迷う弓
夜。俺は手近なビルに忍び込んだ。非常階段を駆け上がり、屋上への扉をピッキングで開ける。
背中に弓、腰に矢筒、開襟シャツに羽織、腰にパーカーを巻いてスラックスにローファー、両手に手袋。俺の所謂仕事着だ。これに着替えれば、俺は烏となる。我等が敵をただ射る射撃手となれる。
屋上の扉を開くと強い風が吹き付ける。耳元で風がゴウ、と音を立てる。屋上に立つと、眼下の街が一望できた。しかし月は厚い雲に覆われ、俺の影すら写さない。これでは敵目掛け弓を射ることは困難だろう。仕方ない。
俺はそっと弓を構え、矢はつがえずに弦を引く。
「宵闇よ、明けよ。月よ、雲を割れ。我等を照らし給へ」
弦から手を離すと弓が音を立てる。その残響が無くなると、緩やかに雲が明けていく。月明かりに照らされ寒達の居場所も分かった。
「さて。やりますか」
ここから先は俺達の世界。宵闇の中でも一際黒い場所から渦を巻くように墨よりも黒い黒が吐き出され、異形を形作っていく。俺はその中の一体、人型に近い異形に狙いを定めて弓を引く。狙うは首筋。遠くから射れば確実に一撃で持って行ける。
「我こそは、三羽烏の夜を明かす者……」
弓を引ききる。三羽烏達が飛び出すと同時に矢を射った。
「明夜なり!えぇあっ!」
矢は真っ直ぐ飛んで行き……
異形の腕を刺した。
「っ!?外れた…?」
当たってはいる。だが致命傷どころか掠り傷にしかなっていない。俺も異形も特別な動きはしていないと言うのに、殆ど狙いを外さない俺の弓は外れた。
「っもう一度!喰らえェ!」
深呼吸、矢をつがえ、引いて、射る。今度は肩に相当する部分に当たる。
「何で……」
刹那、反射的に顔を逸らす。頬に焼けるような痛み。そこを拭ってみれば、手袋の一部が紅に染まっていた。後ろを振り返れば矢が刺さっている。
「敵の弓か……大方俺が射った弓から方向を察せられたかな……」
俺は一旦体制を低くして相手の出方を伺いつつ、自分の弓について思考する。
(考えろ俺、いつもどうやって弓を射っていた?心を落ち着かせ、集中して、思うがままに、導くがままに、それでいつも当たってた。外すことなんてなかった。今日に限って何で……考えろ俺、前回、前々回との違いを。俺自身の違いを。昨晩と今晩の間に何があった?)
「あっ、そうや、夢!」
思わず声に出ていた。心当たりといえばそれしかない。俺を悩ませ、蝕む過去の、追憶の夢。それは俺の心に少なからず迷いを生んだ。主将の言葉が甦る。
『武器はその時の心模様を反映す。汝が落ち着いていれば汝の実力なれば外すことはなかろうて。しかし、汝がもし怒りに任せ弓を引かば弓は暴れ、迷いながら引かば弓も迷い軌道は逸れよう。弓をどうするかは、明夜、汝次第だ。努々間違う事無いよう精進せよ。』
「……情けねぇ」
再度弓を射るが、当たるものの狙った箇所には掠りすらしない。結局その日、俺が致命傷を決めることも、俺の弓が狙った所に当たることも一度だって無いまま、決戦は終了した。
「なぁにが、兄貴分や、俺のアホ。弟分の脚引っ張ってさ、それで自己嫌悪するなんざただのアホやないか。過去にもまだ囚われてるくせに」
俺はビルの屋上に寝転がって目を閉じる。
「明夜」
「ああ、寒か」
「ああ、寒か、じゃない。反省会するで。皆お前を待っとるんやから。ところで明夜」
次の瞬間、寒は恐ろしい程低い声を出した。
「まさか今日に限って反省会参加出来ませんとかあらへんよな?家庭の用事があるなら五秒で片付けろ。無いなら即俺等の家に来やがれアホ。起きろ、一秒待ってやる」
俺は弾かれる様に起きた。
「寒」
「楽しい楽しい明夜の反省会やで。さぁ来い。弁明があるならそこで聞いてやる」