第六章 聖麗学院奪還戦 5・6
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真っ赤な非常灯の下では、白い部屋は一気に赤い血を連想させる毒々しい色の部屋に変貌していた。
さっきまで病院の病室の様にみたいに整然としていた室内が今は、壁も、十字架も、金属ベッドも、全部が赤く染まって見える。
扉の向こうでは、ガチャガチャと誰かが解錠を急いでいる音がした。
電子音。
金属の噛み合う音。
短い怒声。
「複製はできたか?」
俺が言うと、結理は画面を睨んだまま答える。
「五七パーセントで凍結。でもローカルに抽出した分は生きてる。半分は持てる」
「半分で足りるか」
「足りなくても、今はそれしかない」
その返事の速さだけが救いだった。
イヤーピースの向こうで、迅の声が低く響く。
『焼却準備は止まりきっていない。黒線を切っても、室内側に不活性ガスの注入と高熱ラインは残る。三分あると思うな。一分半で出ろ』
「最悪だな」
思わず吐くと、結理が短く言った。
「最悪じゃない。最悪は、全部焼かれて私たちだけ生き残ること」
そう言って、結理はSSDを引き抜く。ケーブルを雑に捌き、ポーチへ押し込み、次の瞬間には別のコマンドを叩いていた。
「何してる」
「内部投下」
画面には学院のロゴと、見慣れた『S-LINK』の管理画面が出ている。
「外部とのラインは切った。でも学院内の閉域網はまだ生きてる。なら、白い部屋が焼ける前に、こっちから燃やす」
「……何を」
結理は一度もこっちを見ない。
「候補者選別ログ。いじめ揉み消しの記録。補正計画。保護者向けと理事向けと、監督官庁向けに分散。あと『S-LINK』の全校一斉通知」
「今ここで?」
「今ここで」
その声は冷たかった。
でも、その冷たさの奥に震えるものがあるのが分かった。
「これで学院はもう"事故"って言えなくなる」
次の瞬間、扉の外からはっきり声がした。
「諸井くん!」
白衣の男だ。
「そのデータを置いて出なさい!今ならまだ、学院側と話し合いで――」
「話す?」
俺は笑いそうになった。
「俺をコード名で呼んでたくせに……」
扉が、内側へ少しだけたわむ。外からこじ開けようとしている。
そこへ、別の声が重なった。
「諸井くん! それを持ち出せば学院が終わる!」
教頭の絶叫だった。
こんな時でも、まず学院かよ。
「もう学院はとっくに終わってるぜ」
吐き捨てた瞬間、右手が熱を持つ。
結理が最後のエンターを叩いた。
『S-LINK 一斉配信:予約送信完了』
『保護者コミュニティ・外部監督先・学院理事会ミラーサーバー運用開始』
画面の端に、小さな進行バーが走る。
「よし」
「それで終わりか」
「まだ」
結理が奥の壁を指した。
白い十字架の真下。
一見何もない壁だ。
でもよく見ると、床際にわずかな隙間があった。
「排気シャフト。古い医療区画は、空気置換のために別系統の抜け口がある」
「さっきは"あるはず"だった」
「今はしっかり"見える"」
右手が、勝手にそこへ向く。
『早く』
リリスが囁く。
『ここの空気、もう変わり始めてるわ』
たしかに、息を吸うたび喉が少しだけ重い。酸素が薄くなっていく感じがする。
俺は十字架の下の白い壁へ手を当てた。
ひんやりした感触。
その下に、金属の枠。
そして、古いロック機構。
『右へ二センチ。その下へ』
言われた通りに指を滑らせる。
指先の骨が、壁の向こうの構造をなぞるみたいに動いた。
ばち、と微かな火花。
次の瞬間、床際の壁板が浮いた。
「開いた!」
結理がすぐにその隙間へ工具を差し込み、力任せに引く。
白いパネルが外れ、その奥に人一人が這って通れるくらいの暗い通路が現れた。
同時に、扉のロックが最後の一つを外す音がした。
「諸井、先に!」
「お前が先だろ」
「端末持ってる!」
言われて結理の背中を押し、通路へ突っ込ませる。
その直後、俺は白い部屋の奥にある金属ラックへ右手をかけた。
「何してる!」
結理が叫ぶ。
「ちょっと、遅らせる!」
右手の赫い筋が、裂けた手袋の下で脈打った。金属フレームの結合部へ指先を差し込み、力をこめる。結合部があり得ない角度で捻れた。
嫌な音がして、ラックが傾く。
次の瞬間、俺はそれを白い部屋の扉側へ押し倒していた。
サーバと資料棚がまとめて崩れ、扉を開けかけていた向こう側に激しくぶつかる。
悲鳴。
罵声。
その隙に、俺も通路へ飛び込んだ。
パネルを引き戻す。
外から何かが叩きつけられる音。
さっきよりは数秒稼げたはずだ。
「行け!」
結理が前で這い進む。
その背中を追いながら、俺は一度だけさっきまでいた白い部屋の方を振り返った。
赤い灯りの中で、壁の十字架だけが不自然に白い。
あんな場所に禍々しい祈りの印を吊るすような連中に、もう少しでも遠慮する理由はなかった。
6
排気シャフトの通路は、正直人間が通れる道じゃなかった。
狭い。
熱い。
埃っぽい。
膝と肘で進むたび、古い金網と配管に身体がぶつかる。
後ろからは、白い部屋の方で何かが破裂するような音がした。
「ガス入った!」
結理が言う。
「遅れたら意識飛ぶ!」
「そんなこと、もっと早く言え」
通路は途中で二手に分かれていた。上と、斜め前。
結理が一瞬迷った、その時だった。
イヤーピースの向こうで、美羽の声が飛ぶ。
『お兄ちゃん!』
「どうした」
『礼拝堂に人が来た。二人。星のマークをつけてる』
喉が冷たくなる。
志奈星の現場工作員だ。
『まだ気づかれてない。でも、こっち来る』
結理が舌打ちする。
「礼拝堂側が塞がれた」
「戻るなよ」
「てか、戻れない。上へ……」
そう言って、斜め前ではなく上の分岐へ身体をねじ込む。
「そっちに何がある」
「鐘楼の裏!」
なるほど、と思った。
聖歌堂の上部へ抜けるなら、礼拝堂の後方ではなく鐘楼やオルガン室側へ出られるかもしれない。
シャフト通路を上る。
狭さのせいで息が荒くなる。
熱い空気の中で、右手だけが妙に冷たく冴えていた。
『前』
リリスが囁く。
次の瞬間、足元の金網がたわむ。
危ない、と思うより早く、右手が配管を掴んでいた。
指が勝手に食い込む。
支えられる。
結理も止まる。
「今の……」
「落ちるとこだった」
「違う。その手、反応早すぎ」
言っている間にも、美羽の声が続く。
『見つかりそう。お兄ちゃん、礼拝堂の横に、鐘のロープがある』
鐘。
その一言で、結理と俺の頭の中に同じ絵が浮かんだ気がした。
「美羽」
俺は低く言う。
「ロープ、引けるか」
数秒の沈黙。
そのあとで返ってきた声は、少しだけ震えていた。
『……引ける』
「合図したら、全力で引け」
『うん』
迅の声が割って入る。
『何をする気だ』
「騒がせる」
結理が即答した。
『学院の品位サン・ディオス』
迅は一瞬黙ったが、すぐに言いなおした。
『やれ。学院はどうせもう壊れている』
珍しく、少しだけ皮肉が混じっていた。
上へ、上へ這い上がる。
やがて前方に薄い木の板が見えた。
その向こうから、礼拝堂の広い空気の匂いがする。
結理が指で三、二、一を示す。
「美羽、今だ!」
次の瞬間、聖歌堂の鐘が鳴った。
腹の底を揺らすような重い音だった。
ごうん、と一発。
続けて二発、三発。
古い鐘の振動が、壁と床とシャフトごと全部を震わせる。
礼拝堂の誰かが声を上げた。
足音が乱れる。
怒声が響く。
「開ける!」
俺が木板を蹴る。
古い格子が外れ、俺たちは鐘楼脇の細い回廊へ転がり出た。
目の前には、志奈星の男が一人いた。
星のピン。
耳元の通信機。
突然、虚を突かれ、頭上の格子から不意に人間が降ってきたんだから、さすがに対応が遅れる。僅か一秒。
その一秒があれば充分だった。
俺は右手でそいつの腕を払う。
掴むんじゃない。ただ方向だけを逸らす。
でもその一払で、男の持っていたスタンガンが壁へ叩きつけられ、火花を散らして落ちた。
結理が即座に男の膝裏を蹴る。
無駄のない動きだ。
二人目の男が、礼拝堂後方の通路から振り向く。
美羽の方だ。
「美羽!」
叫ぶと同時に、美羽が今度は鐘のロープじゃなく、祭壇脇の非常警報レバーを引いた。
甲高い警報音。
聖歌堂中の照明が一斉に点き、そしてすぐに非常灯へ切り替わる。
「こっち!」
結理が美羽の腕を掴む。
俺は振り向いた男の方へ一歩出た。
向こうは何かを取り出しかける。
武器か、注射器か、それともただの拘束具か。
見分ける前に、右手が熱を持つ。
『左手首』
リリスが言う。
言われた通りにその場所だけを払う。
男の手から細い注射器が滑り落ち、木の床へ転がった。
薬液が飛び散る。
透明な液体が、なぜかひどく毒々しく見えた。
「下がれ!」
男が叫ぶ。
でも誰に向けてか分からない叫びだった。
鐘と警報で、礼拝堂全体は喧騒につつまれた。
その時。
工作員どものあちこちのポケットで、一斉に通知音が鳴り始めた。
男の胸元。
倒れた工作員のスマホ。
礼拝堂の脇にいた学院職員の端末。
そして、たぶん校内のどこかで隠れていた全員の端末が。
『S-LINK』に一斉配信がもたらされた。
結理が、小さく言う。
「間に合った」
その顔は笑っていない。
でも、目だけが少しだけ強かった。
通知音は止まらない。
聖麗学院 候補者選別資料。
健康管理プログラム実態。
いじめ対応揉み消しログ。
補正計画。
保護者・理事・監督官庁へ配信流出済み。
校内にいる人間は、その断片だけでも見たはずだ。
鐘の音。
警報。
通知。
綺麗な学校の静けさが、全部一度に壊れる。
「走るよ!」
結理が言う。
俺たちは礼拝堂脇の側廊下へ飛び込んだ。
背後では、志奈星の男が端末を見て「何だこれは」と叫んでいる。
別の場所では、教頭の声らしい怒鳴り声が響いた。
もう遅い。
学院の"品位"は、今この瞬間に全校一斉送信で完全に失われたのだった。




