へ入った。


 昼前なのに、人は少ない。

 海風が強いせいか、周辺のデジタルサイネージの文字も少しだけちらついている。

 だが、今の俺にはそれ以上に、空気の奥に混じった"別の脈"の方がはっきり見えた。


 痛みじゃない。

 恐怖でもない。


 空腹に近い。

 でも食べ物じゃ埋まらない種類の空腹。


『名づけられたいわけじゃない』


 リリスが言う。


『でも、分類語に戻されるのは嫌。

 そういう飢え方』


 旧プラネタリウム棟の裏口は、半分開いていた。

 鍵が壊されたというより、内側からこじ開けた跡だ。


「利用派は?」


 俺が小さく聞く。


 結理は歩きながら端末を確認する。


「まだ掴んでない。

 でも、保持ラインの公共表示書き換えはもう拾われてる。

 早ければ二十分で市の危機管理。

 遅れて利用派も来る」


「いつもより少しだけ猶予があるな」


「そう。

 だから急ぐ」


 中へ入る。


 古い展示通路。

 剥がれたポスター。

 止まったままの自販機。

 暗い階段。


 プラネタリウム棟の中は、外よりずっと静かだった。

 その静けさの中心に、何かがいる。


 階段を上るたび、右手の熱が少しずつ変わる。

 痛みの方向じゃない。

 こっちを探っている感じだ。


『あちらも気づいてる』


 リリスが囁く。


『でも、逃げない。

 待ってるわ』


 二階。

 旧投影室の前で足が止まる。


 扉は閉じている。

 けれど、隙間から青白い光が漏れていた。


「結理」


「分かってる」


 彼女が端末を構える。

 施錠ログもカメラも死んでいることを確認してから、ゆっくりドアを押す。


 軋んだ音の向こうで、星が広がった。


 いや、星空の投影だ。


 閉館したはずのプラネタリウムの天井に、古いプロジェクターが勝手に生き返ったみたいに星図が浮かんでいる。

 でも、投影機は動いていない。

 光は、部屋の中央から出ていた。


 円形の観客席の一番上。

 そこに、一人の少女が座っている。


 十六か、十七くらい。

 セーラーでもブレザーでもない、紺のパーカーに黒いスカート。

 左手にだけ、ぐるぐると包帯が巻かれていた。

 黒髪は肩で切り揃えられているが、たぶん自分で雑に切ったんだろう。左右が少しだけ違う。


 そしてその左手の周囲から、青白い細い光が天井へ糸みたいに伸びて、擬似的な星空を作っている。


 少女は、俺たちが入っても逃げなかった。


 ただ、ゆっくりと顔を上げる。

 目は妙に静かで、でも眠れていない人間の目だった。


「……遅い」


 第一声がそれだった。


 思わず足が止まる。


「保持宣言の人たち、もっと早く来ると思ってた」


『いい子じゃない』


 リリスが小さく言う。


『でも、ちゃんと自分で待ってたのね』


 結理が一歩前へ出る。


「あなたが表示板を書き換えた?」


 少女は頷く。


「だって、他に届きそうな場所なかったし」


 そう言ってから、少しだけ視線を落とす。


「病院は嫌だったから」


 その言い方だけで、事情がだいたい見える。


「名前は」


 俺が聞くと、少女は少しだけ口元を歪めた。


「勝手につけないなら言う」


「つけない」


「……三隅紡」


 短く名乗る。

 そのあと、包帯の巻かれた左手を少しだけ持ち上げた。


「こっちは、まだ喋れない」


 青白い糸が、そこで少しだけ揺れる。


『うん』


 リリスが静かに言う。


『まだ生まれかけ。

 でも、嫌がり方はちゃんとある』


 紡は、俺と結理を交互に見た。


「それで?」


「何が」


「連れ戻す?

 保護する?

 様子見る?

 それとも、ちゃんと名前の方から聞く?」


 その一言に、少しだけ笑いそうになる。

 こいつ、最初から試してる。


「俺は諸井静男」


 名乗る。


「こっちは天城結理」


 結理も、短く頷いた。


 紡はそこで、少しだけ肩の力を抜いた。


「……じゃあ、とりあえず病院じゃなさそう」


「病院には連れていかない」


「本当?」


「本当だ」


「じゃあ、今は信じる」


 その返しが妙に早かった。


 でも、そこで信じたんじゃない。

 たぶん、"今は"という言葉を残したまま、こっちへ預けただけだ。


 大事なのはそういうところなんだろう。


「なんで表示板に、あの文を書いた」


 俺が聞くと、紡はプラネタリウムの天井を見上げた。


「保持宣言、見たから」


「どこで」


「まとめサイトと、その前の魚拓。

 消される前のやつ」


 さすがだな、と思う。

 今の時代、本気で残したいものは大体誰かが魚拓を取っている。


「個は病気じゃないって、書いてあった」


 紡はゆっくり言う。


「だったら、私もとりあえず病院じゃなくていいかなって」


 言い方は軽い。

 でも、その軽さの下に、どれだけ追い詰められていたかが見える。


「何があった」


 結理が聞く。


 紡はしばらく黙っていた。

 それから、包帯の下の左手を見て、小さく言った。


「学校で倒れた。

 そのあと、保健室じゃなくて、知らないクリニックに運ばれた」


 胃の奥が冷える。


「名前、つけられた?」


 俺が聞くと、紡は首を横に振った。


「症状名はつけられた。

 でもこっちは、まだ"私"じゃないから、名前つけるのも違う気がした」


 その感覚が、たぶん一番大事なんだろう。


 リリスが、骨の奥で小さく笑う。


『賢いわね。

 急いで名づけない方がいい時もあるもの』


「それで、逃げてきたのか」


 紡は頷く。


「逃げた。

 でも、もう一つある」


 顔が少しだけ強張る。


「私の問題じゃない方」


 嫌な予感しかしない。


「何だ」


 紡は天井の星図を見たまま、静かに言った。


「私より先に、剪定する側の匂いが来てた」


 部屋の空気が少しだけ変わる。


 結理の端末が、タイミングを合わせたみたいに短く鳴った。


「……市危機管理、入った」


「利用派は?」


「まだ。でも近い」


 紡はそこで、ゆっくりこっちを見る。


「ねえ、諸井くん」


「何だ」


「あなたたちが"多元窓口"ってやつなら、先に聞いとく」


 星の光が、その目に少しだけ映る。


「次に来るの、"私みたいな子"じゃないよ」


 喉が冷える。


「どういう意味だ」


 紡は包帯の左手を、少しだけ握り込んだ。


 青白い糸が天井で揺れる。


「監査体の匂い。

 もう一つ、地上に残ってる。

 それも、人の中」


 プラネタリウムの擬似星空が、そこで一瞬だけ乱れた。


「まだ"私"じゃない。

 でも、たぶんあなたたちを見に来る」


 結理が静かに呟く。


「……対面審査体が、一体じゃない」


 紡は、ゆっくり頷いた。


「うん。

 しかも、そっちはたぶん"待つ"のが上手」


 その言い方に、鷹瀬とは別種の寒気が走る。


 監査体の残り。

 人の中に入り、まだ"私"にも"剪定優先"にも振り切らず、ただ待っている何か。


 海の上でようやく一息ついたと思ったのに、世界はもう次の審査を始めていた。


『坊や』


 リリスが囁く。


『言ったでしょう。

 始まりよ、って』


 答えないまま、俺は紡を見る。


 新しい亡命個体。

 まだ名前を持たない左手。

 そして、もう一つ地上に残っている監査の匂い。


 保持宣言を出したことで、たぶんこういう連中はこれから増える。

 なら、ここで引き返す理由なんて、もう本当にどこにもなかった。


「行こう」


 俺が言うと、紡は少しだけ目を見開いた。


「どこに」


「名前がコードに戻されない場所」


 自分で言ってから、少しだけおかしくなる。

 随分大きいことを言うようになったもんだ。


 でも、間違ってはいない。


 結理が、そこで小さく口元を歪めた。


「保持宣言、運用開始だね」


「始業が早いな」


「嫌なら降りる?」


「まさか」


 紡はそのやり取りを見て、ようやくほんの少しだけ笑った。


「……じゃあ、今は信じる」


 プラネタリウムの偽物の星空が、その瞬間だけ少しだけ明るくなった気がした。


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