第46話:ほんとの名前はーー②
気持ちいい――
気持ちいい――
ナメクジの粘膜で彼女の肌を擦るたび、えも言われぬ快感が陽一郎を貫く。
これが温もり。
人の肌を通して感じられる、愛という温もり。
脳内に流れ込んでくる快感という情報が、洪水を起こしている。脳みそをこねくりまわし、ドロドロに溶かし、不快な感覚は全て気化して消えていく。
そんな頭の中で、陽一郎は最高の文学の片鱗に触れた。
人の魂を震わすのが文学ならば――今自分の脳内で沸き起こっている事象を、余す所なく舐め取り吐き出す事が出来れば、それは最高の文学たり得るものなのではないか?
最高の、愛の物語なのではないか?
そんな妄想を漂いながら、陽一郎はナメクジのような過敏で湿った世界との境界線で、少女の輪郭をなぞる。
* * *
日は既に暮れていた。
事のあらましを会話アプリで伝えると、三浦ハナさんはすぐに時間を取ってくれた。お仕事の合間、ファストフード店で夕食を食べながらにはなるけれど相談にのってくれるらしい。
駅近のハンバガーショップで待ち合わせた。
三浦さんは期間限定バーガーとポテトのセットを注文して、僕と影山さんはポテトのMサイズを頼んだ。『ちょっと鉢山の家で勉強してくる』って言ってあるので、家ではお母さんが夕食を準備してる。お腹いっぱいになってそれを食べれなくなるのは申し訳ない。。
私が払うよ、いいえ自分で払いますよ、のやり取りがちょっとあって、結局三浦さんに甘えてしまった。これから相談にのってもらう立場なのに、申し訳ないなって思う……。
「かぶちゃんの、お父さんが――」
事のあらましを説明すると、三浦さんは腕を組んで黙ってしまった。しきりに首を傾げて、何もない空間と影山さんを交互に見ている。
もっと話したいことが沢山あったけど、三浦さんの考えの邪魔をするわけにもいかず、僕はポテトを一つ摘んだ。もうすでに、冷めて湿気り始めている。
僕の隣に座った影山さんは、無言でぼーっとポテトを眺めている。
そりゃ、あんな事があったのだから当然だ。自分のお父さんが意識不明になって、抜け出た魂がナメクジの形になっていたら……僕だったら発狂してしまうだろう。
「――かぶちゃんのお父さんの変異は、間違いなく『ツキヒ』の力だと思う」言葉を選ぶように三浦さんは言った。「ツキヒに名前をつけられて、定義を変えられたんだ。十八街道のお父さんが『神隠しの怪異』に変えられてしまったみたいに」
それにしたって、あの姿は悪趣味すぎる。
今日はいっぱい歩いたから、お腹もペコペコのはずなのに、あれを思い出すだけで食欲がなくなってくる。
「名前をつけるのに、何かの規則があるのかは、わからない。もしかしたら『あだ名』をつけるみたいな、単なる気まぐれなのかもしれないし――影山さんのお父さんに原因があるわけじゃないと思う。だから、そこは心配しないで」
そうなのだろうか。
「ただ――」
そこで三浦さんは一呼吸おく。
イタズラを自白させられる子供みたいな、最初の一声を意識してるような雰囲気。
「かぶちゃんのお母さんと、ツキヒには、何かしらの関連があると思う」
影山さんのお母さんと?
その言葉は予想外ではあったけど、意外とすんなり疑問の窪みにはまった気がした。
そう――
無関係と言うには不自然なくらい、影山さんとツキヒは似ていた。髪色や表情は違うけど、輪郭やパーツの所々が、他人とは思えないほど似通っている。
それはつまり、ツキヒは影山さんのお母さんとも似てる可能性が高いって事で……。
「ツキヒについては、定期的に情報を入れてくれるよう、協会にお願いしてるの」
協会、ってなんだろう。僕の厨二心がくすぐられるけど、話の腰を折るので聞かない。きっと霊能者みたいな人達が集う協会なのだろう。
「ツキヒが観測され始めたタイミングと、影山さんの、その――お母さんが亡くなったタイミングが、かなり近いらしくて」
三浦さんは辛そうだった。
「見た目が似ているし、出現のタイミングも合ってる。二つの偶然が重なるなんて考え難い――そう協会側は思ってる」
「あの野郎が、あたしのお母さんかもしれないって事か――?」
影山さんがここに来て始めて口を開いた。
掠れていて、弱々しくて、でも強い感情のこもった声だった。
「そうとは言い切れないよ。でも、なんの関係もないとも思えない。真実を追い求めるなら、排除しちゃいけない可能性だと思うんだ――」
三浦さんは上目遣いに影山さんの表情を窺っている。僕も隣に座る影山さんの横顔を見る。
その顔に戸惑いはあった。
でも、既に心は決まっているように見えた。
「あたしは、何をすればいい……?」
「お母さんについて、わかることを全部、教えてほしい――」
「前にも言ったけど、お母さんはあたしが生まれてすぐに死んじゃったんだ……。思い出なんて何もないし、顔だって写真が一枚あるだけだ」
「お父さんから、何か聞いてないの?」
「あいつは、お母さんの事なにも教えてくれなかった……。それ以前に、会話自体がほとんどなかったけどな……」
それは……なんて悲しいんだろう。
影山さんは、お母さんの影を追う事すら出来なかったんだ。
さっきの公園で、楽しい夢を語るみたいに、お母さんのことを話し続けた影山さんの顔が思い出される。
ふいに、手に温かいものが触れた。
それは影山さんの手だった。
ボックス席の座面に置いた僕の手を、ぎゅっと握りしめている。
影山さんを見ると、唇が小さく震えていた。
目の前の三浦さんには見せないように少し俯きながらも、影山さんは気丈な目を崩していない。
「そういや……」影山さんが言う。「親父の部屋の押し入れに、何か手がかりがあるかもしれない……。あいつの性格なら、思い出の品とか……保管してる気がする……」
心のナイーブな部分に手を伸ばせば、静止した水面がぐしゃぐしゃに乱される。
父親の変異――
そしてその元凶と、自分の母親との関連――
きっともう、影山さんの心はボロボロだ。
僕は影山さんの手を握り返した。
震えていた影山さんの手から、少しだけ力が抜けたような気がした。
* * *
影山さんのお父さんの私物を調べてみる。
一旦はそういう結論になって、その場はお開きとなった。
「もう、何を信じればいいのか、わかんねぇよ……」
家までの道を歩きながら、影山さんはボヤいた。
「ツキヒは、お母さんなのか……? ならなんで、親父にあんな事をしたんだ……?」
つい先日までの寒さが嘘のような、生温い夜だった。まるでぬるま湯の底に沈んでるみたいな。
「お母さんは、親父を憎んでたのかな……。それに、そんな親父の血を引いて――母さんを殺して産まれてきたあたしのことも、本当は憎んでるのかな……?」
お母さんを殺して?
その言葉が引っかかったけど、無遠慮には聞けなかった。その空気を察したのか、影山さんは溜め息混じりに言った。
「一度、親父に言われた事があんだよ……。お前を産んだせいで、お母さんは死んだんだって……」
「そんなこと――」
そんな事ない……?
感情が昂って反射的に出そうになった言葉を、無理やり飲み込んだ。何も知らない僕の無責任な否定が、いったいなんの慰めになるというのか?
「あたし、お母さんのこと……大好きだよ……」
影山さんは立ち止まる。
「でも、それは……あたしの妄想のおかあさんで……。本当のお母さんは、神隠しのお父さんを消し去った、クソ野郎で……」
僕は振り返り、俯いた影山さんを見た。
「本当は、あたしのことも……嫌いなのかな……」
震える声でそう言った影山さんは、そのまま生温い春の夜に消えてしまいそうだった。
消えちゃダメだって、僕は思った。
「僕は!」
口が勝手に動く。
「僕は、影山さんが大好きだ!」
勝手に、感情を吐き出す。
「よくわかんないけど、誰がどう思ってても、僕だけは影山さんが大好きだ!」
ヘッドライトが近づき――狭い道を、速度を落とした車が通り過ぎて行った。
「は……?」
影山さんは首を傾げる。
「だから、えっとその……」
「急に大声出したと思ったら……恥ずかしいやつ……」
立ち止まったまま、クスクス笑う。僕を揶揄うような言い草だったけど、普段のニチャっとした嘲笑じゃない、真っさらな笑顔だった。
「もう、今の失敗! 早く行こうよ!」
どうにも居た堪れなくなって、僕はさっさと歩き出す。
「今日は、ありがとな……」
遅れて歩き出した影山さんの声が、後ろから聞こえる。
「阿部くんがいなかったら……三浦サンの前だって、きっとあたしは……取り乱してた……」
僕は立ち止まって振り返る。
「そう、なの?」
影山さんはコクリと頷く。
「お母さんの事を知っていくの……ほんとは、すごく怖い……。知りたくなかったことも、知ってしまうかもしれない……。だから、今までずっと避けてたんだよ……」
両手で肩を抱く。
全身の震えを抑え込もうとするように。
「でも、阿部くんが一緒なら……あたしは、大丈夫……」
それは、さっき僕が口走ってしまった恥ずかしい言葉に対する、影山さんなりの答えなのかもしれない。
細い県道を抜けて、国道脇の歩道に入る。
広々とした視界の先には、見慣れた大きな山脈が、壁みたいに立ちはだかっていた。




