第二章 仮面の優等生 7・8
7
創立記念文化フォーラム当日、聖麗学院は普段とは異なる雰囲気に包まれていた。
東門に黒い車が何台も並び、校内では普段見かけないスーツ姿の大人たちが忙しなく動いている。
受付には花が飾られ、麗星ホールへ続く通路には学院の沿革を語るパネルまで立てられていた。
いかにも聖麗らしい。
綺麗で、上品で、大金の匂いがする。
『嫌いじゃないわ、こういうの』
右手の中で、リリスがくすりと笑う。
『大きな建前ほど、剥がれたときの音がいいもの』
「趣味悪いな」
『坊やにだけは言われたくないわ』
スマホが震えた。
結理からだ。
『予定通り』
『第三部の質疑、在校生枠を一人に絞る』
『F列左端のフロアマイク前にいて』
『私の合図まで喋らないで』
短い文面。
命令みたいで、でもその端々に張り詰めたものが滲んでいる。
『了解』とだけ返して、ホールへ向かった。
麗星ホールの中は、もうほとんど満席だった。
前方には後援者、来賓席。
その後ろに保護者席。
左右に理事、文化関係者、学院関係者。
生徒席はいつもより後ろへ押しやられていて、俺たちは"見守られる側"として整列させられていた。
壇上の中央には、深い赤の幕。
その前に演台。
左右に花。
頭上には学院の校章。
舞台の上だけ見れば、本当に立派な学校だと思う。
俺はF列左端、指定された位置へ座った。
すぐそばにフロアマイクがある。普段なら使われない位置だ。今日は「在校生との交流」だか何だかの演出で生かされているらしい。
『緊張してる?』
リリスが甘く囁く。
「してない」
『嘘』
右手が手袋の内側でわずかに動く。
図星だった。
ホールに人が増えるほど、空気は重くなる。
視線、期待、退屈、見栄、好奇心。そんなものが層になって沈んでいる。
事故のあとから、俺はそういう"見えない圧"に少し敏感になった。
気分が悪いわけじゃない。
ただ、人が多い場所ほど世界の輪郭がうるさくなる。
開演ベルが鳴った。
校長の挨拶。
理事長の挨拶。
創立者の精神がどうだ、文化の継承がどうだ、未来へ羽ばたく人材がどうだ――聞き慣れた綺麗事が続く。
生徒席の空気はだんだん死んでいく。
でも大人たちは頷きながら聞いていた。たぶん、内容じゃなく"その場にいること"に意味があるんだろう。
やがて、司会が声の調子を変えた。
「それでは本日の特別講演、伝統芸能の第一線でご活躍されている、御堂宗雅様をお迎えいたします」
拍手。
壇上へ現れた男を見た瞬間、少しだけ息を呑んだ。
御堂宗雅。
テレビで何度か見たことがある。
けれど実物はもっと圧があった。
立っているだけで空気が張る。
顔立ちは玲司に似ているのに、似ているだけでまるで別物だ。息の吸い方一つまで支配されているような感じがする。
その一歩後ろから、御堂玲司が現れる。
生徒代表司会。
白いジャケット、整えられた髪、静かな微笑み。
ホール中の光がこいつのためにあるみたいだった。
『ほんとに綺麗ね』
リリスが珍しく素直に感心した。
『でも中身を知ってると、ずいぶん薄気味悪いもの』
御堂は完璧だった。
来賓への挨拶。
父親の経歴紹介。
言葉の間。
視線の配り方。
どれ一つ崩れない。
朗読のパートでは、客席の空気が変わるのが分かった。
多分、本当に上手いんだと思う。
うますぎて、逆に腹が立った。
父親の講演が始まる。
芸の継承。
型を守ること。
役を磨くこと。
自分を律すること。
舞台とは、人が人を超える場所であること。
言葉は美しい。
声も低く、よく通る。
だけど俺には、その一つ一つが刃みたいに聞こえた。
役を磨く。
型を守る。
自分を律する。
それって結局、"自分の中身なんか要らない"ってことじゃないか。
スマホが膝の上で震える。
『あと七分』
結理からだった。
壇上では御堂宗雅が語り続けている。
その少し後ろで、玲司は息一つ乱さず立っていた。
あまりにも無傷で、あまりにも整っていて、昨日舞台袖で見た鏡の前の顔がまるで幻だったみたいに思えてくる。
でも違う。
あれは見た。
確かに見た。
『忘れないで、坊や』
リリスが囁く。
『あの子は強いんじゃない。壊れ方まで訓練されてるだけ』
スマホがもう一度震える。
『第三部、質疑に入る』
『最初の二問は予定通り』
『三問目であなた』
喉が乾いた。
右手が熱を持つ。
ここでしくじれば、何もかも終わる。
結理の言う通り、失敗したら多分、あいつも終わる。
俺だってただじゃ済まない。
それでも、立たないわけにはいかなかった。
8
拍手のあと、司会の玲司が一歩前に出た。
「それでは最後に、会場からいくつかご質問を――」
声は澄んでいた。
舞台の上の、完璧な生徒代表の声。
最初の一問は寄付者席から。
当たり障りのない質問。
芸の継承について。
御堂宗雅が格調高く答える。
二問目は保護者席から。
教育論。
これも無難に終わる。
そして玲司が、台本通りの柔らかな笑みを浮かべた。
「最後に、在校生から一問だけ受け付けたいと思います」
ほんの一瞬の間。
俺の前のフロアマイクに、青いランプが点った。
ざわ、と近くの生徒が振り向く。
先生たちの何人かが顔を上げる。
壇上の玲司だけが、微笑みを崩さない。
スマホが震えた。
『今』
俺は立ち上がった。
足が床に吸いつくみたいに重い。
でも一歩、また一歩とマイクの前へ出る。
ホールの空気が変わっていくのが分かった。
後ろの方で、誰かが「あいつ……」と小さく呟いた。
玲司の目が、真っ直ぐこっちを捉える。
逃げない。
いや、逃げられないんだろう。
この場では。
マイクの前で、一度だけ息を吸った。
「二年の、諸井静男です」
その名前だけで、ざわめきが走る。
教師席がざわつく。
理事席の誰かが身を乗り出す。
壇上の玲司の笑みが、ほんのわずかに浅くなる。
俺は続けた。
「御堂先輩に聞きます」
喉は乾いていた。
でも声は思ったより震えなかった。
「あの日、星見の断崖で、俺が落ちる前に――あなたは何を見て、何をしなかったんですか」
ホールが静まり返る。
誰かが息を呑む音まで聞こえた気がした。
「用意された言葉じゃなくて、あなた自身の言葉で答えてください」
言い終わった瞬間、心臓が跳ねる。
壇上の玲司は、数秒、まばたきさえしなかった。
そのあと、きれいに微笑んだ。
「諸井くん、ご質問ありがとう」
完璧な返し。
やっぱりこいつは簡単には崩れない。
「まず前提として、現在その件については学院が事実確認を進めていて――」
「それ、役だろ」
気づいたら、口から出ていた。
マイク越しに、自分の声がホールへ響く。
「俺が聞いてるのは、学院の言葉じゃない。お前の言葉だ」
一気に空気が張りつめた。
教師が何人か立ち上がる。
前方のスーツの大人たちがざわつく。
でも配信はまだ切れていない。結理が止めていないんだと、妙なところで冷静に分かった。
玲司の笑みが、そこで初めて止まった。
隣にいた父親――御堂宗雅が、ほんの少しだけ視線を向ける。
ただそれだけ。
でも、その一瞥だけで玲司の喉が動いたのが見えた。
「……ぼくは」
初めて、声が掠れる。
玲司は一度息を吸い直した。
多分、立て直そうとしたんだと思う。
「ぼくは、あの日――」
言葉が止まる。
客席のどこかでスマホの通知音が鳴った。
誰かが慌てて消す。
その小さな音さえやけに大きく聞こえる。
右手の奥がじり、と熱を持った。
遠くからでも分かる。
玲司の中で何かが噛み合わなくなっている。
役の言葉。
父の視線。
客席。
配信。
そして、"用意されていない質問"。
玲司の唇がもう一度動く。
「……見ていた」
その一言で、ホールが揺れた気がした。
教頭が立ち上がる。
司会卓の誰かが動く。
でも玲司は続けた。
「僕は、見ていた」
"ぼく"じゃなく"僕"になった。
その変化が、なぜか妙に生々しかった。
「止められたかもしれない。止めるべきだったとも思う」
声はもう綺麗じゃなかった。
少しずつ、形が崩れている。
「でも……止めなかった」
客席の空気が一気に冷える。
父親の宗雅が、低く言った。
「玲司」
それは叱責でもない。
ただ名前を呼んだだけだ。
けれど、その一言で何かが決壊した。
玲司が笑った。
いや、笑おうとして失敗した顔だった。
「だって、あそこで誰かの側に立ったら、僕の顔が汚れると思ったからです」
誰かが悲鳴みたいな声を上げた。
「久世を止める側に回っても、城崎を叩きつけても、正義ぶって前に出ても、全部、僕にとっては"汚れる"ことでしかなかった」
マイクが拾う声が、少しずつ荒れていく。
「だから見てた。見てるだけで済むなら、その方が綺麗に終わると思った」
その瞬間、客席の何人かが立ち上がった。
教師たちも動き始める。
でももう遅い。
玲司は舞台の真ん中で、一度も視線を逸らさずに続ける。
「諸井くんが落ちた瞬間、最初に思ったのは"これで僕は何もしなかった理由を持てる"でした」
息が止まりそうになった。
あまりにも、あまりにもそのままの言葉だった。
綺麗じゃない。
上品じゃない。
誰にも見せるつもりのない、本当に剥き出しの言葉。
玲司自身が、それに一番驚いている顔をしていた。
「……あ」
小さく漏れた声も、ちゃんとマイクが拾う。
そのとき、隣にいた宗雅が一歩前へ出た。
「以上だ」
低い声。
空気を切るような声だった。
でも玲司は、父親の方を見た。
「これでいい?」
ホールが凍る。
「父さん、これで綺麗?」
その呼び方だけで、客席のざわめきの質が変わった。
今までの"御堂先輩"じゃない。
そこにいたのは、誰かの前で初めて役を失った息子だった。
「中身なんか誰も見たくないんだろ」
玲司の声が震える。
けれどもう止まらない。
「失敗しても綺麗な顔をしろって。苦しくても見せるなって。役だけやれって。じゃあ今、見てる? これが僕の中身だよ」
その言葉が落ちた瞬間、ようやく配信が切れた。
でも、遅い。
切られる前に十分すぎるほど流れた。
録画だってされている。
この時代に、一度表へ出たものは戻らない。
玲司はそこで、ようやく膝をついた。
父親は動かなかった。
いや、動けなかったのかもしれない。
舞台の中央で、完璧な生徒代表が壊れていく。
それを、理事も寄付者も保護者も、生徒も、全員が見ていた。
俺はマイクの前に立ったまま、何も言えなかった。
勝った、とは思えなかった。
ただ――
仮面の裏が、本当に血の通った顔だったんだと、そんな当たり前のことを思い知らされていた。




