字の練習
嫌な話が続いているので、息抜き回です。
野辺山さんと話しをした後、私は1階に降りた。
窓口の里見さんが伸びをしたのが見えたので、私は、
「お疲れ様です、里見さん。」
と声をかけた。すると、里見さんが盛大に咳き込んで、
「申し訳ありません。
変なところを見られてしまいまして。」
と気まずそうに言った。私は、
「一日は長いですし、暇な時間はそう言うこともありますよ。」
と言った。すると里見さんは、
「すみません。
実は、これから休憩に入るところでして。
本来は、休憩室に入ってから伸びをするなりしているのですが、今日はちょっと気が緩んでいたようでして・・・。」
としどろもどろだ。これだとまるで私が怒っているようなので、私は早速、
「いえ、もし手持ち無沙汰なら、少し字でも教えてもらおうかと思いまして。」
と本題を里見さんに話して、話を変えた。
里見さんは、
「ああ、そう言うことでしたか。
なら、練習のための本を持ってきますので、少々お待ち下さい。」
と言って、何やら本を持ってきた。突然後ろから、
「おっ!
拳骨の、久しぶりだな!」
と佐久間さんが声をかけてきた。
雫様の出身の竜の里の事件の後、資格の関係で中級冒険者である佐久間さんに護衛をしてもらった事がある。それ以前からも知り合いではあったが、たまに話すようになったのはそれからだ。
私は、
「お久しぶりです、佐久間さん。
今日はもう上がりですか?」
と挨拶がてら質問をした。佐久間さんは、
「ああ。
目当てのが、思ったよりも早く出てきてな。」
とにこやかに笑った。と、ここで里見さんが戻ってきた。
里見さんは、
「山上さん、いい教本が見つかりましたよ!
『冒険者往来』です。」
と言うと、佐久間さんが、
「おっ!
どうした、拳骨の。
今から、勉強か?」
と面白そうに言ってきた。私は、佐久間さんが『冒険者往来』を知っていたようだったので、
「佐久間さんも昔使ったのですか?」
と聞いてみた。だが、佐久間さんは、
「いや、俺は冒険者学校には行っていないからな。
去年から息子が行ってるんだ。
で、その本を見ながら、地面に字を書いて練習していてな。」
と楽しそうに話した。私は、
「あぁ、そう言うことでしたか。
というか、紙ではなく地面にですか?
確かに、その方が倹約して練習できそうですね。」
と言うと、里見さんが、
「冒険者学校でも、字の練習は砂場ですから。」
と言った。私はてっきり紙と筆だと思っていたので、
「紙に書いて練習はしないのですか?」
と聞いてみた。すると里見さんは、
「まだ小さいので、落書きとか平気でするじゃないですか。
紙だなんて、勿体なくて書かせられませんよ。
ちゃんと字を覚えたら、紙を使って練習させるんですよ。」
と言った。私が、
「そうなのですか?」
と聞くと、佐久間さんが、
「どうやらそうらしいぞ。
息子もとにかく早く、紙に書いて練習できるようになりたいって言ってな。
で、『どうしてそんなに早く書きたいんだ?』って聞いたら、なんて言ったと思う?」
と質問してきた。私は、
「何ででしょうか。」
と首をひねると、佐久間さんは、
「まぁ、分からんよな。
息子が言うには、紙に書くのは格好いいからだそうだ。」
と答えを言った。私が、
「そうなのですか?」
と聞くと、佐久間さんは、
「そうらしい。
なんでも、上級生は皆紙に書いて練習しているからだそうだ。」
と話した。私は、
「なるほど。
私にも兄がいますが、兄の真似がしたくてしょうがない時期がありましたよ。」
と同意すると、佐久間さんは、
「覚えがあるか。
ただ、息子は言っていなかったが、他の奴が出来ないことができたら優越感だろ?
だから、そう言うのもあって一所懸命に練習してるんだと思うぞ。
まぁ、学校もそれを狙って、何でも出来たら褒めているみたいだからな。」
と話をした。すると里見さんも頷きながら、
「おそらくはそうでしょうね。
私も学校に通っていた頃は、先生に褒められたくて必死になって覚えたものですよ。」
と同意した。私も、
「なるほど、上手く出来ているのですね。」
と言うと、佐久間さんが、
「息子たちには『台本通り褒めてるだけだろ』なんて、絶対言わないがな。」
と付け加え、里見さんが苦笑いしていた。
佳央様が、
<<それは良いとして、移動するの?>>
と聞いた。これから字の練習をするのなら、字の書きやすい砂地に移動したほうが良さそうだ。
里見さんは、
「ちょっと待っていて下さい。」
と言って奥に行った。
佐久間さんが、
「これから、文字の練習か?」
と聞いてきたので、私が、
「はい。」
と答えると、佐久間さんは、
「まぁ、奥さんに教えてもらうんじゃ、バツが悪いというのもあるか。
俺も少しは勉強したが、なかなかな。
でも、拳骨のなら高級でもやっていける腕はあるんだ。
早く文字を覚えて、試験が受けられるようになると良いな。」
と言った。私は、
「ありがとうございます。
まぁ、気長にがんばります。」
と言うと、佐久間さんは、
「おう、頑張れよ。」
と言ってから、なにか思い出したようで、
「おっと、俺はそろそろ行くな。
せっかくの早帰りだし、家で息子たちが待ってるからな。」
と言って冒険者組合を後にした。
里見さんが戻って来ると、
「あれ?
佐久間さんは?」
と聞いてきた。私が、
「折角の早帰りだからと言って帰っていきましたよ。」
と説明すると、里見さんは、
「そうでしたか。
まぁ、今度話すのでいいです。」
と言った。何か、佐久間さんに用事があったらしい。
里見さんは、
「あと、上司には山上さんに字を教えるということで、外出許可を貰ってきました。
1刻くらいなら出れますので、すみませんが、裏に来て下さい。」
と言った。私は、
「1刻ですか。
ありがとうございます。
では、また後で。」
と言って、冒険者組合の裏手に回った。
暫くすると、裏口から里見さんが出てきた。
私は、
「里見先生、今日は宜しくおねがいします。
私は恐らく物覚えが悪いと思いますが、お手柔らかにお願いします。」
と言うと、里見さんから、
「そんな、先生だなんて言われても・・・。」
と困ったようだった。
が、私はお構いなしに、
「いえいえ、先生ですよ。
これから字を教わるのですから。」
と言って軽く頭を下げた。里見さんは、
「・・・困りましたね。」
と言ってはいるが、悪い気はしていないようだ。早速、
「では、河原にでも行きますか。」
と言って、平村側の門から外に出て河原に移動した。
河原には、ちょうどよさそうな砂地がある。
なんでも、川の流れが曲がる内側は流れが少し淀むので細かい砂が溜まりやすいのだそうだ。
教本を開くと、里見先生は一時ずつ声を出しながら文字を書いていった。
それを私と佳央様が、声を出しながら真似て書いていく。
1刻ほどの間、延々、里見さんに字の練習に付き合ってもらった。
私は字はあまり覚えられなかったが、冒険者の心得だとか、冒険者が使う道具やその説明と言った内容は大変参考になった。
ちなみに佳央様は、私がまごまごしているうちにすっかり覚えたようで、途中から欠伸をする始末だった。私が注意すると佳央様は、
<<私はだいたい覚えたわよ。
和人、いつまでかかっているの?>>
と逆に怒られてしまった。里見さんが、
「佳央様の出来が良すぎるだけです。
普通は数ヶ月かけて、覚えるものですからね。」
と慌てていた。私は、
「そう言えば、佳央様。
字、読めましたよね?」
と指摘すると、佳央様は、
<<そう言えば、和人はひらがな以外、読めなかったわね。
まぁ、言い過ぎたわ。>>
と言って私に軽く謝ってきた。私は、
「いえ、謝られましても。」
と返したが、ふと思いついて、
「今日は里見さんがいましたが、いつも掴まるわけではありません。
佳央様が覚えたのなら、すみませんが字を教えてくれないでしょうか。」
と言うと、佳央様は、
<<考えとく。>>
と言って、今度は真剣に教本を読み始めた。
私は、佳央様もちゃんと解っていなかったのだろうと思ったが、指摘するほどのことでもないので、
「宜しくお願いします。」
とだけ言っておいたのだった。
日本は江戸時代、当時の先進国と比べても非常に高い識字率を誇ったという話を耳にすることがあります。
これは皆さんご存知、寺子屋でひらがなの読み書きや簡単な漢字を教わったていたからなのだそうです。
この寺子屋で使われていた教本ですが、農家なら、農業往来とか百姓往来、都市部なら商売往来といったその土地にあったものが使われていたそうです。ということで、本文中に出てくる『冒険者往来』は冒険者向けの往来物となります。(^^;)
で、国立国会図書館デジタルコレクションで当時の百姓往来等が無料公開されているようなのでちょっと見てみたのですが、宜しく崩れていておっさんが見てもさっぱり読めませんでした。(^^;)
・識字
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E8%AD%98%E5%AD%97&oldid=77151674
・寺子屋
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%AF%BA%E5%AD%90%E5%B1%8B&oldid=78485395
・往来物
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%BE%80%E6%9D%A5%E7%89%A9&oldid=71600267