井戸のそばで
古川様と禊の話が終わった私は、まだ暗い中、厠へと急いでいた。
トン、トン、トンと飛び石を渡り、厠近くの外に通じる井戸が見えてくる。
その横には、誰かが立っていた。
速度を落とし、誰が立っているのか、確認する。
装束からして、お屋敷の下女の人ではあるようなのだが、見覚えはない。
──以前にも、似たような事があったな。
そう思いながら私は、以前、『下女は名を名乗らないのがお作法』と聞いたのを思い出した。
会釈だけして、横を通り過ぎるつもりで歩いてゆく。
だが、その時、その下女らしき人から、
「もし。
お兄さん。
もし。」
と声を掛けられた。
──お兄さんか。
私は、普段から『お兄さん』などと言われた事がないので自分ではないだろうと思っていたのだが、下女らしき人がすれ違いざまに、
「お待ちなさいな。
お兄さん。」
と明らかに私を呼止めようとした。他に人もいないので、どうやら私を呼んでいたらしい。
だが、私はこの下女の顔を知らない。
それに、何となくこの人の存在に、違和感も感じる。
ちゃんと足がある事を確認し、少しだけ安心する。
私は、
「申し訳ありません。
今、急いでおりまして。」
と厠を指差すと、下女らしき人は微妙な顔つきになって、
「申し訳ありません。
後からで良いです。」
と諦めてくれた。
私は、
「助かります。」
と返事をし、厠に向かった。
厠の中に入り、用を足し始める。
格子から外を眺めながら、あの下女は、私にどのような用があるのだろうかと考えてみたが、今まで接点のない下女だ。何故、私が呼び止められたのか、心当たりがない。
ブルリと震えながら、最後まで用事を済ませる。
私は裏からこっそりと逃げる事も考えたが、この寒い中、ずっと待たせるのも悪いと思い直した。
ひとまず、下女らしき人の所に行く事にする。
私は、下女らしき人の近くまで行くと、
「すみません、お待たせして。
ただ、これから禊がありますので、手短にお願いします。」
と伝えた。すると、下女らしき人は、
「分かりました。
では、申し上げます。
山上様はこれから禊のようですが、本日はどのような用事で、どこに参られるのでしょうか。」
と質問してきた。
私は、一瞬、答える必要はあるのだろうかと思ったが、
「仔細は申し上げられませんが、特別な祝詞を上げに社まで。」
と答えた。すると、下女らしき人は少し困った表情で、
「いつ、行かれるので?」
ともう一度質問をした。
私は、午前中は大月様が来るという話だったので、
「午後からいくつもりです。」
と答えると、下女らしき人は、
「午後からですか。
頑張ってきて下さい。」
と表情を少し和らげながら話した。
私は、その表情に少し引っかかりを感じながら、
「はい。」
と答え、
「すみませんが、これで失礼しても?」
と確認した。すると下女らしき人は、
「申し訳ありません。
結構です。
お手数をお取りして、申し訳ありませんでした。」
と開放してくれた。私は、
「分かりました。
では、すみません。」
と断りを入れ、厠近くの井戸を後にした。
お勝手近くの井戸に移動し、古川様に白装束を取りに行く旨を伝えた後で、一旦部屋に戻る。
部屋に入ると、更科さんが、
「おはよう、和人。」
と朝の挨拶をしてきた。私も、
「おはようございます。
佳織。」
と挨拶を返す。更科さんが、
「今日は、大月様から作法を教わるんだっけ?」
と日程の確認が入った。恐らく、終わったらどこかに一緒に出かけようと誘いたいのだろう。
私は、話を先回りして、
「はい。
ただ、午後からは社に野暮用が出来ましたので、出掛けてくるつもりでして。」
と返すと、更科さんは、
「そうなんだ。
大変ね。」
と少し浮かない表情になった。私は、
「はい。
でも、社から早く帰れたなら、二人でお出掛けしたいですよね。
いつ帰れるかは、判りませんが。」
と返すと、更科さんは、少しだけ嬉しそうな声で、
「そっか。
でも、気にかけてくれるだけでも十分よ。」
と言ってくれた。
更科さんが、衣紋掛から白装束を持ってきてくれる。
私は、
「いつも、ありがとうございます。」
とお礼の言葉を掛け、更科さんに着替えさせてもらった。
着替えが終わり、古川様のいる井戸まで移動する。
お勝手から外に出ると、頬に冷たいものが当たる。
寒い寒いとは思っていたが、雪が降り始めたようだ。
私は、積もらなければ良いなと心配しながら、飛び石を渡った。
井戸に着くと、私は古川様に、
「おまたせしました。」
と声を掛けた。すると、古川様は、
「そんなには、・・・待ってないわ・・・よ。
よれより、・・・準備・・・出来てるから・・・ね。」
と返事をした。
私は、
「ありがとうございます。
いつも、助かります。」
とお礼を言うと、古川様は、
「どう・・・いたしまし・・・て?」
と返事をした。語尾が疑問形な点については、突っ込まない事にする。
古川様は、
「・・・では。」
と掛け声をすると、祝詞を上げ始めた。
少し、長目の祝詞が続く。
欠伸が出そうになったが、なんとか踏ん張り、最後まで祝詞を聞く。
それから水を3度被り、また祝詞を上げる。
これを3回繰り返し、漸く禊が終わりとなる。
私は、これでお昼から社に出掛けられると思ったのだった。
本日、所用のため短めです。
後、ネタの方もお休みです。(--;)




