第十五章 人類代表 5
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完全な暗闇ではなかった。
海の下の青い光が、逆にくっきり浮かび上がった。
施設の電源が落ちた瞬間、監査体の断片群だけが海面の下で輪になって光っている。
甲板も、手すりも、人の輪郭も、その青い光でぼんやり見えた。
でも、通信は切れた。
結理の端末も。
冬月の観測卓も。
たぶん、普通の電源と回線は全部死んだ。
「お兄ちゃん!」
美羽の声だけが、近くで聞こえる。
「ここ!」
その声へ向かって左手を伸ばす。
小さな手が触れる。
それだけで、自分の位置がようやく確定する。
蓮も、すぐ近くで息を荒くしていた。
右腕の固定布の下が、青い光が不気味に浮かんでいる。
「蓮!」
「いる!」
それが聞こえただけで、少しだけ戻る。
「結理!」
「……いる」
少し離れた右側。
声は乱れていない。
無事だ。
冬月も、すぐ後ろで短く言う。
「全員、生きてる。
対面審査体は」
そこで、青い光が甲板の中央へ集まり始めた。
海面下の輪が、ゆっくりと上へ持ち上がる。
水そのものが、持ち上がっているみたいに見える。
その中心に、対面審査体が立っていた。
海保の制服を着た女の体。
その周囲を、青い細線が静かに巡る。
さっきよりも、人間離れした輪郭だった。
鷹瀬は、その正面に立っている。
手には黒い端末。
もう"国家代表"の顔はしていない。
ただ、取るべきものを取るために一線を越えた人間の顔だ。
「審査は十分だ」
鷹瀬が言う。
「比較は終わった。
人類側の統一窓口が必要という事実は変わらない。
だから、ここからは保護ではなく管理に移る」
対面審査体の青い目が、静かに鷹瀬を見た。
審査結果を捏造するのか。
「捏造ではない。
解釈だ」
「違う!」
思わず叫ぶ。
鷹瀬が振り向く。
青い光の中で、その顔はもうかなり剥き出しだった。
「違うだろ。
お前、今"自分が負けたから土俵ごと壊す"ってやってるだけだ」
「負けた?」
鷹瀬が笑う。
でも、それは完全に怒っている人間の笑いだった。
「諸井静男。
お前はまだ、勝ち負けを人間関係の延長で考えている。
違う。
私は、窓口を失えば文明そのものが他人の感情へ握られるのが分かっている」
「その"他人"って、お前にとっては美羽も蓮も俺も全部そうなんだろ」
「当然だ」
即答。
「国家の優先順位において、個人の存在は代替可能だ。
だからこそ、私は揺れない」
その言葉に、右手の熱が一気に上がる。
でも、その時だった。
対面審査体が、はっきりと言った。
「虚偽」
鷹瀬の顔が止まる。
「剪定優先群鷹瀬清人。お前は揺れている。名称を失わないために、"国家"という上位分類へ自身を隠している」
甲板の空気が、そこで一段だけ冷たくなる。
鷹瀬の目が、ほんのわずかに開く。
図星なんだろう。おそらく初めて、向こう側の何かにそう言い当てられた。
「お前もまた、個である。だが、お前は個であることを受容していない。ゆえに剪定優先群へ固定される」
「黙れ」
初めて、鷹瀬の声が完全に崩れた。
「お前たちに人間の何が分かる!」
「じゃあお前に、分かるのかよ」
俺が言う。
「蓮の痛みも。
美羽を失う怖さも。
リリスが"私"になる怖さも。
何一つ分かってないくせに、国家って言葉で押し潰してるだけだろ!」
右手が、そこで静かに脈打つ。
怒りだけじゃない。
帰ってきて。
名前を消さないで。
大丈夫にする。
その全部が、熱の芯にある。
対面審査体が、ほんの少しだけこっちへ顔を向けた。
「宿主諸井静男。継続するか」
「する」
迷わず言う。
「切らない。
名前も、選択も、簡単に捨てない」
青い光が、そこで少しだけ強くなる。
そして次の瞬間、対面審査体は鷹瀬へ向き直り、静かに宣言した。
「剪定優先群鷹瀬清人。比較対象から除外する。当面、代表性なし。人類文明の総意代理を認めない」
その言葉が落ちた瞬間、海面下の青い輪が一斉に広がった。
包囲艇のエンジンが、沖合でまとめて止まる。
甲板の灯りが一つ、また一つ落ちる。
鷹瀬が持っていた端末が、青い火花を散らして沈黙した。
「……っ」
鷹瀬の顔から、はっきりと余裕が剥がれ落ちる。
終わったわけじゃない。
でも、鷹瀬が"人類代表"を名乗る正当性は、今ここで潰された。
冬月が低く言う。
「取った」
結理が、暗闇の中で小さく息を吐く。
「やっと」
その時、鷹瀬の後ろにいた二人が微かに動いた。
拘束か、撤退か、それとも最後の一手か。
だが、対面審査体が青い目でそちらを向いた瞬間、二人とも止まった。
「暴力による補完を記録する。剪定優先群の再評価なし。退去を要求する」
"退去"という言葉が、妙に人間っぽく聞こえる。
鷹瀬は数秒、何も言わなかった。
それから、低く、ほとんど独り言みたいに言う。
「……まだ終わらない」
「そうだな」
俺も返す。
「でも、お前一人が"人類"を名乗るのは、今ここで終わりだ」
鷹瀬はそれ以上何も返さず、ゆっくり後ろへ下がった。
完全な敗走じゃない。
でも、少なくとも今夜の甲板では負けた。
海の上に、まだ青い光が揺れている。
施設の電源は死んだまま。
風だけが、誰の味方でもなく吹いていた。
美羽の手が、まだ俺の左手を握っている。
蓮の呼吸も、少しずつ落ち着いてきている。
結理の位置も、冬月の気配も、ちゃんと近くにある。
右手が、静かに脈打った。
『坊や』
リリスが囁く。
『今夜は、ちゃんと勝ったわね』
「勝ったっていうか」
息を吐く。
「やっと、"違う"って言わせたくらいだ」
『それを勝ちって言うのよ』
その言い方に、少しだけ笑いそうになる。
対面審査体は、まだ甲板の中央に立っていた。
青い線を体の周りに巡らせたまま、静かにこちらを見る。
「比較は継続。猶予期間を更新する。次は、人類内部の"誰が残るか"ではなく、"何を残すか"を問う。
「また宿題かよ」
思わず言うと、美羽が小さく笑った。
「そういう先生、いるよね」
こんな状況でその感想が出るの、やっぱりすごい。
青い光が、少しだけ柔らかく揺れる。
もしかしたら、あれは笑いに近いものなのかもしれない。
まだ分からないけど。
鷹瀬の船は、海の上でようやく反転を始めた。
志奈星の船も、少し遅れて灯りを落としながら離れていく。
夜はまだ終わっていない。
利用派も、企業も、監査体も、何一つ片付いたわけじゃない。
でも、今は確かに一本、大きな線を越えた。
国家利用派の"人類代表"は退けた。
名前を消す側じゃなく、名前で呼び続ける側が、少なくとも一度は勝った。
それだけで、今は十分だった。




