第四章 政府の影 10・11
10
業務用エレベーターが止まったのは、表示のない階だった。
扉が開く。
正面には、灰色の絨毯が敷かれた短い廊下。
壁は白い。継ぎ目が少なく高級ホテルの裏口みたいな作りになっていた。
気になったのは空気が静かすぎる空気の。
人の気配が消されている静けさ。
何かあっても、外には漏れないように作られた静けさだった。
『嫌いな匂い……』
右手の奥で、リリスが低く言う。
『綺麗に整えた檻の匂いよ』
廊下の先に、黒いスーツの男が二人立っていた。
警備員には見えない。警察にも見えない。
でも、だからこそ厄介だ。
迅が短く言う。
「下がっていろ。入れるのは私が許可した者だけだ」
二人は何も言わず、壁際へ寄った。
扉の前で結理が足を止める。
「先に確認する」
迅は止めない。
結理はポケットから小さな端末を出して、ドアノブ、天井の隅、壁面のパネルにかざしていく。
電波の強度。熱源。レンズ反射。
そこまで見るのか、と思った。
「録画機器は見えない。白色雑音あり。会話の外部取得は抑えてる」
「最低限だな」
結理が言うと、迅は淡々と返す。
「最低限で十分だ。記録を残す場ではないからな」
扉が開いた。
中は、広いわけでも狭いわけでもない応接室だった。
長机ではなく、丸に近い楕円のテーブル。
壁は白。窓はない。
水差しとグラスが置かれているが、花も絵もない。
"快適さ"より"刺激の少なさ"を優先した部屋だと一目で分かる。
俺は入ってすぐ、部屋の隅を見る。
非常口。換気口。監視の死角。
美羽は俺の左隣へ自然に座った。
何も言わなくても、そこが一番落ち着く位置だと分かっているみたいに。
迅は向かい側へ座る。
結理はその斜め横。俺と父親の間に、わざと少し角度をつける位置だった。
「まず一つ」
迅が言った。
「ここは正式な会議ではない。録音も議事も残さない。だが、だからといって無責任な場でもない。ここで決めたことは、少なくとも私のラインでは有効にする」
「少なくとも、ですか」
俺が言うと、迅は頷いた。
「国家は一枚岩ではない」
「便利な言い訳ですね」
「言い訳ではなく前提だ」
この男は、本当にそういう話し方しかしない。
迅は指を組まず、テーブルに片手を置いたまま続ける。
「君が昨日まで相手にしていたのは、学院と志奈星薬学公司が表で持っていた管理ラインだ。そこへ、我々の技術評価ラインが裏で接続していた」
「"我々"って、昨日も言ってましたね」
「言った」
「だから、その正体を聞いてる」
迅は短く息を置いた。
「国内安全保障側の技術調整会議。通称TSC-JP。省庁横断の仮設会議体だ。軍ではない。警察でもない。だが、そのどちらにも手が届く」
ぞっとしない説明だった。
むしろ分かりやすすぎて嫌だった。
「そして、内部は少なくとも三派に分かれている」
結理がそこで補足するように言う。
「利用派、管理派、接触派」
迅は娘を見ないまま頷いた。
「利用派は、君を技術資産として兵器化したい。
管理派は、危険対象として隔離・凍結したい。
接触派は、その右手の先にいる"何か"と対話可能性を見たい」
最後の一言で、部屋の温度が少し変わった気がした。
「……その右手の先にいる何か、ね」
俺が低く言うと、迅はようやく俺の右手を真正面から見た。
「否定はしないんだな」
「肯定もしてませんよ」
「それでいい」
迅はそれ以上は詰めなかった。
でも、その反応だけで十分に伝わった。
こいつらは、俺が右手の中の"誰か"と会話していることを、ほぼ確信している。
美羽が小さく俺を見上げた。
俺は何も言わない。
今ここで、その話まで広げたくなかった。
『言えばいいのに』
リリスが囁く。
『私、美羽には少し興味あるわよ』
「黙ってろ」
小さく呟くと、美羽が「やっぱりいるんだ」とでも言いたげな顔をした。
聞こえてはいない。ただ、近いのだ。
11
迅は封筒の中から数枚の紙を抜いて、テーブルの中央へ滑らせた。
一枚目は、俺のファイルだった。
ALICE-01
唯一の安定融合成功例
見慣れないコード名のはずなのに、もう見慣れ始めている自分が嫌だった。
二枚目には、もっと胸糞の悪い文言が並んでいる。
Selection Note
高神経可塑性
高共感同期傾向
家族アンカー強度:高
制度的保護:薄
何度見ても腹が立つ。
俺は紙を指で弾いた。
「制度的保護が薄いから、選びやすかったってことですか」
迅は否定しない。
「選びやすい、というより回収しやすい。問題化しにくい。介入後の情報制御が効きやすい」
「父さん」
結理の声が少し低くなる。
「そこ、よくそんな顔で言えるね」
「事実だからだ」
「あんたが作った事実でしょ」
「違う」
迅の返事は速かった。
「作ったのは環境の一部だ。崖から落としたのは私ではない」
「でも、落ちても拾えるようにはしてた」
結理の言葉に、わずかな沈黙が落ちる。
迅は娘をまっすぐ見た。
「そうだ」
その場の空気が少しだけ重く沈んだ。
結理はたぶん、否定なんて期待していなかった。
でも、実際に認められるとやっぱり削られるんだろう。
指先がほんの少しだけ白くなっていた。
迅は視線を俺へ戻す。
「志奈星が持ち込んだのは、薬剤ではない。内部呼称はAHS――Adaptive Host Symbiosis」
「対外表記がエイリアンハンド症候群、ですね」
結理が冷たく言う。
迅は頷く。
「一般医療で説明できない神経自律運動を隠すには便利な俗称だった」
便利。
隠す。
偽名みたいに病名を使っていたわけだ。
「融合には条件がある」
迅が続ける。
「単に脳損傷を修復すれば成立するものではない。神経可塑性だけでも足りない。恐怖耐性、情動変換速度、自己保存傾向。複数の指標が必要になる」
「それで俺が"当たり"だったと」
「半分は違う」
迅はそこで、初めて少しだけ間を置いた。
「君は候補として優秀だった。だが、それだけなら過去にも近い数値はあった」
「じゃあ何が違ったんですか」
美羽の手が、膝の上で少しだけ動いた。
俺の左袖をつまんでいる。
迅はその手を見るでもなく言った。
「アンカーだ」
「家族アンカーってやつか」
「正確には、相互性のある非所有的愛着」
言葉だけ聞けば綺麗だ。
でもデータシートの中にあると、ぞっとするほど醜い。
「多くの候補は、恐怖か怒りでしか出力を維持できなかった。志奈星はそこを好む。制御しやすいからだ」
「でも俺は違った」
「そうだ」
迅の声は低いままだ。
「君は守りたい対象が近くにいるほど安定し、同時に出力が伸びる。昨日の会議場で、それがほぼ確定した」
部屋が静かになる。
右手が、ゆっくりと熱を持つ。
でも暴れない。
美羽が隣にいるからだ。
「さっきの"止まれ"」
美羽がぽつりと言った。
「やっぱり、お兄ちゃんだったんだよね」
誰もすぐには答えなかった。
答えられるのは俺だけなのに、その俺がまだ言葉を持てなかった。
『坊や』
リリスが囁く。
『認めなさい。さっき届いたのは、偶然じゃない』
迅がその沈黙ごと受け取るみたいに話を進める。
「だから今、君を兵器化したい連中がいる。
隔離したい連中もいる。
そして、私みたいに"先に君自身と取引した方がまだ被害が少ない"と考える人間もいる」
「自分を一番まともだと思ってる顔ですね」
俺が言うと、迅は少しだけ首を傾けた。
「思っていない。だが、最悪ではない自覚はある」
本当に、腹の立つ男だ。




