第一章 墜落と覚醒 5・6
5
復帰してから一週間。
その間に分かったのは三つ。
一つ。久世は俺を落としたことを完全には処理しきれていない。
二つ。俺の右手は、嘘と恐怖に触れると“見える”。
三つ。リリスはろくでもないが、今のところ俺の味方だ。
全校集会の日、麗星ホールはいつもより静かだった。
舞台の上には学院の校章。
壇上には校長、教頭、生活指導主任。
前列には教員、来賓、そして、四天会に所属する、役職持ちの生徒たち。
そして、後方にはカースト下層の生徒が、決められた列ごとに並ぶ。
俺はその後方の席で、黙って舞台を見ていた。
上品な学校の、上品な行事。
建前だけはいつだって美しい。
どいつもこいつも、品位と安全が大好きな顔をしていた。
舞台袖の機材卓に、天城結理の姿が見えた。
無表情でモニターを見ていたが、突然俺の方を向いた。
ほんの一、二秒。
こちらと目が合っても、何もなかったみたいにモニターに視線を戻す。
この集会の動画は学内SNSのS-LINKで同時配信もされているらしい。
情報棟とホールの映像は、天城結理が管理している――という噂は有名だ。
「では、生徒代表から一言」
司会の声で、久世が壇上へ上がった。
拍手。
綺麗な足取り。
非の打ち所のない笑顔。
「皆さん、お時間をいただきありがとうございます」
よく通る声だった。
代議士の息子ってのは、呼吸の仕方まで教わるのかもしれない。
「本日は、安全意識について改めて考えていただくため――」
俺は聞きながら、膝の上の右手に力を込めた。
『落ち着いて、坊や』
リリスの声は妙に優しかった。
『怒りだけでは失敗する。相手の一番柔らかいところを探して、そこをそっと撫でるの』
「お前の言い方、いちいち気持ち悪い」
『褒め言葉として受け取っておくわ』
壇上の久世は続ける。
「先日、本学院の生徒が校内危険区域で転落し、重大な事故となりました。幸い命は助かりましたが、これは一歩間違えれば――」
校内危険区域。
それを知っている口ぶりだった。
俺は立ち上がった。
周囲がざわつく。
でも、構わない。
舞台脇へ回り込む。教員が一人、止めようとしたが、俺の顔を見て言葉を飲んだ。
“事故の被害者”を無理に押し戻す絵面は、きっと学院の品位によろしくないのだろう。
舞台袖。
久世がスピーチを終えて戻ってくるタイミングを見計らう。
やがて拍手が起こり、久世が袖へ下がってきた。
俺の姿を見て、一瞬だけ足を止める。
「……諸井?」
「いい話だったな」
俺は笑わなかった。
笑ったら負けだと思った。
「何しに来た」
「礼を言いに。心配してくれたんだろ?」
久世の喉が上下する。
周囲には機材係の生徒と、数人の教員。
けれど彼らは皆、“何か面倒なことが始まりそうだ”という顔で距離を取っていた。
俺は一歩踏み込んだ。
「なあ、久世」
右手で、あいつの手首を掴んだ。
びくり、と久世の体が跳ねた。
熱が走る。
灰色の崖。
スマホの録画画面。
城崎の笑い声。
御堂の退屈そうな横顔。
そして、久世の心の底に沈んだ、ぐちゃぐちゃの恐怖。
――動画、まだある。
――消せよ。いや、消したら俺が怖がってるみたいだ。
――あいつが喋ったら?
――でも、目、覚めないかもしれない。
――頼むから死ぬな。死んだら終わる。俺が終わる。
『見えた?』
リリスが囁く。
『なら、押してあげる。ほんの少しだけ』
右手の奥で何かが脈打った。
俺は低い声で言った。
「事故だったんだよな、久世」
「っ……」
「お前、そう言ってたよな」
久世の顔色がみるみる白くなる。
「し、静男、離せよ」
「じゃあ、なんで動画をまだ持ってる」
その瞬間だった。
久世の胸元についたピンマイクが、まだ生きていた。
ホール全体に、かすかなノイズが走る。
誰かが気づいて慌てる前に、久世の喉が勝手に言葉を吐き出した。
「俺は押してない!」
麗星ホールが凍った。
久世自身が、一番驚いた顔をした。
「ち、違う、今のは――」
俺は手を離さない。
「押してない?」
「俺じゃない、城崎が……いや、そうじゃなくて、ちょっと脅しただけで、あんなふうに落ちるなんて思わなくて、動画だって、ただ――」
そこで完全に、自分が何を言ったのか理解したんだろう。
久世の口がぱくぱくと動く。
顔面蒼白。
機材係の生徒が青ざめてホールの方を振り向く。
舞台上では教頭が何か叫んでいた。遅い。
俺は静かに言った。
「事故、だったんだろ?」
久世の膝が折れた。
その瞬間、ホールのざわめきが爆発した。
「今の……」
「え、押してないって」
「動画?」
「城崎って言ったよな」
「配信、切れてないぞ」
S-LINKの通知音が、会場のあちこちで一斉に鳴り始める。
切り抜きが回ったのだ。誰かが保存し、誰かが拡散した。
この学校でいちばん速く広がるのは、いつだって“上位者の失点”だ。
教員たちが駆け寄ってきた。
久世は床にへたり込んだまま、「違う」「誤解だ」「今のは音声が」と意味のないことを繰り返している。
その少し離れたところ、機材卓の脇に天城結理が立っていた。
ホールの照明に照らされた横顔は、相変わらず人形みたいに整っている。
マイクの音声を切るタイミングは、いくらでもあった。
でも止めなかった。
俺と目が合う。
その目は冷たかった。
結理はほんのわずかに、顎を引いた。
肯定も否定もしない。
けれども同時に、何かが変わる瞬間を見届けた人間の目でもあった。
ただ、データは取れた、とでも言いたげな視線でもあった。
『上出来』
リリスが満足げに笑う。
『ねえ坊や。人間って、壊れるときは案外あっけないでしょう?』
俺は答えなかった。
床に崩れた久世を見下ろしても、思ったほどすっきりはしない。
ただ、胸の奥で凍っていた何かが、ほんの少しだけ動いた。
終わりじゃない。
これは最初だ。
6
その日の帰り、南門坂を下る頃には、学院中がその話で埋め尽くされていた。
久世直哉、自白。
転落事故はやはり事件だったのか。
城崎の関与。
動画の存在。
学校はまた隠蔽するのか。
スマホの通知が止まらない。
『マジ?』
『今の保存した?』
『消される前に回しとけ』
『学院の品位どこいった』
最後の一文にだけ、本気で笑いそうになった。
品位。
そんなものがあるなら、最初から俺は崖の下にいない。
坂の途中で、スマホがもう一度震えた。
差出人不明。
けれど学院内部ネットワーク経由だと分かる識別コードがついている。
『次は御堂玲司、あなたも、そう考えているんでしょう?』
足が止まった。
短い文面。
それだけで、送り主が誰なのか分かる。
天城結理。
『あらあら』
右手が手袋の中で小さく動いた。
『敵に回すには惜しい子ね』
「敵とは限らない」
『もちろん。だから面白いのよ』
夕暮れの坂を、同じ制服の生徒たちが何事もない顔で通り過ぎていく。
空は淡い橙色で、街はいつも通りで、世界は何ひとつ変わっていないように見えた。
でも俺の中では、もう元には戻らない何かが始まっていた。
崖から落ちて、目を覚ましたら、右手の中に得体の知れない女の子がいて。
そのせいで、人の恐怖や嘘が見えるようになって。
今は、あの上の連中を一人ずつ引きずり下ろそうとしている。
最悪だ。
本当に、最悪だ。
それでも。
「……悪くない」
小さく呟くと、リリスがすぐに笑った。
『ようやく認めたのね、坊や』
「勘違いするな。これは復讐だ」
『ええ、もちろん』
右手が、まるで機嫌よく呼吸するみたいにわずかに脈打つ。
『さあ。下剋上の時間よ』




