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エピローグ 名前の残る朝 9・10・11・12

 

   9


 監査体は、あれ以来まだ直接は来ていない。


 海の下の青い点は、遠くで時々脈打つ。

 観測スロットも、一日に一度か二度、短い応答を返してくる。


 長い会話はない。

 でも、最初みたいな"審査を開始する"一辺倒でもなくなった。


 最近の文言は、少しだけ変わった。


 比較継続。

 多元窓口の維持を確認。

 剪定優先群の再浮上を監視。

 名称保持群の安定を記録。


 言葉は相変わらず腹が立つ。

 でも、その中に"敵対文明"という表現はない。


 それだけで十分に大きい。


 冬月は、この状態を「停戦前の長い観察」と呼んだ。

 結理は「まだ相互評価の試用期間」と言った。

 迅は「猶予が続いているだけ」と言った。


 たぶん全部正しい。


 でも俺にとっては、もう少し単純だ。


 "見られている"だけじゃなく、

 "こちらも見返している"状態になった。


 それが今までとの違いだ。


   10


 聖麗学院のその後を、一度だけ見に行った。


 もちろん正式に戻ったわけじゃない。

 海上観測施設から少し離れた陸側の町で、迅と冬月のラインが慎重に組んだ短時間の外出だ。


 南門坂の下で、車を降りる。

 学校までは行かない。

 でも、あの坂と門の輪郭だけは見えた。


 柵の向こう。

 いつもみたいに制服の群れはない。

 報道のワゴンが一台。

 校門前に貼られた休校延長の紙。

 フェンスの内側を見回る警備員。


 すごく遠いのに、すごく近い。


「戻りたい?」


 結理が、助手席のまま小さく聞いた。


 少しだけ考える。


 それから首を横に振った。


「いや」


 自分でも驚くくらい、はっきりしていた。


「あそこに戻るんじゃなくて、もう少し別のものを残したい」


 結理は何も言わない。

 ただ、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 美羽は後部座席から窓の外を見ていた。

 そしてぽつりと言う。


「よかった」


「何が」


「静男が、"戻れない"って顔じゃなくなったから」


 その一言で、胸の奥が少しだけ熱くなる。


 リリスが、右手の中で静かに笑った。


『ほんと、この子には敵わないわね』


「同感」


 小さく返すと、運転席の冬月がミラー越しにちらっとこっちを見た。


「今、誰に同意したの?」


「なんでもないです」


「そう」


 追及しない。

 でも、たぶん半分くらいは分かっている顔だった。


 車がゆっくり発進する。

 南門坂が、少しずつ後ろへ流れていく。


 最下層だった俺が、あの坂を上ることはもうないのかもしれない。

 でも、それでいい。


 俺が守りたいものも、残したい答えも、もうあの校門の中にはない。


   11


 最後に、保持宣言の完成版はこうなった。


 保持宣言


 一、個は病気ではない。

 二、名前をコードより上に置く。

 三、怖い時に怖いと言ってよい。

 四、痛い時に痛いと言ってよい。

 五、失敗例ではなく、名前で呼ぶ。

 六、同意なき接続・切断を行わない。

 七、恐怖基盤補正の再現手順を残さない。

 八、責任と署名は消さない。

 九、誰か一人を"人類代表"にしない。

 十、何を残すかは、当人が決める。


 それは法じゃない。

 命令でもない。

 でも、少なくとも今の俺たちには、白い部屋や潮見の保全庫よりずっと強い。


 監査体に見せるためでもある。

 人間側に残すためでもある。

 そして何より、俺たち自身が"また分類語に戻されそうになった時"のために必要なんだと思う。


 保持宣言の下には、名前が並ぶ。


 諸井静男。

 諸井美羽。

 相良蓮。

 天城結理。

 冬月梓。

 林紹晴。

 天城迅。

 そして、リリス。


 全部、違う立場。

 全部、違う責任。

 全部、違う傷。


 でも、それでいい。


 違うまま並ぶことが、今の俺たちの答えなんだから。


   12


 ある夜、観測室のモニターへ短い文が一つだけ落ちた。


 監査体からの応答だった。


 多元窓口群を暫定記録。

 保持宣言を比較基準へ追加。

 次の審査は、地球文明自身の運用を見て判断する。


 それだけ。


 結理はそれを見て、小さく息を吐いた。


「宿題、増えたね」


 冬月は肩をすくめた。


「でも、採点表にこっちの文が入った」


 美羽は、意味が全部は分からない顔で、それでも笑った。


「じゃあ、ちょっと勝ち?」


 蓮が小さく頷く。


「ちょっと」


 俺はモニターの文字を見たまま、少しだけ笑った。


「そうだな。

 ちょっとだけ」


 右手が、静かに脈打つ。


『坊や』


 リリスの声は、ひどく穏やかだった。


『これで、ようやく始まりね』


「まだ続くのかよ」


『当然でしょ』


 少しだけ、くすりと笑う。


『だって、地球も、国家も、企業も、集合も、

 まだ"どう一緒に残るか"を知らないもの』


 その言葉を聞きながら、俺は海の向こうを見た。


 遠く。

 本当に遠いところで、青い点が一つだけ静かに光っている。


 敵でも味方でもない。

 ただ、見ている。


 たぶん、向こうもまだ答えを持っていないんだろう。


 だったらこっちも、急いで完成する必要はない。


 名前で呼んで、

 怖い時に怖いと言って、

 一人に代表させず、

 残すものをそのたび選ぶ。


 その繰り返しでしか、たぶん次の答えは作れない。


 俺は右手を軽く握った。


 スクールカースト最下層だった俺は、もうあの頃の"透明人間"じゃない。

 でも、世界の中心に立ちたいわけでもない。


 ただ、誰かの名前が勝手にコードへ変えられる瞬間だけは、

 今度こそ見過ごさない。


 それで十分だ。


 少なくとも、今は。


 (第一部 遭遇篇 終)


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