はじまり
抱きしめられた私は一瞬何が起こったかわからなかった。頭が真っ白になるとはまさにこのことだ。
「果歩・・・!よかった、中々来ないから心配していたんだ。さあ、はやくこっちに来て。着替えなきゃ」
彼はそう言って、公園の一角の建物に私を案内しようとした。何に着替えるのだろう・・周りもにこやかな表情で私を見ている。そしてその中には私の母親も混ざっていた。父親を亡くしてからずっと女手ひとつで私を育ててきた母。そして、高校を卒業して以来一回も会っていなかった母がなぜ彼の結婚式にいる?
私の頭の中にはあるひとつの仮定が浮かび上がっていた。しかし、ありえないとすぐ打ち消した。
状況が全く吞み込めずただ彼の言うままに連れていかれた私は、建物内の部屋に入り、驚愕した。いや、わかっていたのかもしれない、おそらくそうであろうということは。
部屋に入ると私を正面から迎えたのは純白のウエディングドレスだった。
「蒼、私にはあなたと結婚する予定なんてないはずだけれど。由衣さんはどうしたの?」
由衣さん・・私と蒼よりも1つ年上のきれいな人だ。そして蒼の彼女であり、今日結婚する予定であるはずの人。少しいたずら好きで人の悪口を言うこともしばしば。性格はいいとは言えない。しかし、さっぱりとした性格である由衣さんを私はかなり好いていた。たまに恨めしく思ったりはしたけれど・・・
「由衣・・・?ああ、高校のときの先輩だった・・由衣さん、招待はしたけど今日は来てないみたいだね。果歩・・大丈夫?僕と果歩は今日結婚するんだ。記憶を失ったなんて言わないでくれよ・・・?」
何がどうなってこうなったのだろうか。私が明らかに変な顔をするので、彼の表情は一層暗くなった。
やっと諦めようとしていたところへこの仕打ちか、蒼。記憶を失ったのは蒼の方であろう。彼の記憶の中から由衣さんと付き合った記憶がぽっかりと消えているようであった。つまりは由衣さんさえいなければ私は彼と幸せな学生生活を送れていたということになる。由衣さんという存在がなければ、私に勝機はあったのだ。
そう思えただけでもう十分だ。魔法よ、とけてくれ。彼のことは本当に好きだ。しかし、由衣さんの幸せを奪ってまで私は彼と共に過ごしたいとは思わない。彼と一緒になれたら・・・と何度も思った。振られた後は、精神的におかしくなった。急に泣き出したり、自分を叩いたり。食事も喉を通らず、6キロ痩せた。
そんなとき声をかけてくれたのは由衣さんだ。彼女は私の気持ちを随分前から知っていたらしい。
由衣さんは私に同情した。始めはなんて人だろうと思った。しかし、彼女のズバズバいう口調の裏には優しさがあった。それに気づいてから、私は由衣さんを支えに前を向くようになった。
だから、一瞬だけ、彼に抱きしめられた。それだけで、もういい。ありがとう、神様。十分これで諦められます。だからもうやめてください・・
私は確かにこのとき本当にそう思った。心からそう思った。
しかし、彼の記憶は戻らなかった。
そのまま私は言われるがままにドレスを着させられ、髪をセットされ、ベールをかぶった。
誓いの言葉を交わし、初めてのキスをし、皆に祝福されながら、結婚式を終えた。
母とも会話をした。久しぶりに近くで見る母の顔は疲れを感じさせた。私は自分の母へのあの行いを悔いてはいないが、こうして顔を合わせると、感じるものがあった。
母はただただ喜んで泣きながら祝ってくれた。
こうして私の運命にもう一つの道が現れた。