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第四章 政府の影 7・8・9

   7


 視界が、そこだけ細くなる。


 ベージュのスーツの女が向きを変えた瞬間、周囲のざわめきも、ガラス越しの海も、迅の声も全部遠のいた。

 見えているのは三階の吹き抜けの縁だけだ。


 美羽が立っている。


 こっちを見ている。

 でもまだ、危険そのものには気づいていない。


 その横を、ベージュの女がエスカレーターの方へ回り込む。

 速い。

 不自然なくらい自然に、人混みを縫っていく。


「美羽――」


 声に出したつもりだった。

 でも、喉から音は出ていなかった。


 代わりに、右手の奥で何かがひっくり返る。


 熱い。

 痛い。

 なのに、その中心だけが妙に静かだ。


『掴んで』


 リリスが囁く。

 いつもの甘ったるい響きじゃない。

 ひどく近くて、鋭い。


『相手じゃない。あの子との結び目を』


 意味なんて分からない。

 でも、考えている暇はなかった。



 俺は無意識に右手を持ち上げていた。

 ベージュの女じゃなく、三階の美羽へ向けて。



 指先が、空気の中の何かを探るみたいに震える。


 その瞬間。


 視界の奥で、別の感覚が重なった。


 冷たい手すり。

 カフェの甘い匂い。

 少しだけ乾いた喉。

 そして――美羽の、俺を信じきっているみたいな、真っ直ぐな心拍。


 息が止まる。


 近い。

 触れてもいないのに、近すぎる。


『今よ、坊や』


 右手が脈打つ。


 俺は叫んだ。


 今度は、喉じゃなくて、もっと別の場所で。


 ――止まれ。


 声じゃない。

 命令でもない。

 ただ、それしかないみたいな衝動だった。


 三階の美羽が、ぴたりと足を止めた。


 まるで耳元で誰かに呼ばれたみたいに、びくっと肩を震わせる。

 その直後、反射的に一歩だけ右へ下がった。


 ベージュの女の手が、空を切った。


 つかみ損ねた指先が、美羽の肩じゃなく、バッグの持ち手をかすめる。

 中の本が一冊、吹き抜けの床に落ちた。


 乾いた音が響く。


 周囲の何人かが振り返る。

 ざわめきが広がる。


 同時に、二階の案内パネルが一斉にちらついた。

 エスカレーターの表示灯が赤へ変わり、警告音が鳴る。

 近くのスマホが何台かまとめて誤作動みたいに震えた。


 白衣の男の顔が、そこで初めて変わった。


「……外部送信」


 口の形だけでそう読めた。


 俺の右手は、まだ上に向いたままだった。

 指先が熱いのに、手のひらだけが妙に冷たい。


 そして分かる。


 今、美羽がどこにいるか。

 どのくらい驚いているか。

 それでも泣かずに踏みとどまっていることまで。


 ぞっとした。

 でも、離したくなかった。


「諸井!」


 結理の声が飛ぶ。


「そのまま維持して!」


 何をどう維持するんだよ、と言い返す暇もない。


 三階では、美羽が床に落ちた本を拾いもせず、俺の"止まれ"の続きを待つみたいに立ち尽くしていた。


『もう一つ』


 リリスが囁く。


『方向をあげて』


 右手の指先が勝手に少しだけ動く。


 ――右。階段へ。


 今度はもっと曖昧だった。

 言葉にすらなっていない、ただの向き。


 でも美羽は、それを聞いたみたいに顔を上げる。

 そしてエスカレーターじゃなく、奥の非常階段の表示へ目を向けた。


 ベージュの女が、初めて眉を寄せる。


 完璧な手順が、一拍だけ遅れた。


   8


 その一拍を、結理は逃さなかった。


 彼女の端末が素早く動き、次の瞬間、ラウンジ全体に事務的な音声が流れる。


『二階・三階間エスカレーターに設備異常が検知されました。係員の指示に従い――』


 人が一斉に動く。


 近くの案内スタッフが、本物か偽物か分からないくらい自然に誘導を始める。

 迅の側の人間だと気づくまで、一秒かかった。


 迅自身も、もう穏やかな窓口の顔じゃなかった。


「東側導線、今」


 低く短い一言。


 それだけで、吹き抜けの向こうにいたスーツ姿の二人が動く。

 観光客を装っていたらしい男たちが、さりげなく人の流れを切り替えて、三階から二階へ降りる正面動線を詰まらせた。


 国家ってやつは、こういう時だけ仕事が早い。


 白衣の男が一歩出る。


「天城さん、これは合意違反です」


「合意は壊れた」


 迅の声は低いまま変わらない。


「お前たちが家族に手を出した時点でな」


 ベージュの女はなおも三階へ行こうとする。

 でも、今は人の流れが邪魔だ。

 結理が作った設備トラブルと、迅の人間が作った誘導の壁が、彼女の速度を落としている。


 それでも白衣の男は諦めない。


 今度はまっすぐ、俺の方へ来た。


「諸井くん。接続を維持したまま移動すれば危険です。今、君自身の神経が――」


「黙れ」


 俺の声は、自分でも驚くくらい低かった。


 男の白衣の袖が視界に入る。

 あの手がまた俺に触れようとする。


 反射的に右手が動いた。


 掴んだのは男じゃない。

 ラウンジ脇に立っていた金属製の案内ポールだった。


 細い支柱を握った瞬間、右手の中で黒い熱が走る。

 あり得ない感触で金属が軋む。


 次の瞬間、俺はそれを床へ叩きつけていた。


 甲高い音。

 火花。

 周囲が悲鳴を上げる。


 白衣の男が足を止める。


 本当は、その胸ぐらを掴んでやりたかった。

 でも、触れたら多分、見たくないものまで見える。

 そしてたぶん、今の俺はそれを耐えきれない。


『正解』


 リリスが囁く。


『今は壊す相手を間違えないで』


「諸井!」


 結理がもう一度呼ぶ。


 三階を見る。


 美羽は、ちゃんと動いていた。

 俺の送った"右"に従って、非常階段の表示の方へ走っている。

 その脇を、ベージュの女が追おうとして、誘導中の客に一瞬だけ肩をぶつけられた。


 その遅れで十分だった。


『届いたでしょう?』


 リリスの声が、少しだけ息を弾ませる。


『今のが送信よ、坊や』


 送信。


 そんな言葉で片づけられるものじゃない。


 俺は今、遠くの美羽の恐怖と、こっちへ向けた信頼を、同時に感じていた。

 近すぎて、吐きそうになる。


 迅が短く言う。


「移動する。結理、妹さんを拾え」


「もう動いてる」


 結理は端末を操作しながら、吹き抜けの向こうへ視線だけを飛ばしていた。

 三階の非常階段の電子錠が、青へ変わる。


「開けた。美羽さんは入った」


 それを聞いた瞬間、右手の熱が少しだけ落ち着いた。


 だが同時に、白衣の男が低く言った。


「今ので確定です。愛着刺激に対する遠隔同期」


 迅の目が一瞬だけ細くなる。


「ここで記録を取るな」


「記録ではなく事実です」


「その事実をここで増やすなと言っている」


 言葉の温度は低いままなのに、二人の間に刃みたいなものが立った。


 俺はその隙に、結理の方へ駆けた。


「美羽は」


「東サービス階段の踊り場で待たせてる」


「行くぞ」


「ええ」


 ベージュの女がこちらへ向き直る。

 でも今は、もうさっきみたいな柔らかい顔をしていなかった。


 迅がその前へ自然に一歩出る。


「志奈星の現場はここまでだ。これ以上やるなら、会議場ごと公開事案になる」


 女は笑わない。

 その代わり、淡々と言った。


「後悔しますよ、天城様」


「それはお前たちだ」


 俺たちはそのやり取りを背中で聞きながら、東側のサービス通路へ走った。


   9


 非常階段の踊り場で、美羽は息を切らしていた。


 でも泣いてはいない。

 俺たちを見るなり、「こっち!」と小さく手を振る。


 その声を聞いた瞬間、右手の中で張っていたものが少しだけ緩んだ。


「大丈夫か」


「うん」


 美羽は頷いて、それから俺を見上げる。


「今の……お兄ちゃんだった?」


 息が詰まる。


 結理が一瞬だけこっちを見る。

 聞こえていたのか、という顔だ。


 俺は迷ってから、短く言った。


「たぶん」


 美羽はそれ以上は聞かなかった。

 ただ、少しだけ強く頷く。


「じゃあ、ちゃんと聞こえた」


 その一言で、背筋が震えた。


 やっぱり届いていたんだ。


 声じゃない何かが。

 感情の方向みたいなものが。

 距離を越えて。


『坊や』


 リリスの声は、今度は少しだけ静かだった。


『それがあなたの出力条件よ。怒りでも支配でもない。守りたいって思った時だけ、外へ伸びる』


 こんなタイミングで、妙に腑に落ちることを言うな。


 サービス通路の向こうから、迅が追いついてきた。

 その後ろには、さっきラウンジにいたスーツ姿の男が一人だけ。


 白衣の男もベージュの女もいない。

 一時的には振り切れたらしい。


「動く」


 迅はそれだけ言った。


「地下搬送路を使う。一般導線から切る」


「また別行動とか言ったら断る」


 俺が先に言うと、迅は一拍だけこちらを見た。


「了解した」


 短い返事だった。


 それから、美羽へ視線を向ける。


「兄さんは、君が近くにいる方が安定するらしい」


 美羽はすぐに俺の横へ半歩寄った。

 守られる側の動きじゃなく、守るために位置を取るみたいな動きだった。


「だったら近くにいます」


 その返しに、迅がほんのわずかに目を細める。


 驚いたのか、評価したのかは分からない。

 たぶん両方だ。


「……そうか」


 それだけ言って、迅は先に立った。


 サービス通路の扉を開ける。

 会議場の裏側は、学院と似ているようで違った。


 白い壁。

 無機質な照明。

 搬入口、業務用エレベーター、関係者専用の札。

 でも、こっちは"見せるための上品さ"じゃなく、"何かを円滑に運ぶための機能"だけで出来ている。


 歩きながら、迅が低く言う。


「今ので、向こうもこちらも確信した」


「何を」


「君の出力が、愛着対象の近接で安定し、同時に増幅すること」


「ここで分析するな」


 思わず吐き捨てると、迅は振り返らないまま返す。


「君が嫌がるのは理解している。だが、今のを言葉にしない方が危険だ」


「父さん」


 結理の声には苛立ちが混じっていた。


「今それをやる?」


「今しかやれない」


 迅は歩幅を変えずに続ける。


「志奈星はさっきの遠隔同期を見た。彼らは次から、妹さんを切り離す形で来る」


 その一言で、全員が黙った。


「こちらが先に整理しておかなければ、次はもっと雑にぶつかる」


 雑に。


 つまり、もっと強引に。


 迅が立ち止まる。


 業務用エレベーターの前だった。


「ここから先、一時間だけだ」


 振り返ったその顔は、また最初のラウンジでの"穏やかな窓口"に戻っている。


 でも、もう騙される気はしない。


「私の管理下に入れとは言わない」


「言ってたじゃないですか」


「それは交渉の形だ。今は違う」


 迅はポケットから別のカードを取り出し、こちらへ見せた。


 黒地に細い銀のライン。何の所属か分からない。分からないのが逆に怖い。


「地下の応接区画を一時間だけ使う。録音なし、正式記録なし。そこで今後の線を決める」


「信用できるわけないだろ」


「だろうな」


 それでも迅は淡々としていた。


「だから、君たちが持ち出したデータの自動放流設定はそのままでいい。止めろとも言わない」


 結理がそこで、ようやく少しだけ目を上げた。


 迅は娘を見ることなく言う。


「その上で、一時間だけ話せ。話して、無理だと思えばその場で切っていい」


「切って出られる保証は」


 俺が訊く。


 迅はほんの少しだけ、疲れたみたいな息を吐いた。


「ない」


 正直すぎて腹が立つ。


「だが、ここで志奈星と公開空間の取り合いを続けるよりはましだ」


 エレベーターの表示灯が点く。


 扉が静かに開いた。


 中は無人。

 鏡張りでもない、ただの業務用の箱。


 俺は美羽を見る。

 美羽は俺を見返す。


「お兄ちゃんが決めて」


 そう言われると、余計に重い。


 でも、逃げる方向だけを選び続けるのは、もう限界だと分かっていた。


 志奈星。

 学院。

 国家。

 結理の父。


 どれも嫌だ。

 でも嫌だというだけじゃ、美羽を守れない。


『選びなさい』


 リリスが囁く。


『今は"正しい相手"じゃなく、"まだマシな地獄"をね』


 最悪な助言だった。


 でも、その通りでもあった。


 俺は一度だけ息を吸って、美羽の肩へ左手を置いた。


「一時間だ」


 迅がわずかに頷く。


「十分だ」


 そう言って俺たちは、同じ箱の中へ入った。


 国家の影と、企業の執着と、学校の残骸を背中に押し込めたまま。


 エレベーターの扉が閉じる直前、通路の向こうでベージュのスーツが一瞬だけ見えた気がした。


 でも、扉は先に閉まった。


 下降の感覚が始まる。


 上へ逃げる話だったはずなのに、また地下へ向かっている。

 俺の人生、そういう方向にしか進まないのかもしれない。


 右手が、静かに脈打った。


『大丈夫よ、坊や』


 珍しく、リリスの声は少しだけ柔らかかった。


『落ちる時は、だいたい面白くなるもの』


 全然励ましになっていない。


 それでも、少しだけ息がしやすくなった。


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