苦痛無き世の神聖歌
【████――――██――!! ████――――!!!】
女神像が閉じていた両目を見開き、黒い虚のような目で一行を見下ろす。溢れる黒い涙が足元で沼のように溜まって広がり、緋色の身廊を塗り潰していく。
そしてスカートのように伏せて閉じていた無数の花弁が大きく前方に開いた。
蜂の巣のようなベル状の花の正面はダリアの花に似ており、小さな花弁が円形に密集している。花弁の一つ一つがざわざわと揺れる様は、あれが異形であると否応なく見せつけてくる。
「ローベリアの王女とはまた違った花だな」
「なにをしてくるかわからないよ。皆、気をつけて」
暴れ狂い、襲いかかる荊を切り払いながらヴァンが言えば、シエルも音の波でミアを守りながら警戒する。ルゥは素手で荊を引きちぎり、魔骸に投げ返しては咆哮で花と化した住民を威嚇する。ぎこちない動きで後方から迫る住民だったものを切り捨てながら、クィンが魔骸の攻撃に備える。
【――――――――――――!!!!!!】
歪で巨大な黒い花は一つ身震いをすると、再び甲高い金属音に似た悲鳴を拡散した。巨大な花が拡声器の役割を果たしており、その音量は最初の比ではなかった。
「っう……!」
咄嗟に耳を塞いだせいで反応が遅れ、荊がヴァンの腕のすぐ傍をかすめた。僅かな切り傷からも魔骸の毒は侵蝕してくるようで、左腕に黒い粘液質の“根”が張った。
すぐに構え直して切り捨てるが、脳を直接殴りつけるような音のせいで目眩がする。音と共に、傷口の根が徐々に侵蝕を深めていく。
「音で、僕が負けるわけにはいかないよね……!」
ふらつきながらもシエルが竪琴をかき鳴らす。
風の流れが変わり、鋭い爪で頭の奥を引っ掻くような音が一瞬揺らいだ。その隙を逃さず、甘く香る花の詩が紡がれる。
《Sess mia. yoa Sphilitie lisyera nachtie》
ミアの詩が、教会の高い天井をものともせずにやわらかく響く。
ミアの祈りが、魔骸の与える歪んでしまった願いを優しく包む。
【██――――████████――――――――!!!】
魔骸は偽りの安息を叫び、詩に抵抗した。
心がなければ傷つかない。存在しないものは痛まない。
皆、どうか安らかに――――そう願い、叫び、そして壊れた。
* * *
――――あの日。
娘の身に起きた不幸を嘆き、不信を叫んだ夫婦が帰った夜。
若いシスターは、誰にも相談することが出来ないまま寄宿舎に帰った。
毎日祈りを捧げてきた敬愛する女神様を、一瞬でも疑ってしまった自分に絶望して。嘆き悲しむ夫婦の傷を僅かでも和らげることを、ただの一言も言えなかった自分に失望して。
祈りは無意味だったのか。信仰は無意味だったのか。
どれほど祈ろうとも助からない人がいる。傷つく人がいる。絶望してしまう人がいる。世界にはどれほど誠実でも、報われない人がいる。人の心と体を何とも思わず蹂躙出来る人がいる。
「どうして……」
自分がしてきたことはいったい何だったのだろうか。
そんな思いを抱いてしまうこと自体が、あってはならないことなのに。
シスターが寄る辺をなくした幼子のような気持ちで自室へ戻ると、見慣れないロザリオが置いてあることに気付いた。机の片隅、まるで自分がうっかり置き忘れたような形で、それはあった。
黒い石が中央についた、見たことのない女神十字のロザリオだ。
「誰かの忘れ物かしら……?」
もしそうなら届けなければ。
そう思って手に取ると、シスターはほんのいままで抱いていた昏い気持ちが、嘘のように晴れていくのを感じた。
――――祈りは無意味などではない。
そんな声が聞こえた気がした。
願えば叶う。祈りは届く。
悩み苦しむ民を見ることが苦痛であるなら、誰も傷つかない世界を作れば良い。
痛み、苦しみ、悩み、恐れ、争い、全ての苦痛無き世を作れば良い。
――――全ての苦痛に終焉を。
《Musess mia. yoa kstws fiyello musa cheeza.》
(わたしは詠う。あなたの痛みを癒やす詩になる)
詩が響く。
悪夢に塗り潰された教会を癒やすように。
ミアの翼から花弁が舞い、甘やかな春の香りが広がっていく。
ヴァンの腕を侵蝕していた毒も、傷口に花弁が触れた瞬間溶けるように消えた。割れんばかりに響いていた嘆きの悲鳴も詩にかき消され、魔骸は両目から涙を流して暴れ続ける。
何故理解してくれないのか。全ての民を救おうとしているのに。
独善に溺れた救済の女神は、ミアの詩を止めようと荊を振り回す。だが毒の棘を恐れなくなったヴァンたちに全ての攻撃を阻まれ、ただ一輪の花を摘むことすら叶わない。
《Musess mia. yoa raggia fiyello musa cheeza.》
(わたしは詠う。あなたの苦しみを癒やす詩になる)
詩が響く。
花が咲く。
黒く染められた教会を飛び出して、心が凍り付いてしまった街中へと。
春風に乗って花が咲く。ただ与えられた役割を繰り返すだけだった人形たちの頬を撫で、優しい目覚めを与えていく。殻の奥へ閉じ込められていた心を呼び覚ます。
それは、喜びも悲しみも痛みも幸せも嘆きも愛しさもある世界への呼び声。
それは、誰かにとっては幸福で、誰かにとっては不幸である世界へ誘う手。
それは、祈りが届かないことも、願いが叶わないこともある世界へ至る道。
《Sess mia. endie manafica lisyera deae》
(わたしは祈る。全ての人々が安らかであるように)
目を覚ました人々は、その場に泣き崩れた。
抑えつけられていた心の解放に、体が耐えきれなかったのだ。
けれど、衝動的に死を選ぶ者はいなかった。安寧の暗闇から光溢れる世界へ落とされたことに、ただひたすら声を上げて泣き続けた。
そして、偽りの女神と化していたシスターはボロボロとその身を崩し、風化させていた。巨大な花になっていた下半身は地に落ちて砕け、女神像のような姿の上半身だけが残された。それも肌にヒビが入ったことを皮切りに、硝子を踏むような軽い音を立てて崩れていく。
最後の黒い殻が剥がれ堕ちたとき、固く祈りの形に組まれていた白い手がほどけ、災厄の魔石が零れ落ちた。
【――――――――███、██████…………】
消える直前に零した声は、誰に届くこともなく。
それでもミアたちには、彼女の声が理解出来た気がした。
――――――――どうか、苦しまないで。
安らかに。ただ安らかにあるように。
それは嘗て魔骸になる以前のシスターが抱いていた、純粋な祈りだった。