第47話:ほんとの名前はーー③
女の子の家って、リンゴみたいな香りがするって思っていた。おとぎの森みたいに、甘い花の匂いで満たされてるって思っていた。
でも僕の彼女の家は、濁ったタバコの臭いがした。
* * *
三浦さんに会った次の日の放課後、僕は影山さんの家に向かった。
本来なら、僕みたいなよその家の子供が他人んちの押し入れを漁るなんて、どー考えたってダメだ。僕だってそのくらいの分別はつく。
でも、放課後の8組の教室で、影山さんはガラスの床板を踏みしめるみたいな、不安げな視線を僕に向けた。そんな目を向けられて『他所んちの事だから』って無下に突き放せるわけがない。
『でも、阿部くんが一緒なら……あたしは、大丈夫……』
昨日の影山さんの言葉が、僕を突き動かす。
家までの道のり、影山さんは無言だった。
僕も無言だったけど、その感情はきっと影山さんのものと少しだけ違う。僕は同級生の女の子の家に入った事なんてない。申し訳ないけど、邪な妄想も少しばかり脳裏を掠める。
そしてそんな幻想は、ドアを開けた瞬間に打ち砕かれたわけだ。
玄関の上り框を上ると、右手にトイレ、左手に木製の引き戸があった。タバコの臭いはその左側の部屋から漂ってくるようだった。
影山さんは、その場に立ち止まる事が恥ずかしいみたいで、玄関からまっすぐ伸びた廊下をさっさと歩いていく。すぐに台所と食卓テーブルがあり、その奥には木製のドアがあった。
「一旦、あたしの部屋に……」
そう言って影山さんはそのドアを開ける。
部屋の中から流れ出てきたほのかな甘い匂いが、家全体に漂うタバコ臭さを押し除けた。
影山さんの部屋は、隅に畳まれた敷布団と、壁沿いに重ねられた文庫本、そして小さな折り畳みテーブルしかなかった。
殺風景な部屋の中で、ハンガーで壁にかけられた洋服だけがキラキラしている。あれは……イオーンに行った時、松原さんが選んでくれた服だ。まるで絵画を飾るみたいに、女の子らしい洋服が部屋の中に彩りを生んでいる。
僕は緊張した。
非日常的な事態の中で、妄想だけが加速していく。
影山さんの匂いが充満したこの部屋にいるって、それはもう影山さんをハグしてるのと同じなんじゃないだろうか?
僕は健全な中学生男子なわけで、好きな子とハグなんてしちゃったら、色々と歯止めが効かなくなる。
差し出された座布団に座った。
これって、いつも影山さんが座ってる座布団なんだろうか? いつも影山さんのお尻を支えている座布団なんだろうか?
「阿部くん……なんか、鼻息、荒くねえか……?」
「あ、いや、そんな事――」
「もしかして……あたしの部屋、臭いか……?」
しょんぼりする影山さん。
僕の挙動がおかしいせいで、また影山さんに悲しい思いをさせてしまった。
ダメだダメだ! 気を引き締めないと!
僕はイチャイチャする為にここに来たわけじゃないんだ!
「全然臭くないよ! むしろ影山さんのいいに匂いが充満してて、大興奮だよ!」
「……ならいいけど……いや、それはそれで、さすがにキモいだろ……」
あああ!
何言ってんだ僕は!!
そんな茶番を繰り広げ、影山さんが出してくれた緑茶で喉を潤したあと、僕たちは本題に入る。
「玄関入って左側の、タバコくせぇ部屋……あそこが親父の部屋なんだ……」
「うん」
「親父の部屋には押し入れがある……。お母さんの思い出の品も、そこにあると思うんだ……」
「なるほど。よし――」
僕は立ち上がった。
「あ……」
ちょっとだけ影山さんは躊躇して、でも意を決して立ち上がると僕の後ろに身を隠した。
影山さんにとって、お母さんの真実に触れるってのは、それだけ臆病になる事なんだろうな。
写真でしか知らないお母さんを、影山さんは心の中で願いのままに作り上げてきた。それは影山さんにとって理想のお母さんだったはずだ。自分の事を最大限に愛してくれる、やさしいお母さん――
でも、本当のお母さんはそうじゃないかもしれない。
昨日の夜、影山さんが震える声で呟いたみたいに、影山さんの事を本当は疎ましく思っていた可能性だって、当然あるはずだ。
すべての親は我が子を愛している。僕はそれを、疑いようもない事実なんだって思い込んでいた。
でも、影山さんはきっとそうじゃない。あのお父さんの存在が、親子の愛ってものに泥を塗っている。
引き戸を開けると、臭いの密度が高まった。重たい臭気の塊に押し戻されるような感覚。一歩一歩踏みしめるようにして、部屋の中へと足を進める。
影山さんのお父さんの部屋は、本棚に囲まれていた。大きな窓も本棚で塞がれていて、夕方なのに真夜中の暗さだ。換気もままならないからこそ、これほどまでにタバコの臭いが充満しているのかもしれない。
足元にはいくつもの原稿用紙。丸めて捨てられているものもあれば、そのまま放置されているものもある。
その中の一つに視線を落とす。とても達筆な字で、詩のような一文が書かれていた。
「お父さん、小説家なの?」
「そんな、たいそうなもんじゃ、ねーよ……」
影山さんは吐き捨てるように言う。
そうじゃないにしても、物凄い量だ。かなりの熱量で文章を書き続けてることが、この部屋の有り様を見てもわかる。
「思いついたセンテンスを、こうやって原稿用紙に書いてんだ……。ネタ帳みたいなもんなのか……。そんなの、知りたくもねーけどな……」
「すごいね……」
なんと返せばいいか分からなくて、思考停止の感想が漏れた。
部屋の中は深海みたいに静かで、僕の言葉一つ一つが、泡に包まれて浮き上がり、弾ける。
影山さんは何も言わず、部屋の奥にある押し入れの前に立った。
ずっと避けてきた心の暗がりに、手を伸ばす――
目を瞑って、大きく深呼吸をした後に、襖を開けた。
* * *
部屋の中の混沌に反して、押し入れの中は整然としていた。
ほとんど何もない。
自分の人生を全て捨て去ってしまったみたいに、そこにはプラケース一つしか置かれていなかった。
きっとこの人は、何一つ積み上げてこなかったんだ。
ほんのわずかな思い出だけを糧に、今の今まで、死んだように生き続けてきたんだ。
なんだか僕は、胸が締め付けられるような気持ちになる。
影山さんは、押し入れの中に置かれたケースを手繰り寄せた。
黄色い蓋のついた、買い物かごくらいの大きさのケース。蓋に描かれた花柄は、この部屋から漂うお父さんのイメージからは程遠いような気がした。
僕の方を見て、小さく頷く影山さん。
それに応えるように、僕も頷く。
蓋を開ける――
ノート、封筒、写真、貴金属……
箱の中には、いくつもの『思い出』が丁寧に重ねられていた。
写真の一枚に目がいく。
やさしい目元の――でも影山さんによく似た女の人が、鋭い目つきで不機嫌そうな男の人の隣で笑っている。きっとこれは、若い頃の影山さんのお母さんと、お父さんだ。
同じ写真を見つめる影山さん。その表情に変化はない。
感情を重たい箱の中に無理矢理押し込んだみたいな顔だった。これから襲い来るかもしれない痛みに怯え、身構えているようにも見えた。
僕は封筒を手に取る。
「中、見てもいい?」
「ああ……」
封筒の中には便箋が3枚収められていた。
恐る恐る、書かれた文字を読み進める。それはごくありふれた恋文のように見えた。お付き合いを始めて1年目の恋人に向けた、今までありがとう、そしてこれからもよろしくっていう、感謝の手紙。
感謝の気持ちだけが、便箋3枚にびっしり書き連ねられている。
「この、相手の『陽一郎』って――」
「クソ親父の名前だ……」
この文面を読む限り、当時の影山さんのお母さんは、お父さんの事を心から愛していたんだろうな。
将来、こんな薄暗い部屋に閉じこもり、一人娘を蔑ろにするような、傍目にもいい人間とは思えない男の事を――
ケースの中の写真を取り出して、そこに写る女性の笑顔の裏を覗き見ようとする。
あなたは、一体何を考え、感じていたのですか?
あなたや、あなたの娘に似ている、あの『ツキヒ』って存在は、何者なんですか?
あれは悪なのですか?
それとも――
「あ……」
影山さんが、ケースの奥底に埋もれていたノートを拾い上げる。パラパラと捲ると、文字の端に日付が書かれていた。
「日記帳?」
影山さんは答えず、一番最後のページを開いた。
そこに書かれた文章を読み――
え?
僕は影山さんを見た。
影山さんは無表情のまま、ページを遡っていく。
僕は影山さんと一緒に、そこに書かれた文字を追った。
『もうすぐ月陽が産まれる。早く会いたい』
『今日、お腹の中で月陽が暴れてた。すごく元気。外に出たいのかな?』
『怖がっている陽一郎さんに、ムリヤリお腹を触らせてみた。月陽〜、この人がお父さんだよ〜』
『月陽、愛おしい』
『大事な大事な、私の娘――』
僕は文章から目を逸らした。
頭が混乱している。
「この、名前……なんて読むのかな……?」
『月陽』の文字を指さし、影山さんに尋ねる。
その答えはなんとなく察しているのに。
「ツキヒ……」
絞り出すみたいに、影山さんは呟いた。
「影山さん、もしかしてお兄ちゃんやお姉ちゃんがいるの……?」
「いや、いねぇよ……」
そう言って、一番最後のページを開く。
「この日付……あたしが生まれる、数日前だ……」
たしかにそうだ。僕の生まれた年と同じ――
「それじゃあ、ここに書かれている『月陽』って……」
薄暗い部屋。
混沌の部屋。
確かめるように放った僕の言葉は、色を失い空々しく響く。
「……多分、あたしの事だ……」
ノートから目を離さずに、影山さんは言った。
月陽――
それは、影山さん……影山蕪太郎につけられるはずだった、ほんとの名前――




