【019】影の領域
影に沈んだカサンドラとアーサーは、お互いの姿ははっきりと見えるのにそれ以外は何も見えない闇が広がる場所に降り立った。
カサンドラが前世のインターネットで見た、可視光の九九パーセント以上を吸収する塗料をまんべんなく塗りたくったかのようなその空間は、日の光に依存して生きる生命へ根源的な不安を与えてくる。カサンドラとて初めは、自らの姿だけがはっきり見えるという不可思議に気を取られていなければ、すぐにでも気が狂ってしまいそうだと思ったものだ。結局は、意外と慣れてしまったが。
「ここは、いったい……?」
「いらっしゃいアーサーさん。影の領域へようこそ、人間を案内するのは師匠以来だわ」
ぐるりと見渡しても上下前後左右に漆黒が広がるのみで何も無く、けれども面を踏みしめて立つ感触がある奇妙な空間に、腰を抜かして座り込むアーサーは戸惑うばかりである。
真っ黒なその空間はどこまでも広がっているように見えるが、外の世界で強く日が当たっているところには見えない壁があって入れない上に、有効視界範囲が意外と狭い。暫定仕様のまま放置された能力であるためか、この領域も結局は突貫工事なのだろうとカサンドラは溜め息を吐きたくなる。この能力は便利だが、本当に不便でもあるのだ。
「まぁ……世界から少しだけずれた層にある領域なのだけれど、現状自由に出入りできるのはあたしとエフィストと……あと何人かの御使いだけ。はぐれたら探すのが大変だから、ここから出るまであたしから離れないで。万が一はぐれたら、その場から動かないようにね。何も無いのに声も通りにくいのよ」
「わ、わかった……」
神妙に頷くアーサーを確認したカサンドラは、何も見えない漆黒から鳥籠を取り出した。蔦や花の細工が施された古い金属製の鳥籠の中には、駒鳥のような色合いの妖精が体を丸めている。
その、ふわふわなモスグレイの塊に向けて、カサンドラは穏やかな声になるように心がけて話しかけた。
「モスグレイ色のあなた、怖がらせてしまってごめんなさい。外の安全な場所に出たらそこで解放するから、もう少し我慢して」
「あ、その子は……無事だったんだね」
「ええ。どさくさに紛れて回収したけれど、説明もなくここに引っ張ってしまったから……悪いことしちゃったわ」
カサンドラは、商会の面々が割れたガラス窓に気を取られている間に、供物として捧げられなかった物を影の祝福を使って回収していた。
とはいえ、そういった小細工をしたものの、実は生きた妖精はそもそも供物になりえないのである。魔法や奇跡の供物に生体を用いることができない上、妖精はもともと別の界の存在であるから対象外なのだ。カサンドラにとって幸運で支店長にとって不運なことに、彼はこの事実を知らなかったらしい。
そんなことを思い返しながらモスグレイの塊を観察すれば、丸まって周囲を拒絶してふるふると震える姿に哀れみを誘われる。
何故か出られない鳥籠、何故か帰れない妖精界。ただでさえそんな状況だったのに、光も緑も無いよくわからない場所に籠ごと放り込まれたのだ。応接室のときよりも怯えが増しているのは、当然だろう。
一度だけちらりとこちらを窺ったモスグレイの塊は、すぐに丸まってしまった。
怯えきったこの妖精をどう宥めたものかと迷い、まずは移動をと同時に考えたその時――ふたりのすぐ近くに溶けた影がどろりと落ちてきて、みるみると黄金の瞳の黒猫が形作られた。
「……あれ、まだここに居たの?」
「あらエフィスト。……もしかして、念押ししてくれてた?」
「うん。逆恨みしそうだったから」
確かにカサンドラも危うさを感じていたが、あのまま押し問答をしたところで得るものは何も無いので逃げたのだ。
契約書の内容が内容なので、何かを言い触らされてもカサンドラのダメージはほぼない。カサンドラはもともと「はずれ魔女」なのである。その評判の結果、他領や神殿からの勧誘が抑えられていることを考えれば、このままのほうが絶対に楽だと思っている。
「…………あの、カサンドラさん。今日は本当にすみません」
カサンドラとエフィストの会話の区切りを感じ取り、少し前からそわそわとした様子を見せていたしていたアーサーが、思い詰めたような顔で口を開いた。今の状況になったことについて、カサンドラは特にアーサーのせいだとは微塵も思っていない――言うまでもなく誘拐した側が十割悪いため――のだが、当事者である彼がそう思えないのも当然ではある。
「いえ……アーサーさんが謝ることではないわ。むしろ巻き込んだのはあたしのほうなわけで、ごめんなさい。……そう、それより聞きたいことがあるの、『雪華の君』って――」
「そ、それは後ほどに! 妖精も可哀相だし、そろそろここを出ようよ!」
「えっ。……ええ、そうね!」
ひたすら謝罪をし合う流れになりかけたため、カサンドラが強引に気になる話題へ方向を変えようとしたが、食い気味のアーサーによって遮断された。やはり、相当に触れられたくない話題らしい。彼は「後ほど」とは言ったが、おそらくはそのまま忘れてほしいと思っているはずだ。非常に気になるため、カサンドラに忘れる気はないが。
行動の方向が決まったところで、カサンドラをよじ登ったエフィストがひょいとアーサーの肩へ乗る。これなら、アーサーが影の領域で行方不明になる事態は避けられるだろう。
実は、ここでは普通に歩くよりも飛ぶように浮いて移動したほうが早い。とはいえ、それには少々コツを掴む必要があるので、今回はカサンドラがアーサーの手を引き、牽引していくことにした。
「……おれも後で聞きたいことがあるんだ。カサンドラさんの、魔法について」
はじめは緊張で身を固くしていたアーサーも、状況に慣れてきた頃には先のことについての会話が出来るようになっていた。その内容は、当然の疑問であった。
グロッシェ商会の支店長はそれどころでない状況になったため、魔女の魔法という奇跡についてを気にする余裕は暫くないだろうし、どうとでもごまかせる。しかし、アーサーがそうでないことは想像が容易である。
「まあ、そうね……こうなったからには流石にちゃんと言うわ」
観念したような沈んだ声でカサンドラが呟けば、話したくないことを話させることになると申し訳なくなったアーサーの気分が沈んでいく。
「――あたしも、ね?」
「うっ……」
アーサーが俯きかければ、口の端を吊り上げた笑顔が振り向いた。「私が言うのだから、貴方も言うでしょう?」とでも言わんばかりのその笑顔に、自分も包み隠さず疑問に答えなければならなくなったことをアーサーは悟る。
カサンドラのその好奇心に満ちた笑顔を見てしまえば、これ以上何も言う気にもなれず、観念したアーサーは思わず苦笑いを溢した。
そうしてアーサーがカサンドラに手を引かれながら進めば、すぐに妙なものが目に入った。
ムラのない黒の中にぽつりとできた染みのような何か、かと思えば――。
「あら。これは妖精……まんじゅう?」
ふわりと近づいてみれば、そこには小鳥のような翼や、蜉蝣や蝶などの昆虫に似た羽を持つ妖精が複数。
個性に応じた羽と色とりどりの髪色を持つ小さな妖精たちがぎゅうぎゅうに集まって出来た塊が、ぬばたまの闇にぽとりと落ちていた。




