第一章 満月の夜に②
またあの子。
横断歩道の前、男の子が立っていた。
男の子が立っているのを見かけるようになったのは、祥子がこの街に引っ越してきて間もなくだった。
朝の通勤時間だ。
背格好を見ても5歳かそこらの子だ。到底一人でいるような年齢でも、時間でもない。
男の子はただ、ぼんやりと何かを、見ているようだった。
確かめるすべもなく、祥子が乗っているバスは、その横断歩道を通り過ぎて行く。
人にはいろいろな事情がある。振り返ればすぐそこには保育園が見える。この近所の子で、親がなんかの事情で送って行けないだけかもしれないし、勝手な推測を立て、帰る頃には、すっかりその子のことは、祥子の頭からなくなっていた。
残業した後、同僚に誘われて食事を済ましてきた祥子はバスの時刻表を見て、顔を顰める。
次のバスが来るまで30分。酔いを醒ますにはちょうどいいと思った祥子は、ふらふらした足取りで歩きだす。
朝はあまり気にならなかったが、駅から少し離れただけで、住宅も少なく店もない。 いっぺんに酔いが醒めてしまった祥子は足を速める。
横断歩道を渡り、道を一本折れると寂しさは増しだす。
引っ越して来たばかりで、この辺りの地理に詳しくなかった。暗くて自信がない証拠は不安が募りだした時だった。
一瞬、何かが燃えているように見えた祥子は、走り寄る。
彼岸花?
辺りを見回す。
ただ一本だけ色鮮やかに咲き誇るように、その彼岸花はまっすぐ咲いていた。
何も無い住宅街。
自生したものなのか意図的に植えられたものなのかその彼岸花は、凛とした姿で一本だけその赤を主張するように立っていた。その背後で月がいつもより大きく見える。急に背筋が寒くなった祥子は、足を速めてその前を通り過ぎようとして、立ち止まる。
今確かに呼び止められた気がした。微かにその声は、ぼくアキオクンと。
恐る恐る振り返った祥子は、風に微かに揺れている彼岸花が、こちらをじっと見ているような気がして、小さな悲鳴を上げ駆け出していた。
「お願い」
切実な声に、祥子は足を止めその場の舞い戻ってしまっていた。
自分でもどうしてそうしたのか分からずに、ただその彼岸花を見下ろしていた。
月がいつもより大きく見える。
祥子は、ハッと目を覚ます。
窓辺に活けられた彼岸花は満足げに月を見上げるように、薄暗い部屋で一際赤を目立たせている。
そうあの日から繰り返し繰り返し、祥子は同じ夢を見ていた。
弁解をするなら、落ちていた彼岸花を拾って帰っただけなのだが、心のどこかで罪悪感が生まれてしまっているのだろうか。
祥子は深いため息を漏らすと、再び瞼を閉じる。
眠らなければ。気だけが焦り、なかなか眠りに付けない祥子は起き上がり、眞s度を開け夜空に輝く月を見上げる。
どんな強い酒を飲んでも、酔いは回らなかった。
カーテンが揺れ、いつまでも月を眺める祥子の背で、ぼんやりと立つ少年に気が付きもせず、二杯目のウオッカに口を付ける。
躰が焼けるように熱くなる。
瞳からあふれ出す涙で、全てがぼやける。
髪の言何かが降ら滝がした祥子は振り返り、目を見張る。
そこには幼い少年が、ニッコリと微笑みながら立っていた。




