第二章 下弦の月⑤
「今日ね」
待ちかねていたかのように、祥子が公園に入って来るのを見つけたモモコが、絡みつくようについて回る。
祥子はニコリとそれに応える様に微笑みベンチに腰かけると、モモコも隣りに収まり、しばらく黙りこむ。
ふと、顔を上げたモモコの目には、涙でいっぱいになっていた。
「母様がね、私の大好きなカレーが出来たわよって、迎えに来る気がするの」
何年こうして待っているんだろう。祥子の胸も熱くなり、涙が零れそうになるのを堪える。
「同情はいらねーよ。そんなもんされると、ずっとこの場所から離れられなくなる」
タクの声が割り込まれ、キョロキョロと祥子はあたりを見回した。
「ならどうして?」
入口に立っているタクを見つけた祥子が、首を傾げて見せる。
「理屈じゃねーって、前に供養しに来た坊さんが説明していた」
じっと見つめる祥子から、目線を外したタクが続ける。
「大家が、気味悪がって呼んだんだ。借り手がいなくなるかって。そしたらその坊さんが、念を残させちゃダメだって言ってた。だからきちんと納得するまで供養してやれって。アキオも俺もモモコさんも、お経とか菓子とかそんなもんは望んでないんだけどな」
「母様が作ってくれるカレーは、世界一美味しいの。本当よ」
「本当に楽しみなのね。モモコさんのお母様に会ってみたいわ。きっと優しい人なんでしょうね」
モモコは、首を振って見せる。
「母様は疲れているの。とてもとても疲れて、だから……」
言葉を詰まらせたモモコは、そのままじっと地面を見つめたまま黙り込む。
ベビーカーを押した母親が公園に入って来るのが見え、モモコは、すっと姿を消す。
祥子は、若い母親と目が合い、ぎこちない笑みで会釈し近づいて行く。
「こんにちは」
屈託がない笑顔で話しかけれ、祥子は面食らってしまった。昨日とは別人のようだった。
「寒くなったわね」
「そうですね」
祥子は止められたベビーカーの中を、そっと覗きこむ。
「おいくつなの?」
「一歳です」
一歳にしては小さいなと思いつつ、抱いてもいいかしらと尋ねる。
「この子、人見知りが激しいから」
さらりと断られ、祥子は宙に目を泳がす。
タクの姿が見えない。
約束では、抱けるようにするってことだったんだけど……。
寝ていた赤ん坊の手がぴくぴくと動き、火がついたように泣き始めた。
「あらあら大変。おしめでも濡れてしまったのかしら?」
祥子にそう言われ、若い母親はぎこちない手つきで赤ん坊を抱き上げる。
「貸してみて。子育てではあなたよりずっと先輩だから」
自分が着て来たコートをベンチに敷き、強引に赤ん坊を母親の手から奪い取ると、祥子はその上に赤ん坊を寝かせた。
「おむつを見ましょうね」
足を持つと赤ん坊の泣き方が激しくなり、若い母親の顔色が変わった。
「これは?」
太ももに大きなあざが出来ていた。お尻もかぶれが酷く、満足に体を洗って貰ていないのが一目で分かった。
「ち、違うんです。ここのところ、体調を壊していて、今日帰ってからお風呂に入れるつもりだったんです。信じて下さい」
タクが現れたのを、祥子は目の端で確認する。
「でも……」
もしかして、虐待?
その母親の肩越しにいる、タクが頷く。
タクの手がすっと伸び、若い母親がかぶっている帽子を剥がす。
慌てて髪で隠そうとする若い母親の頬は、赤黒いあざが出来ていた。
祥子の目を逃れようと、背を向ける若い母親に、大丈夫なのと震える声で訊いた。
「大丈夫です。ちょっと転んでしまっただけですから」
帽子を被り直した若い母親の手を、祥子は咄嗟的に握っていた。




