第二章 仮面の優等生 1・2
第二章 仮面の優等生
1
久世直哉が崩れた翌朝、聖麗学院は一晩で何事もなかった顔を作っていた。
さすが名門校だと思う。
腐ったものに蓋をする技術だけは、一流らしい。
登校途中、『S-LINK』に学院公式から通知が届いた。
『昨日の全校集会における配信音声の乱れについて』
『現在、機材不具合を含め事実関係を確認中です』
『憶測による情報拡散は厳に慎んでください』
『学院の秩序と品位を守るため、ご理解とご協力をお願いいたします』
品位。
またその言葉だ。
崖から落ちた人間より、配信の乱れの方が問題みたいな文章だった。
『素敵ねぇ』
右手の中で、リリスが喉を鳴らすように笑う。
『自分たちの物語を書き換えるのが早いこと。人間って本当に愛らしい』
「どこがだよ」
『だって必死だもの。真実より体裁を守る方が生存本能に近いのよ』
南門をくぐると、昨日よりずっと露骨な視線が飛んできた。
「諸井だ」
「昨日の見た?」
「保存してたの消されたって」
「久世、今日休みらしい」
「ていうか城崎もじゃね?」
教室に入ると、その話題は一瞬だけ止まり、すぐに不自然な静けさに変わった。
誰もが気になる。けど、誰も最初には触れたくない。そんな空気だ。
担任は出席を取り終えるなり、咳払いを一つした。
「昨日の件についてだが、学院からも通知があった通り、今は事実確認中だ。生徒間で不用意な発信をしないように。以上」
それだけ。
久世の欠席理由も、俺への確認も、何もない。
ただ"発信するな"だけが強調される。
城崎の席も空いていた。
空席が二つ並んでいるだけで、教室の温度が少し変わる。
でももう一人だけ、いつも通りの人間がいた。
御堂玲司。
窓際の前列で、朝の光を浴びながら文庫本を読んでいる。
背筋は伸び、髪は一糸乱れず、横顔だけ切り取れば絵画みたいだ。
女子が二人、三人と声をかけにいく。御堂は誰に対しても柔らかく笑って、同じ距離で言葉を返す。
昨日、同じ場所にいたはずなのに。
同じ崖の上にいたはずなのに。
こいつだけ、ひどく無傷に見えた。
『あれは上等な仮面ね』
リリスが珍しく感心したように言う。
『怯えも罪悪感も、表面に一滴も浮かばせない。坊や、あの子は久世よりずっと面倒よ』
「分かってる」
久世は脆かった。
触れた瞬間、内側から崩れた。
でも御堂は違う。
あれは、自分を演じることに慣れすぎている人間の顔だ。
一時間目の休み時間、廊下に出たところで、御堂の方から近づいてきた。
「諸井くん」
名前を呼ばれただけで、周囲の空気が少しだけ緊張する。
みんな聞いていないふりをしているけど、耳はこっちを向いていた。
「体調、大丈夫?」
驚くほど自然な声だった。
心配している優等生そのもの。
「……何の用だよ」
「ただの確認だよ。昨日も随分、無理をしていたみたいだったから」
昨日"も"。
その言い方に、薄く苛立ちが滲んだ。
「お前、随分余裕あるんだな」
「そう見える?」
御堂はほんの少しだけ首を傾げた。
その仕草すら計算されているように見えて、気分が悪い。
「久世くんのことは残念だった。彼、ああいう圧がかかる場に向いていなかったから」
切り捨てるのが早い。
仲間だったんじゃないのか。
少なくとも表向きは。
「残念、で済ませるんだな」
「何を期待してるの?」
御堂は笑っていた。
笑っているのに、その目だけが少しも笑っていない。
「泣けば満足する? 怒れば人間らしく見える?」
背筋が冷えた。
こいつは分かっている。
分かった上で、平然とその上を歩いている。
「君は昨日、久世くんを壊した」
声は小さいのに、妙にはっきり聞こえた。
「でも、舞台ってそういうものじゃないんだ。台詞を間違えた一人を責めても、芝居全体は変わらない。役者が一人落ちても、幕は上がり続ける」
「何が言いたい」
「君、少し勘違いしてる気がして」
御堂は文庫本を閉じた。
「昨日ので終わったと思ってるなら、それは浅いよ」
廊下の窓から差す光が、こいつの睫毛の影をきれいに落としている。
腹が立つくらい整っていた。
その時、右手がじわりと熱を持った。
触れていない。
なのに、何かが見えかける。
舞台照明。
拍手。
父親の低い声。
もっと笑え。
もっと美しく。
もっと"御堂玲司"でいろ。
次の瞬間には消えた。
掠っただけだ。
『空っぽね』
リリスが低く囁く。
『でも空っぽだからこそ、いくらでも形を変えられる。面倒だわ』
御堂は何も知らない顔で微笑み、すれ違いざまに言った。
「諸井くん。君は苛められている方が、美しいよ」
その言葉が、しばらく耳から離れなかった。
2
三時間目の終わりに、教頭室へ呼び出された。
予想はしていた。
昨日の件を、学院がこのまま放っておくはずがない。
教頭室は本館二階の奥にあって、入った瞬間に高そうな木の匂いがした。
壁には歴代理事長の肖像画。棚には寄贈品らしい銀細工。
いかにも"聖麗学院の権威"といった部屋だ。
ソファには教頭と生活指導主任、あと見覚えのないスーツ姿の男が座っていた。
男は名乗らなかったが、学院関係者というより保護者側の人間に見えた。
「座りなさい、諸井くん」
促されて腰を下ろす。
教頭は昨日までよりもずっと柔らかい口調で切り出した。
「体調はどうかね」
「普通です」
「昨日は、感情的になってしまった部分もあったのだろう」
もうその時点で話の方向は見えていた。
「君が大変な思いをしたのは理解している。だが、場の混乱を招くような形は望ましくない」
「混乱を招いたのは俺ですか」
生活指導主任がわずかに眉を動かした。
教頭は笑みを崩さない。
「責任論を急ぐ段階ではない、ということだよ」
便利な言葉だ。
責任論を急ぐな。
事実確認中。
憶測で話すな。
全部同じ意味だ。
つまり、黙っていろ。
「君の転落については、学院としても真摯に調査するつもりだ」
「じゃあ動画を出してくださいよ」
教頭の笑みが、ほんの少しだけ固まった。
「動画?」
「久世は昨日、自分で言ってましたよね」
沈黙が落ちた。
隣のスーツの男が、初めて口を開いた。
「君は今、非常に不安定な時期だ。記憶も感情も揺れている」
穏やかな声だった。
だけど中身は露骨だった。
――お前の言葉は信用できない。
そう言っているのと同じだ。
「諸井くん」
教頭が声を和らげる。
「君にはしばらく、休養を勧めることも考えている。無理に通学して、心身の負荷を高めるのはよくない」
出席停止とまでは言わない。
けれど自主的に消えろ、と言っている。
「俺が学校に来ると困るんですか」
「そういう言い方はよしなさい」
生活指導主任がやっと教師らしい叱責をした。
でも目は、俺より教頭の方を気にしている。
要するに、この場に教師はいない。
いるのは組織の顔色を見る人間だけだ。
ソファから立ち上がる。
「もういいですか」
「諸井くん」
教頭の声が少しだけ硬くなった。
「君の将来のためを思って言っている」
振り返って、俺は笑った。
たぶん、ひどく感じの悪い顔だったと思う。
「そういうの、昨日崖の上で言ってくれたら信じたかもしれません」
教頭室を出ると、肺の奥に溜まっていた空気がやっと抜けた。
『誠実な大人たちねぇ』
リリスの声は上機嫌だった。
『坊や、あの部屋、腐葉土みたいな匂いがしたわ。綺麗な木箱の中で、ちゃんと腐ってる』
「的確すぎて嫌になるな」
本館の廊下を歩いていると、途中の窓際に人影があった。
天城結理だった。
「盗み聞きか」
「聞こえる位置にいたのはそっち」
相変わらず表情が薄い。
でも、どこか昨日よりこちらに近い場所に立っている気がした。
「教頭、休学を勧めた?」
「自主的に消えろって遠回しに言われた」
「そう」
結理はそれだけ言って、タブレットをこちらに向けた。
画面には昨日の全校集会のログが並んでいた。
音声配信のオンオフ履歴。
映像切替。
マイクチャンネルの有効時間。
「これ……」
「久世のピンマイク、切られてない。正確には、切らなかった」
「お前が?」
「そう」
あっさり認める。
「なんで」
結理は一拍だけ黙った。
「あなたがどこまでやれるのか、見たかった」
腹立たしい。
でも、それが天城結理という女なんだろう。
「最低だな」
「前にも言われた」
「褒めてない」
「知ってる」
ほんの一瞬だけ、彼女の口元が動いた。
笑ったのかもしれない。でもたぶん、本人は認めない。
「御堂には気をつけて」
結理は画面を閉じながら言った。
「久世は追い詰めれば自分から崩れる。でも御堂は違う。自分がどんな顔をしているか、常に分かってる」
「知ってるよ」
「いいえ。まだ知らない」
その言い方が妙に引っかかった。
結理は俺を見たまま、静かに続ける。
「彼、自分に都合の悪い感情を表に出さないんじゃない。そもそも"表に出す用の感情"しか育ててない」
「……何だよそれ」
「役者の家で育った子よ。泣くことも笑うことも、最初から"見せるもの"だった」
廊下の向こうからチャイムが鳴った。
でも結理は動かない。
「今日の放課後、麗星ホールの舞台袖に来て」
「呼び出し多いな、お前」
「御堂玲司を壊したいなら、教室より舞台の方がいい」
言い終えると、結理はさっさと踵を返した。
呼び止めようとして、やめる。
右手の中で、リリスがくすりと笑った。
『いい子。ちゃんと餌を置いていくわ』
「餌って言うな」
『だってその顔、行く気満々じゃない』
否定できなかった。




