遠慮が解けて早速
私たちが大杉城を出る時、さっきまで降っていた雨は上がっていた。
まだどんよりとした灰色の雲が消える気配はないが、降っていないのはありがたい。
門前の大通りを歩くと、普段と変わらない街の雑多な音に混じって、水たまりを踏むピシャッという音も聞こえてくる。他にも、微かにだが、雨樋で集められた水が茶碗の欠片を弾く音もする。
今は、復活した赤竜帝、蒼竜様、佳央様、田中先輩、お父様、そして私の6人で更科屋に向かっていた。
道中、蒼竜様が『名告ったら死人が出るであろうが』とか『狙って門から入らなかったのではないか?』など、赤竜帝を軽く叱りつけている。本来はありえないような光景なのだが、道行く人はこの二人がどういう関係かもわからないので、あまり気にする様子もなかった。あるいは、若い上司に叱られて大変だなと思ったご年配の方はいたかも知れないが・・・。
更科屋に着くと、蒼竜様は書状を掲げ、更科屋が無罪であることを宣言して遠慮をといた。
本来は奉行所の誰かが来て宣言するべきなのだろうが、蒼竜様のほうが身分は上だし、奉行所の人たちも今はそれどころではない筈だ。
蒼竜様は昨晩から残っていたお役人に指示を出していたのだが、私は蒼竜様に断って佳央様と二人、一足先に座敷に行った。
座敷に入ると、お祖母様から、
「首尾は?」
と聞かれた。
私は、
「上々です。」
と答えると、お祖母様は、
「これからが勝負だよ!
明日には店が開けられるように準備しな!」
と早速、号令をかけた。すると後ろからお父様が入ってきて、
「お母様、ここは私が声を掛けるところです。」
と困り顔で言ったのだが、お祖母様は、
「何も案を出せないやつが、今更何言ってんだい。
それより、茂も早く準備しな!」
と言って、すぐに動くように促した。
私は、お祖母様もお父様も、昨晩一睡もしていないはずなのに元気なものだと思った。
お祖父様は、ウトウトと寝ているようだったので、部屋に布団をひいいて寝かせておいた。
こちらの方が自然に思える。
ふと、実はお祖母様も寝ぼけていて、お父様に代替わりしたのを忘れて指示を出してしまったのかも知れないと思ったが、真実は不明だ。
一方、同心の人たちも一遍に疲れが出たようで、さっきまでピンとしていた肩肘を若干緩め、
「これにて、一段落でござるか。」
と言いながら雑談を始めていた。
まだ帰り始めていないのは、奉行所からの正式な指示がないからだろう。
私が更科さんの側によると、
「これで一安心ね。」
と話しかけてきたので、私も、
「はい。
まだ、風評被害は残るかも知れませんが。」
と返した。更科さんの笑顔が可愛い。
更科さんは続きの会話をしようとしたのだが、お兄様が割って入ってきて、
「済まないが、これから山並運送までひとっ走り行って、止めていた仕入れを動かすようにお願いしてくれないか。」
と言ってきた。私は、
「仕入れを動かすようにですか。
社長の所に、何か書付を届けるという事ですか?」
と確認すると、お兄様は、
「確かにその通りだ。
すまないね。
すぐ、お父様に準備させるから待っていていくれ。」
と言って、お父様に書付を書いてもらいに行った。
蒼竜様が遅れて座敷に入り、
「ご苦労である。
先ずは、こちらを読まれよ。
誰に渡せば良い?」
と言って、懐から書付を出した。しかし、同心の一人が、
「恐れながら申し上げます。
この現場は筆頭が仕切ってござれば、戻ってこねば、ここには相応の者が居りませぬ。
蒼竜様に指名していただけると助かりますが・・・。」
と恐る恐る言ってきた。蒼竜様は、
「なれば、そちが読み上げよ。」
と言って、その同心に書付を渡した。
恐らく、身分の高い人の書いたものを読む機会など無いのだろう。
書付を渡された同心は、手を震わせて受け取った後、緊張で声を震わせながら書付を読み上げた。
同心が書付を読み終わると、蒼竜様は、
「そう言うことである。
もう、奉行所に戻てもよいぞ。
大儀であった。」
と言って同心たちに労いの言葉をかけると、同心達は背を正し、
「ははっ!」
と土下座してから引き上げていった。
私も本当は眠かったのだが、蒼竜様に、
「これから上野組長・・・組合長に話をしに行こうと思います。
ですが、私も少し寝ぼけてきているようですので、付いてきてもらっても良いでしょうか?」
とお願いをした。すると蒼竜様は、
「ふむ。
奥方殿はどうする?」
と確認すると、更科さんは、
「すみません。
私は起きていられそうにありませんので・・・。
見送りまでにさせて下さい。」
と断った。やはりというか、更科さんもかなり眠そうだ。
私が、
「修くんは?」
と聞くと、更科さんは、
「さっき、棚の整理に駆り出されたわよ。
一応、小さい頃から仕込まれているし。」
と言った。私は、
「そうでしたか。
あと、杉元さんや他の女中さんも呼び戻さないとですね。
そういえば、ムーちゃんを見かけませんが。」
と言うと、更科さんは少し口をとがらせて、
「和人は、杉元がお気に入りだしね?」
と言ってきた。私は、
「いえ、ここの女中さんなんですから、多少なりともお世話になっていますし。
気に入っているとか、そう言う問題ではないじゃないですか。」
と言うと、更科さんは少し黙った。
なんとなく、沈黙が気まずい。
が、突然更科さんは笑いだして、
「こんなやり取りも久しぶりよね。」
と言った。私も、そう言えばそうだと思い、
「そうですね。」
と答えると、更科さんは、
「前はこんな時、一言目に私だけだと言ってくれたのに、そう言うのも忘れちゃったのね。」
と突っかかってきた。私は、
「もう、言わなくても分かるじゃないですか。」
と答えたのだが、たまたま通りかかったお祖母様が、
「あぁ、あったねぇ。
若いうちは、言われなきゃ不安なんだよ。
嘘でもいいから、言ってやりな!」
と言われた。私は、
「それじゃ、取って付けたみたいじゃありませんか。」
と言ったのだが、お祖母様は、
「いいんだよ。
どうせ、男なんて他所でも同じこと言ってんだろ?
だったら、形だけで十分さね。」
と言った後、
「あぁ、和人はまだそう言うのは覚えてないんだったっけねぇ。
後のは忘れな!」
と付け加えた。
お祖母様がこんな事を言うくらいだ。
おそらく昔、お祖父様が何かやらかしたのだろう。
私は、
「お父様も誠実そうですが。」
と言うと、お祖母様は、
「あれも、うちの旦那の子だよ?
そんな訳、あるもんかね。」
とはっきり言い放った。
お父様は部屋に入るなり、バツが悪そうにコソコソと部屋から出ていったので、本当に他所に女を作っているのかも知れない。
更科さんは、
「あっちはいいの。
和人は真似しちゃ駄目よ?」
と言ってきた。私は、
「そんな事しませんよ。」
と言ったのだが、いつの間にか竜人化した佳央様が、
「私だけだもんね?」
と言ってくっついてきた。私は腕に柔らかな感触を感じながら、
「いや、いや、いや、いや、いや。」
と否定して、更科さんの頭を軽くなでながら、
「佳織だけです。」
と言い返した。しかし更科さんが不満そうに、
「視線。」
と指摘してきた。
言われて気がついたが、私は無意識に佳央様の胸の辺りを見ていたようだった。
お祖母様が、
「嘘でも言えって言ったけど、いくらなんでもそれじゃ駄目だよ!
ちょっと考えれば分かるだろ?
本当に、男はどいつもこいつも。」
と言った後、壁の向こうに向かって、
「ほら、茂!
職人に依頼状やらなんやらを書いたんだろ?
ほら、とっとと渡しちまいな!」
と言ってお父様に出てくるように促した。
そういえば、さっきお父様は一度部屋に入ってきたが、本来は私に依頼状を渡しに来たという事なのだろう。お父様は部屋に入ってくると、
「お母様にはかないませんね。」
と苦笑いして、
「和人、これをお願いする。
明日からどのくらい売れるかも分からないが、少しづつでも物を仕入れないことにはお話にならないからな。」
と言った。私は、商売をするのも大変だなと思いながら、
「分かりました。
これから届けてきます。」
と言ったのだが、ここで蒼竜様が来て、
「いや、話があるゆえ、社長をここに呼んで参れ。」
と言ってきた。私が、
「社長をですか?」
と聞くと、蒼竜様は、
「うむ。
和人には、暫く竜の里で修行をしてもらおうと思っておってな。」
と言った。田中先輩が、
「急だな。
どうした?」
と聞くと、蒼竜様は、
「うむ。
山上なのだがな。
赤竜帝が思いつきで竜人格を与えたせいで、もう少しで大杉の守が腹を切るところであった。
岡本が昨晩、朝のうちに書状が着くように大げさに話したのが原因ではあるのだが、そもそも、その様になるように急かしたのが不味い。
結果的に、赤竜帝が人に対して借りを一つ作った形にもなった。」
と理由を話した。
そう言われると、あの時はすっかり頭に血が上っていて、何も考えずに岡本様を急がせてしまった。
結果的に、大杉の守が死にかけたというのなら私に非があったと言われても仕方がないだろう。
だが赤竜帝は、
「そのような些事は構わぬではないか。」
と言った。佳央様も、
「そもそも、元の原因は家老の水野でしょ?
大杉の守は監督不行き届きだし、和人のせいにするのもおかしくない?」
と蒼竜様に意見した。すると蒼竜様は、
「結果的にはその通りなのだが、髷を切った段階では、まだ犯人は不明だったゆえな。」
と理由を説明した。
大杉の守が髷を切ったのは、昨日の晩だ。大杉の守が以前から知っていて責任を取ったとも考えられるが、本人がいないので真偽は分からない。
佳央様が、
「なるほどね。
でも、そしたら誰が湖月村まで反物を取りに行くの?」
と聞いた。すると田中先輩は、
「とりあえず、その辺りはこっちで相談しておいてやる。
そこのご主人に条件を変えてもらうのが一番なんだが、ひとまず山上は社長を呼んでこい。」
と言って、私を送り出したのだった。
作中では、雨樋で集められた水が茶碗の欠片を弾く音を聞く場面があります。
江戸の街は基本的に瓦葺きで、雨樋も普及していました。
この雨樋は、瓦屋根の下に作った溝で、瓦から落ちた雨垂れの雫が飛び散って壁や柱にかかったり、地面を掘ったり雨水が染み込んで土台が弱くならないようにし、家が痛むのを抑える役割があったと言われています。
竪樋の下に割れた茶碗の欠片等を置くの家の保全の一環で、竪樋から出た水が地面に穴を開けたり飛び散るのを防ぐためなのだそうです。
昔の人もいろいろと工夫して、家を長く大切に使っていたということですね。(^^)
ちなみに、現在は塩ビなどで作られていますが、当時は竹を半分に割って節を取り除いたり、木の板をV字やコの字にして水が流れるようにして作られていたそうです。
・雨樋
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E6%A8%8B_(%E5%BB%BA%E7%AF%89)&oldid=77552549