今日も一日おつかれさん
霊に関することだったらそれなりに冷静でいられるけど、さすがにエロおやじの突然の襲撃、つうのはさすがのタフネスでもどうかってもんだわ。
ウチは散らばったペンケースやら何やらをひっつかんでバッグに突っ込み、準備室から走り出た。
頭ん中真っ白状態で、一キロ以上もある駅周辺まで、走っていたみたい。
で、気がついたらなぜか『もか』の前に立ってる。
お客さんちょうど途切れたらしく、マスターが表にいた。
「また来たの」
答えることばも見つからずに息を切らせていると、マスターはウチの脇にちらっと目をはしらせてから、
「水くらい飲んでく?」
そう、中に招き入れてくれた。
今度はアイスコーヒーを目の前に置いてくれた。ウチはいっきに飲み干す。
うん、アイスでもおいしいんだよね、ここの珈琲。
しばらくピアノのBGMが鳴り響いた後、マスターが
「むっちゃんさ」
グラスを拭いている手を止めてさりげない口調で言った。
「バッグの中、いったん確認してみなよ」
言われるまま、手提げの中身をいちいち出してみる。
見覚えのない、黒い二つ折りの財布が入っていた。
広げてみると、千円札が一枚、小銭が少々、カード二枚。
それと、西上の免許証が入ってた。全然気づかなかった。
「ヤバいもん、拾ってきたねえ」
牧歌的ともいえる口調で、マスター。
「それにしても高校教師って、あんがい持ち金少ないんだねぇ」
「どーしよ」
マスターはこう言ってくれた。
「夜になっちゃうけど、学校の正門あたりに、捨ててきてやろうか」
みつおさんから、ざっくり事情は聞いたのだろうか。
「そいつ、しばらくは学校来れないだろうけど、学校で届けてくれるでしょ」
「たぶん……」
だんだん、ムカついてきた。
どうしてあんな教師が存在しているんだろ?
報いはしっかりと受けてほしいものだ。
と、ふと思い出したことがあった。ちょっとした用事を。
「マスター、カバン置いといて。出かけてくる」
西上の財布だけつかんで立ち上がる。
「おーい、どこ行く」
「すぐ戻るから。みつおさん残ってていいよ」
それができるなら残ります、みたいな顔してみつおさんも立ちあがった。
ドアベルがちょっとだけ元気よく鳴り響いた。
用事を済ませて『もか』に戻り、西上のお金で買ってきたものをリュックのポケットに入れ、財布はマスターに渡した。
「お願いしまーす」
マスターは、やれやれというふうに肩をすくめ、財布をしまった。
「置きに行く時、気をつけないと。オレが使いこんだと思われるし……なんたる不良娘だ」
ウチは聞いてないフリしてた。グラスに残った四角い氷に穴を開けてやろうと、表面のくぼみにストローで息をふきかける。
マスターは明日の仕込みだろうか、手を休めずに、ふと、こう言った。
「そのセンセ、何でそんなことしたんだろうね」
「わかんね」
「憑いてるモノのせいなのかなあ」
「えっ」ウチはつい、くわえていたストローを取り落とす。
マスターがいつもより、何だか深刻な目をしている気がした。
「それはないって」
「ええ? でも何がとり憑いてるのか分からないんだろ? ただの塊って言っても、霊体なんだから。他の霊とは違う何かがあるのかも……」
「ありえない!」ウチはつい、ムキになって反論する。
「元々の性癖なのか、出来心なのか、日ごろのストレスから性格が歪んできたのか、分んないけど、とにかくああいうのは、憑いている霊のせいじゃあないって!」
いつになく力強いウチの言い方に、マスターは目をぱちくりさせている。
「そうかなあ」
マスターはつい、みつおさんの方に助けの目を向けている。
「みつおさん、どう思う?」おっと、みつおさんから答えがない?
見ると、カウンターの隅にもたれかかってうとうとしている。
さすがに今日は、お疲れのご様子で。
だからウチが代わりに続けた。
「たまにさ、『誰それさんがおかしくなったのは、とり憑いた霊のしわざです』とか言う話も聞くけどさ、前に、駅のホームで暴れていたおっさんたまたま見たらさ、後ろから背後霊が必死に止めてたよ。『お、落ちつけって、やめ、ちょ』って」
「へえ」
「その人を守るばかりでもないだろうけど、酷い目に遭わせたいわけでも、ないと思う」
まあ、たまたま居ついた場所が悪くて、やがては命を奪うことがあっても、だけど。
アイツの場合みたいに、ね。
「……そうか」
マスターが何となく、右肩のあたりをさする。
そのすぐ下に、彼の『霊体』が淡い水色に透けて見えていた。
彼自身はそれに、気づいていない。
「ま、終わり良ければすべて良し。今日も一日、おつかれさん」
その言葉を合図に、ウチは立ち上がった。
「ごちそうさま」
ウチの動きに気づいたのか、みつおさんあわてて目を覚ました。
ウチとマスターは、背後霊らしからぬ彼の慌てっぷりに顔を見合わせ、ちょっとだけ笑う。
戸口に見送るマスター、まだ、肩を押さえてる。
「痛いの?」
心配しているように思われたくなくて、さりげなく訊いてみる。
「いや。凝りがひどくてね。腕も上がりにくいし」
「年だよ。それ」
叩く真似をしてくるマスターの、水色の光の部分をそっと押し返す。
「どうせ検診とかも行ってないんでしょ? ヒマな時に診てもらった方がいいと思いますよ」
「はいはい」
マスターは笑って、それでもウチが軽く押した箇所に、手を当てた。
「まあ、またおいで」
「今のウチに言ったのみつおさんに言ったの」
マスターは笑って、答えなかった。
電車から、バスに乗り換えて、近くのバス停に降りる頃には、街並みはすっかり夕暮れに染まっていた。
路地のどこからか、カレーの匂いが漂ってくる。こちらからは、焼き魚の香ばしい煙。
ああ、おなかすいたなぁ。
家に帰る前に、ちょっとだけ寄り道ね。
近道に使ってるあの路地の、豆腐屋の角。
やっぱりいないか、とあたりをきょろきょろしていたら、向かいのおうち、生垣のすき間から、居間のようすがみえた。
小さな縁側の網戸ごしに、そのお宅のおじいちゃんが寝転んで、テレビを見ている。
缶ビール片手に、しごくごきげんだ。
「打ちました!」の実況におお、と歓声を上げて笑っている。
おじいちゃんの背後霊のわんこが、背中に乗っかったまましっぽをぶんぶん振っている。
その脇で、同じように寝転がって、くだんの地縛霊の彼がいた。
やっぱり同じチームがひいきらしく、
「行け行け~」
と叫んでいる。
少しずつ暗さを増す夏の空気が、ひやりとした風とともにあたりを包みこんでいく。
その中にぽっかりと明るく浮かび上がった茶の間は、ひとつの絵のようだった。
ウチはそっと生垣から離れた。
角に飛び出した石の上に、ウチは、駅近くで買ってきた煙草を乗せる。
新生はなかったので、ホープでガマンしてね、と心の中でつぶやいてから、
「あっ」
急に気づいて小さく叫んだ。
傘を持ってないや。
学校から飛び出して来た時は、持っていたような気も。
『もか』を出た時は? 持ってた気もするようなしないような。
電車の中? バスに置いてきた?
ねえどこだと思う? と、みつおさんを見るが、
(えっ、ちょっと傘の番までは……)
みたいな弱々しい笑顔をみせてくれただけ。
「……ツカエネエ」
ついそう吐き捨てたが、それでも
(まあまあ)
めげた様子もなく肩をすくめてみせるみつおさんに
「……」
しかたなく、同じように肩をすくめ、ウチは歩き出す、
生きているものも、生きていないものも、すべてが等しく集うこの街の細い路地を。
(了)