第三話かろうじての生還
雪だるまの枝が、ぎぃ……と、骨の軋むような音を立てながら伸び始めた。
動け。
脳が命令を下す。だが体は応えない。全身が雪に深く埋もれ、まるで大地に縫い付けられたように動かない。指先の感覚はとうに薄れ、ただ銃だけが、凍えた掌に重く食い込んでいた。
「……生存確率」
「0.008%です」
「変わってねえな」
「状況が変わっていないので」
枝が、ゆっくりと迫る。あの時より明らかに遅い。これなら——隙がありすぎる。
狙うは、奴の凍結層が剥がれ落ちた中心。黒く腐り、ねばつく木の心臓が、わずかに覗いている。あそこだ。
「ピップ」
「はい」
「外れたら笑うなよ」
「笑う機能は——」
「未実装だろ。知ってる」
歯を食いしばる。ほとんど感覚のない指で、引き金をゆっくり、ゆっくりと絞った。どこまで引いているのか、撃てているのかさえわからない。ただ、乾いた銃声だけが、銀色の世界にぽつりと落ちた。
息を呑む。
雪だるまの動きが、ぴたりと止まった。
次の瞬間、黒い心臓に雷のような亀裂が走る。ぱきぴきぱき、と乾いた音が連続し、凍結層全体が白い粉を撒き散らしながら崩れ始めた。枝が力を失い、ぐにゃりと垂れ下がる。そして——
ざっ、という重い音とともに、巨大な雪の塊が地面に溶けるように沈んでいった。黒く腐った破片が、白い雪の上に不気味に散らばる。
静かだった。風の音だけが、残った。
「……倒した、か」
「中心核の崩壊を確認。対象の活動停止を確認」
「だろ」
力が、抜けた。膝から雪の上に崩れ落ちる。空は白く、雪が静かに、静かに降り続いていた。
「お前さ」
「はい」
「もうちょっと感動的なこと言えねえのか。今俺、死にかけながら勝ったんだぞ」
「では」
「お疲れ様でした」
「……それだけかよ」
「それ以上の言葉が、今の状況に適切かどうか判断できません」
「……まあ、いいか」
生きている。それだけが、ひどく嬉しかった。
「ピップ」
「はい」
「生存確率、どうなった?」
「……0.009%です」
「上がったじゃねえか」
「対象を撃破したためです」
「0.001%しか上がってねえのかよ」
「誤差も積み重ねれば意味を持ちます」
「100%でもいいだろ」
「では今の状態から計測して……」
ピップの淡い光が、ボロ雑巾のような俺をじっと見つめた。
「予想死亡率を100%に更新します」
「おい!」
思わず、笑いが漏れた。喉が裂けるように痛い。体は動かない。頭がぼんやりと霞む。手が、雪のように冷たい。
最悪だな、と言おうとした。だが意識はそこで、音を立てて途切れた。
——意識が戻ったとき、頰に刺さる雪の粒が、皮膚を針で抉るように痛かった。
口の中に雪が溶け、鉄の味が舌の上に広がる。息を吸うと、肺が刃物で掻き回されるような痛み。
「起きましたか? 気絶してから20分35秒が経過しています」
体を起こそうとする。右手が、動かない。指先は白く蝋のように変色し、触れても自分のものとは思えなかった。
「……凍傷です。軽度ですが、このまま動かし続ければ壊死の可能性があります」
「わかってるよ」
歯を食いしばり、這うように体を起こす。全身の筋肉が悲鳴を上げ、骨が軋む音が頭の中で響いた。頰の傷が、寒さの中でじんじんと脈打つ。枝に裂かれた肉が、笑うたびに引きつれる。
雪だるまは——倒れていた。
黒く腐った木の心臓に、ただ一つの弾痕。そこだけが焦げ付き、周囲の凍結層の欠片が、きらきらと嘲るように光っていた。まるで、死んだ後もまだ笑っているようだった。
「……かろうじて、だな」
「かろうじて、です」
ピップは事実だけを告げた。褒めも、慰めもしない。ただ冷たい観測。
周囲は静かだった。風が止み、雪だけが音もなく降り続ける。自分の荒い呼吸だけが、妙に大きく耳に響いた。
「小屋は?」
「半壊です。シェルターとしての機能は期待できません」
「だろうな」
立ち上がる。足が笑い、膝がガクガクと震える。雪を踏む感触が、靴底を通してぼんやりと伝わってくるだけ。
「移動できますか?」
「するしかねえだろ」
ピップが雪だるまの残骸に近づき、細い光で黒い心臓と凍結層の破片を舐めるように見つめている。鼻に冷たい空気共に入る湿った腐木と石の臭い。
「……スキャン完了。この木質コアと石質素材は、私のエネルギー回路に適合する可能性が42%あります。回収を推奨します」
俺は思わずピップを睨んだ。
「お前、死にかけの俺よりも素材漁りか?」
「死にかけているからこそ、便利な私の機能強化が急務かと」
「……性格が悪いな、お前」
(自分で便利って言った…)
「プロトタイプである以上、機能拡張は生存率向上に直結します。拒否されますか?」
「プロトタイプ?」
ピップの光が、わずかに揺れた。
「遭遇時に説明したと思っていましたが……私は帝国軍旧式交流型案内ユニット。それの試作機です。正式採用はされませんでしたが」
「なんでだ」
「それより上位のモデルが完成したため。私は不要と判断され、マスターの小屋に保管されました」
「……あの木箱か」
「はい。約200年、スリープモードで眠っていました」
200年。
雪の中の暗闇で、200年。
「お前、それで目が覚めたのは?」
「あなたのうるさい言葉と、扉が壊れた振動です。おかげで、と言いたいところですが」
「俺のせいかよ」
「訂正をお願いします」
喜んでいいのかわからない。
移動を始めた。雪を掻き分け、ざく、ざく、と音を立てるたび、息が白く凍りつく。右手の感覚はまだ戻らない。痛みだけが、確実にあった。
廃墟が見つかったのは、それからしばらく後だった。崩れかけた石造りの建物。窓は割れ、扉は朽ち、壁にうっすら残る見慣れぬ紋章が、帝国軍の前線基地だったことを示していた。
中へ転がり込む。埃と古い石の乾いた匂い。風がない。それだけで、生き延びられる気がした。
壁にもたれ、ゆっくり息を吐く。白い霧が薄暗い室内に広がり、消える。
「ピップ」
「はい」
「生存確率、今いくつだ」
「0.03%です」
「改造失敗したり、傷だの疲労だの言ってた割には上がってるじゃねえか」
「要因は二点。あなたの健康状態が少しだけマシになったこと。そして——先ほど回収したゴミが、わずかに燃料として機能していることです」
「ゴミって、あのコアか」
「適合率0%の素材を何と呼ぶかは、自明です」
「……お前、ちょっと怒ってんのか?」
「感情機能は未実装です」
即答ではなかった。
沈黙が落ちる。
外では雪がまだ降り続け、遠くから、再びあの歪んだ「コケコッ……」という、金属と腐肉が混じったような声が、廃墟の壁を震わせていた。




