第一話「最悪だ。南の島じゃなかった」
……最悪だ。
俺は震える手で自分の頬をパチンと叩いた。
乾いた音が響き、鈍い痛みが広がる。
――夢じゃない。
肺に入る空気が刃のように冷たい。視界は白一色で、地面と空の境界が溶け、上下の感覚すら怪しい。吐いた息が一瞬で凍り、まつ毛に張りついた。瞬きをするたび、氷の粒が擦れる感触がした。
「さっきまでカップラーメンにお湯を注いでたはずなんだがな……三分待つ間に異世界転移って、インスタント食品より展開が早すぎるだろ」
指先の感覚はすでにない。歯を食いしばり、膝まで沈む雪を掻き分けながら進む。
よく見ると、雪の中には骨のように硬い破片が混じっていた。白いものが、ところどころ黒ずんで見える。
思考が一瞬止まりかけたが、すぐに振り払った。
――今はそれどころじゃない。
どれだけ歩いたかわからない頃、視界の端に影が見えた。
崩れかけた狩猟小屋。今の俺には城のように見えた。
ほとんど倒れ込むように扉に体当たりし、中へ転がり込む。
「……助かっ――」
言葉が止まった。
部屋の奥、壁にもたれるように人影があった。
近づいてみると、それは“人だったもの”だった。干からびた死体。服装からして、俺と同じ「外から来た側」らしい。
頭に、平行に刻まれた三本の爪痕。
服が胸から腹まで縦に裂け、皮膚にも同じ跡が残っていた。肉は凍りつき、黒くこびりついている。
「……先人の教え、ってやつか」
声が少し上ずった。「できれば、生きてる人に聞きたかったけどな」
喉が引きつる。視線を逸らし、棚を探る。
出てきたのは錆びたサバイバルナイフと、古びた拳銃だけ。それ以外は何もなかった。
弾倉を外す。カチ。
「三発……か」
そのとき、部屋の隅の木箱がガタ……ガタ……と揺れた。
全身の神経が跳ね上がる。呼吸を止め、拳銃を構える。
指先の感覚はほとんどない。引き金がやけに遠い。
ガタ、ガタ……。内側から何かが擦れる音。
「……ネズミか。食えるなら大歓迎だぞ」
「――随分と余裕ですね、“人間”」
蓋がひとりでに持ち上がった。
現れたのは、手のひらサイズの金属質の球体。淡く光る二つの目が、ゆっくりと俺を捉える。
「……目玉が、喋った」
「失礼ですね。私はピップ。帝国軍旧式交流型案内ユニットです」
「案内? 少し寂しかったところだ。友達になってくれよ」
「友人機能は未実装です。それより現状確認を。あなたの生存確率は0.02%」
「慰めたりとかはしてくれないのか? 目玉の案内人さん」
「慰める機能は未実装です。それと先ほども言いましたが、私の名はピップと言います」
即答だった。思わず、笑いが漏れた。喉が痛い。
「……とりあえず現状整理だ」壁にもたれながら続ける。「俺の全財産は錆びたナイフと三発の弾丸、それと口の悪い目玉ロボット一個。どう思う、ピップ。世界で一番不幸な大富豪になれそうか?」
「ユーモアだけなら100点。資産価値はマイナス100点。トータルで完璧なゼロです」
即答。
寒い。
それでも――まだ冗談が言えるうちは、死ぬ気がしない。
――ドン。
扉が、外から叩かれた。
もう一度。
――ドン、ドン。
ピップの光が、わずかに揺れる。
「警告。外部に大型反応を確認。先ほどの個体の死亡原因と一致します」
「……これも、先人の教え通りってわけか」
「ログによれば、先ほどの個体も同様の反応に遭遇しています」
「――どうしますか? 先ほどの個体のように、戦闘を行いますか?」
――ドンッ!!
扉が、大きく軋んだ。




