俺と幼馴染と彼(2)
合同体育祭である。
はじまりはウチの学校の生徒会長によるグダグダ挨拶。
いや、気持ちはスゴイわかるよ?
隣に並んでるナンコウ生徒会長に全部目線を持っていかれてんだもんな……。
加えていやんなるほどの存在感とプレッシャー。普通に立ってるだけでアレとか、ほんとやってられない。
哀れなり、会長。見てるだけで居たたまれなくてツラかった。
せめて成仏して欲しい。
そして、本番。
ナンコウとの決戦である。
つまり、アイツがラスボス。
「あれ? 君、確か白雪の幼馴染くんだったよね」
ラスボスの癖に割と気軽に競技に出てくる。
んだよ、もっと重鎮らしく最終競技とかに出て来いよ!
「白雪じゃねーし、千紘だし。幼馴染くんじゃねーし、大島だし」
「そう怒るなよ、律クン」
っかー!!!! こいつマジで性格悪いぜぇ!
ちゃんと覚えてんじゃねーか!
額に青筋を浮かべているだろう俺に、高柳は不敵に笑った。
「お手並み拝見」
……はあ!?
舐めやがって!! 絶対にコイツにだけは負けたくない!!
まだまだ色物競技前の堅物競技時間。
並んで参加することになったのは短距離走。
序盤で、しかも最も多くの人数が参加するこの競技に当然周りはだらけ気味だ。
俺と高柳だけが本気のクラウチングスタートをきめた。
「うおおおおお――――!!! 何でもかんでも一番だと思うなよ!?」
走るのは得意中の得意。
「あっはははははは!」
なのに、だ。
こちとら全力で挑んでいるというのに、当の高柳晴久は大爆笑。
こなくそ!
しかも大笑いしながら、他をぶっちぎる俺と並んでくる。
俺の全力だぞ、この野郎! 余裕でついてくるなよ!
「わあお、高柳先輩が声上げて笑ってる……」
「はぁぁ~すてき」
「ナンコウずるい、いつもこんな目の保養出来るんでしょう?」
ナンコウだろうがウチの高校だろうが関係なく、女どもは漏れなく目と顔が溶けかけている。
言っとくが、その顔見れたモンじゃねえぞー!!
結果は僅差で高柳の勝ち。
「やるじゃん?」
余裕そうな顔でそんな声をかけられた俺の心情ときたら、怒髪天を突くに相応しい。
「……次は勝つ!」
お? なんて顔をしてから、高柳は破顔した。
「期待してるよ」
女子の悲鳴がバックコーラスで鳴り響く。
近くの男子がため息を吐いた。
「もはや嫌味だろ、存在自体が」
「体育会系の部活はここで活躍するしかねえのに。根こそぎ持っていかれるんだから、やってらんねーぜ」
完全に同意させてもらう。
だがそんな妬みもBGMにしてしまう男、それが高柳晴久。
「珍しいな、ってかアイツがあんなに感情出すの初めて見たかも」
「楽しそうね、高柳くん」
ナンコウの上級生なのか、少しだけ気安い声も聞こえた。
その声は例外なく優しさを含んでいて、あいつは周りにすら恵まれているらしいと気付かされる。
隙がなさすぎだろう!
かくいう俺はというと、なぜか自校の男子共にちやほやされている。
「お前すごいな」
「ただのサッカー馬鹿かと思ってたわ、すまん」
「ポテンシャル高すぎねえ?」
同じクラスの男子がちょっとした尊敬の目を向けてきた。
少し得意になったが、思い直す。
いかんいかん、思い上がってどうする。
「まっっっったく! 勝ててないけどな!!」
自分で言って自分で凹む。
「いや、十分すげーと思うけど。なにせ唯一対抗できてるのお前くらいだし」
「他なんて足元にも及んでないし」
「ってかナンコウの連中目を丸くしてたぞ。いやあ、俺も友人として鼻が高いぜ~」
ばんばんと背を叩かれて激励してくるのはなにも同学年だけじゃない。
「お前がウチの希望だ。あいつが出てきたらお前をぶつけるからよろしくな!」
「心配すんな、参加競技くらいこっちで弄っといてやる」
「絶対にあいつを負かしてやろうぜ。頼んだぞ、一年!」
自力で何とかしようとすることを諦めた先輩方を責める気にはなれないのは、高柳が突出し過ぎているからだろう。
特に男性陣は気合の入りようはスゴイ。
……わかります。
ええ、ええ! 嫌ですよね、ムカつきますよね!
俺はがしっと先輩の手を掴んだ。
「俺でよければ全力で力になります!」
「そうこなくちゃ!」
なぜか時間を追うごとに高くなっていく一体感。
俺は点数ボードを見やる。
高柳晴久に見せ場は持っていかれているけど、総合的な点数は互角。
あいつに勝てない分、自競技に全力で取り組む男子連中と、そんな男子の奮闘に引っ張られる形で、いつもは適当な女子たちもいつになく力が入っているようだ。
「ねえねえ、すごくない? ウチらすごくない? あのナンコウに互角とか! やればできるじゃん」
「実はあたし、ナンコウ受験して落ちてるんだよね。いやあ、スカッとするわー!」
「え、そうだったの!? ならさ……やるしかなくない?」
「そう、やるしかなくなくない?」
「「「あっははははは」」」
「なんか、楽しいねぇ!」
「確かに、たまにはこうやってみんなで何かやるのもいいかもね」
……暢気なもんだ。
けど、悪くない気分だった。
「おう、頑張れよエース!」
「よ、対抗馬!!」
競技に出向く花道では顔も知らない人たちから声をかけられる。
「もうちょっとマトモな声援お願いしますよ、先輩!」
どっと笑いが起きる現場。
やんややんやとお祭り騒ぎ。
こう云うの、いいなあ。
仲間みたいで、いいなあ。
一人でいいと、二人だけでいいと思っていた頃もあったけど。
「りーつ!」
呼ぶ声がした。
ずっと傍にあった声だ。
声を聞くと、体が引っ張られるように勝手に向き直る。
何をおいても最優先、それは今も昔も変わらない。
「千紘!!」
あっという間に先ほどまでの意見が翻る。
やっぱり、二人も悪くないなんて。
「楽しそうね?」
「……ん~、まあ、期待されてるみたいだから、応えないとな、とは思ってる」
照れくさくて頭を掻く。
「リツが楽しそうだと、わたしは嬉しい」
臆面もなく、千紘は笑う。
そっと手を伸ばした白い手が俺の頬を拭った。
汚れでもついていたのかもしれない。
繊細な指先は想像に違えず、少しだけ冷たい。
俺もだよ、千紘。
千紘が笑うと俺は嬉しい。
千紘が笑ってくれるなら、大抵のことは出来る気がする。
口に出すのは照れくさいから、心の中で返した。
多分、伝わってるんじゃないのかな。
敵陣の華である千紘と俺の様子に多少外野がざわついているが、無視である。
千紘は少しだけ、苦笑に似た笑みを乗せて俺を見た。
「男の子って、ずるい」
意味がわからず、きょとんと俺は千紘を見返す。
「わたしがどんなに頑張ったって出来なかったことを軽々とやってのけるから。……男の子同士っていいな」
いまだにピンときていない俺に、千紘は噛み砕いて言った。
「リツが頑張ってるのを見るのはとても嬉しいけど、それをさせたのがわたしじゃないから」
「まさかそれって高柳の事!? 勘弁して、千紘。あいつは敵! どう考えても敵!! 心外だ!!」
「あら、間違ってないわよ。いま、この胸にいるのは誰?」
とんと千紘の細い指が俺の胸を押す。
……そりゃ、アイツに勝つことをずっと考えてるさ。
でもそれは、
「ほら、ね?」
俺の心の叫びを遮って、間違ってなかっただろうと千紘は俺を責める振りをした。
「嵐に嫉妬してるの。リツを独占して、ズルいと思わない?」
口を尖らせて、そんな可愛いことを言ってくる。
千紘の方がずっとズルいと思うんだけど?
「わたしじゃ、ダメだったのに」
悔しすぎるじゃない、と千紘は眉を下げた。
「わたしじゃ、リツは……」
千紘は言葉を千切って、軽く首を横に振る。
意味が捉えきれない俺の頬にもう一度だけ触れて微笑んだ。
「すぐにわかるわ」
千紘が間違ったことはない。
すぐにわかると言ったなら、きっとすぐにわかるのだろう。
昼はここぞとばかりに張り切った母親の手料理と、千紘からはデザートの差し入れ。
わざわざこちらの陣営まで足を運んでくれた千紘は、ちらりと少し離れた場所で俺待ちをしているクラスメイトたちを見て、「たくさんあるから、みんなで食べて」なんて。
そんな優しさいらないから。
アレ、興味本位で見てるだけだから。
ってか、邪魔だから。
くるりと後ろに首を回して文句を叩き付ける。
「お前ら、千紘が減るだろう! ジロジロ見るなよ!」
「減らないわよ」
千紘の冷静なツッコミはクラスメイトたちには聞こえなかったようで、むしろ俺の声をきっかけにどっと近寄ってきた。
なんで逆効果!?
「あ、あ、あの! 白雪さんですよね! お会いできて光栄です!」
「近くで見てもお綺麗ですね!」
「うわあ、めっちゃかわいい!!」
「ほっそ! 華奢! 儚げ美人! 俺のガサツな姉妹に見せてやりたいわ」
「白雪さん、ボクと握手してくださいー!」
わらわらと鬱陶しい男どもの、一人ずつ話すなんて配慮もない不協和音。
面食らっていた千紘はすぐに花のように微笑んだ。
「ありがとう」
友人たちが思わず黙り込む。
わかる。
わかるけど!
俺は思わず千紘を睨んで、責める言葉の代わりに肘で突く。
「いった、なによ。……ええ? なんで怒ってるの?」
文句を言う口は俺を見てから戸惑いに変わる。
どうやらあからさまに不機嫌な表情だったらしい。
「なんだかよくわからないけど、暴力反対! 口で言ってよ、口で」
ぷりぷりと怒る千紘は小動物みたいでかわいい。
お返しとばかりにぐいぐい押してくるけど、それなりに上背のある俺はビクともしない。
それがまた気に入らないようだ。
憮然とした表情が全てを物語っていた。
「もう! もう! 昔は天使みたいだったのに! こんなに大きくなっちゃって! もう!」
俺のへの字だった口も緩むというもの。
上目遣いで睨まれても怖くはない。
ニヤニヤ笑いが漏れないようにするのが精一杯だ。
変態クサイから意地でも表情には出さないけど!
「は、はい! 白雪さん、質問です!」
俺と千紘のやり取りをきょろきょろと交互に見ていた、美少女名鑑監修者(予定)の田村が手を挙げる。
「リツのクラスメイトの? ええと……」
「田村です!」
「田村クン! はい、どうぞ?」
破顔して名前を呼ばれた田村が、一気に本気の赤面をした。
サービス良すぎ。
そんなやつに無駄に愛想よくしなくていいから。
「あ、あ、あの、とても仲がよさそうに見えますが、大島とはどういったご関係で?」
「ふっふっふ、どんな関係だと思いますか、田村クン」
質問に質問で返されて、田村が「ええ!?」なんて声を上げている。
「恋人、とか?」
「ぶっぶー! 不正解です」
「じゃ、じゃあ、幼なじみ、……とか?」
「一回不正解だったので田村クンにはもう回答権がありません!」
「うそ!?」
千紘は基本的に冷淡色で出来ている。
そのせいでガラスみたいな印象があった。
つまりは、硬質で、触れば冷たくて、衝撃に弱くて、透明感がある。
印象は印象だ。
付き合ってみれば、そうではないことがすぐにわかるだろう。
「教えてくれないんすか!?」
「真相は闇の中でーす!」
でも初対面の人間は見た目からは想像できない気安さに、こんな風に少々面食らう羽目になる。
「わたしは答えないけど、リツなら教えてくれるかも?」
と、思ってたら俺にとばっちりが来た。
「大島、どういうことだ!」
「なんで白雪ちゃんみたいな子と仲が良いんだ!?」
「どうやったらお知り合いになれるのか、教えてくれー!!」
「ズルい、ずるいぞ! お前だけ抜け駆けとか、許さん!」
「う、うわ! 掴むな、離せ! ええい、男の嫉妬は見苦しいぞ、おまえら!!」
亡者の群れのように集ってくるクラスメイト相手に「散れー!」と暴れていると、うまいこと輪をするりと抜けた千紘が悪戯顔で手を振っていた。
口パクは「ガンバレ」。
俺も「おぼえてろよ!」と口パクで返す。
ひらりと踵を返した千紘の後姿。
戻る場所はアイツの所なのだろうかと、思わず手を伸ばしそうになって慌てて手を下ろす。
行き場を失った手が少し物寂しい。
和気あいあいとした気分を堪能できたのはそこまでだった。
競技は後半戦を迎えている。
俺と高柳は幾度となく競い合って、……そして俺は全部に負けていた。
「僅差じゃん、次は行けるって!」
周りはそう俺を慰めるけど、僅差でも負けは負けだ。
というか、口には出せない事に、勝てるビジョンが俺には浮かばない。
点数ボードには相変わらず差はなかった。
「よっしゃ、行ける! 行けるぞ! 勝つ!」
「次の競技で一年に10点取ってもらって、二年で30点稼ぎ出して逆転。行けるよな?」
「いや、ここはナンコウを抑え込む戦法でいった方が良くないか?」
「ちょっと、途中で女子競技挟むの忘れてない?」
「そーよ、作戦なんて立てても無駄無駄、あたしたちが逆転してあげるわよ」
「ひゅー! 言うねえ!」
ブラスバンドと応援団も熱が入って会場全体が熱気に包まれつつある。
これが人を巻き込む空気感ってヤツだろう。
「あっちは勢いだけだ! 実力では俺たちに分がある! 勢いでも負けんなよ!!」
「「「おお!!!」」」
煽り、煽られ、真剣に、勝負。
だからこそ楽しくて、勝っても負けてもいい思い出になるんじゃないかと、他人事のように思う。
俺は、俺だけは控え場所で頭を垂れながら座り込んでいた。
「っんで、勝てないんだよ」
悔しさに臍を噛む。
俺は負けたことがない。
傲慢にも、本当のことだ。
突出し過ぎることを恐れこそすれ、勝てないと思ったことはなかった。
全力を出せば勝てる。
でもきっと注目を浴びる。
それは本意ではないから、少し手を抜く。
負けて、悔しいフリをして。
誰も自分に注目していない事を確認してほっとする。
それは負けとは言わない。
だって、いつでも勝てたから。
いつでも?
今は?
僅差とは言うけれど、多分高柳は本気を出していていない。
あれでも、本気じゃない。
まるでかつての俺のようじゃないか。
「自業自得とはこのことか」
自分がやってきたことを、やりかえされている。
高柳にその意図はないかもしれないけど、それは事実。
敗北。
その俺の人生には無縁だろうと思っていた一言がふと頭を過ぎった。
「まだだ、まだ俺は全力じゃない」
かつては埋没するために隠した言葉を、今は縋るように口にする。
俺は特別だ。
特別なはずだ。
普通には生きられないくらい、特別だった。
千紘の手すら掴んでいられない程の荒波が押し寄せていた日々を忘れない。
怖くて、怯えて、震えて、世界は真っ暗だった。
もう千紘と二人で生きられればそれでいいと、小さな、本当に祈る様な願いを毎日空に捧げた。
そんな小さな願いしか抱けない、そう言う特別な人間。
それが俺だ。
なあ、特別なんだろう?
それくらい、俺はスゴイんだろう?
普通になりたいなんて、馬鹿みたいに傲慢な願いを抱くぐらい。
実力を隠して生きなければならないくらい。
俺は特別なんじゃないのか?
「どうして、」
ならどうして勝てないんだ。
隠れて、生きてきた。
隠して生きてきた。
「……本気って、なんだっけ」
どうやって、出すんだっけ?
俺は、泣きたくなった。
情けない言葉は、俺の人生そのものだ。
日和って、思い上がって、世界を閉じて息を潜めて生きていた俺の。
――千紘の言っていた言葉を思い出した。
すぐにわかる、と言っていた。
あの言葉の意味。
不意に脱力感が俺を襲った。
思わず顔を両手で覆う。
――千紘は、俺じゃ決してあいつに勝てない事を知っていたんだろう。
俺の、思い上がりを、千紘はきっと知っていた。
俺の世界が狭い事。
俺が井の中の蛙だって事。
自分が他より優れてると。
他と違うと。
俺以上なんていないと。
他でもない俺が、一番思ってたんじゃないか!
恥ずかしさに顔が歪んだ。
それを見られるのが嫌で汗を拭う振りをして、タオルを頭から被り顔を隠す。
――世界は、広い。
俺が思っていたより、ずっと広いのだ。
幼い俺の、幼い世界にヒビが入った。
『俺よりスゴイ奴がいる』
それを認める。
ぐっと力の入った両の手。
組んだ指が白くなるほどに握りしめて震えを隠した。
俺は足りない。
手が届かない。
何もかもが満たない。
対して、あの男はどうだ。
速度、瞬発力、持久力、頭脳、どれも足りないものがない。
全部が全部一般人としての限界を突破してる。
チートだ。
もはやチートである。
だけどそうじゃない。
俺だけは、俺にとってだけは、そうであってはいけない。
あの男は恵まれている。
それは確かだ。
でも、俺だって同じように恵まれていた。
条件は同じ。
素養で負けているとは思わない。
敗北を認めてなお、そう思う。
ただの意地かもしれない。
でも、そうするともう一つ、認めざるを得ないものが見えてくる。
アイツに届かないのは、俺に足りないのは――――。
ずっと努力をしていたら、あいつに勝てた?
張り合えた?
わからない。
わからない、けど、
体中を渦巻く感情が俺を翻弄する。
恥辱と、屈辱と当惑。
悔恨と諦観と失望と劣等感。
俺には一生縁がないと思っていた感情たちが引いては返し、寄せては引いていく。
そして最後にふつふつと熱が湧く。
頭の中を沸騰させるような、――闘志。
その感情の名を、俺は知っていた。
『初めから、全力を出したって及ばない人間がいる』
絶望?
いや、それは、
きっと、
――――歓喜と言う。
初めてぶち当たった壁が、今、目の前に。
高い壁だ。
とてもじゃないけど届きそうにない。
なのに、体中が狂喜していた。
俺は、頑張ればよかったんだ。
もっと、努力をしてもよかったんだ。
乾いた口を無理矢理開くと、湿った笑いが漏れた。
「はは、……頑張っても、いいのか」
そうか、いいのか。
いいんだ。
そう認めると、急に視界が開けたように感覚が広がった。
本気でいいのか。
いいんだろう。
全力を、出してもいいのか。
いいんだろう。
だって、壁はきっと生半可じゃ乗り越えられない。
越えるためには、全力を出さないとダメなんだから!
名前をコールされた。
俺はゆっくりと立ち上がってグラウンドの土を踏みつける。
次に呼ばれる名は知っていた。
今日何度聞いたことか。
相も変わらず、颯爽とした姿が隣に立つ。
ああ、高柳晴久、おまえの事は大嫌いだ。
世界で一番嫌いかもしれない。
そもそも千紘と距離が近すぎる。
千紘に近づくヤツは皆気に食わない。
けど、出会わせてくれたことに、感謝する。
上がいることの喜びは、きっと俺しかわからない。
でも、おまえだって、そうだろう?
俺は隣の高柳を横目で見る。
俺を見ていたらしい高柳と目があった。
少しだけ俺より高い目線を真っすぐに見つめ返して、親指で自分を指す。
不敵に笑って見えているといい。
「張り合える人間が、ここにいるぜ?」
それが、どんなに嬉しいことか。
俺が一番よく知っている。
俺の突然の宣言に、高柳晴久の変化は顕著だった。
歓喜に輝く。
その言葉を、この時の高柳ほど体現している者はいないだろう。
太陽を閉じ込めたような熱が瞬時に瞳に宿ってギラリと鋭く反射した。
シャープな頬にさっと血の色が指し、口の両端がぐいとつり上がる。
……それが本性か。
随分と凶暴そうなツラじゃないか、ええ?
でも、
「澄ました顔より、ずっといい」
興奮が血流に乗って体中を駆け巡った。
天才の孤独と言うにはおこがましいが。
超人の孤高と言うには世界は甘いが。
誰かに挑めるということは。
誰かと競えるということが。
どんなにか奇跡であることを、自分たちは知っている。
「白雪に感謝だな。お前に出会わせてくれたんだから」
獰猛な気配のまま、高柳が笑った。
魂ごと捻り潰しそうな存在感に少し引きつる。
それはこの世界にあっちゃいけない類のものじゃないか?
自重は忘れるべからず。これ絶対。
俺は嘆息しながら、引き摺られるように漏れた笑いをかみ殺す。
「そりゃどうも。精々落胆されないように本気の一つでも見せようじゃないか」
ニヤリと笑って、互いの手を弾くように叩きつけた。
小気味いい音がグラウンドに響く。
準備の合図がかけられ、ピストルがスタートを告げる。
限界まで引き延ばされた感覚と引き絞られた筋肉。
ちかちかと体を動かす電気信号までも知覚して、俺は弾丸のように飛び出した。
ぶつかり、交わり、縒られ、音を超えて、光になって、それは道を拓く。
隣を往く人は、多分世界で唯一の同類なんだろう。
観衆からは驚愕の騒めきの後に大歓声。
「もう! ズルいなあ! 嵐ったら、あんなに嬉しそうにしちゃって! わたしが出来ない事を簡単にやるんだから!」
その中に千紘の文句が聞こえた。
耳が勝手に拾うのだからこれは不可抗力という。
睨むな、高柳。
「わたしだって、リツにあんな顔させたかったのに!! 男の子同士って反則よ! 太刀打ちできないじゃない!!」
……彼女は、俺の原動力がそもそもどこにあるかを知っているのだろうか。
真剣勝負の最中なのに、浮かぶのは柔らかな笑み。
こんな時でも、心にいる。
どんな時でも、君がいる。
知ったら千紘はどんな顔をするだろうか?
走り終わったら懇切丁寧に教えるのもいいかもしれない。
心の中だけじゃなくて、言葉で、声にするのも、たまにはいいだろう。
さて、これだけ気炎を吐いたけども。
結果は俺の負け。
これを完敗と言わずして何と言うのか。
「ま、そうだよな」
肩は落ちるけど、心の方は晴れやかだった。
そう簡単にはいかないらしい。
そう簡単には越えられない事が嬉しい。
それでもって、今度こそは、本当の僅差だったと言えるから。
「次は勝つ!」
「期待してるよ」
数時間前にやったやり取りをもう一度やり直す。
本気で、勝てないとは思わない。
返す高柳の声にも、口先だけじゃない本物の感情が籠っていた。
「つーわけで、俺が勝ったら二度と千紘に近づくなよ!」
「……ブレない奴だなあ、おまえって」
なんだよ、文句でもあんのか?
「いや? ……白雪をよろしく、と思ってね」
「お前に言われることじゃねーから! あと、お前と千紘にはよろしくされるような絆はねえ!」
「あるよ、幼馴染だもん」
「幼馴染は俺だ! お前じゃない!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎながら退場していく先。
退場口では千紘が手を振って待っていた。
その隣にはお馴染、入江の姿。
入江はいつも通り俺を睨み、ついでに高柳も睨まれる。
おや?
高柳を見ると、ヤツは肩を竦めて苦笑した。
……高柳を苦戦させるとか、入江ってマジすごい。
「おかえり、リツ」
千紘が目を細めて微笑んだ。
「ただいま、千紘。ちゃんと俺を応援してくれた?」
「ちょっと! 図々しいわよ、大島! 千紘はナンコウなんだからアンタを応援するわけないでしょ!?」
「じゃあ、陽菜乃は同じ学校の俺を応援してくれたんだ?」
「はあ!? だれが馴れ馴れしく名前を呼んでいいっていったのよ! 許可もなしに異性の名前を勝手に呼ぶとか、あんたの頭の中どーなってんの!? 学科以前に、常識を学びなさいよ!」
「これは手厳しい……」
「ファイト、嵐」
「千紘、あなたどっちの味方なの!?」
「陽菜乃かな」
「手の平返すの早すぎでは!? 白雪さん!」
騒がしさが二倍になった。
きゃんきゃんとじゃれている高柳と入江を余所に、千紘がそっと俺に近づいてきた。
「リツ、楽しそうね?」
「ああ、千紘がいるからな」
楽しいとも!
千紘が予想外だったらしい台詞に目を見張って、あわあわと挙動不審になった。
その手を強引に取る。
細い手をぎゅっと握って、歩き出す。
世界は、広い。
かつては牙を剥いた世界が、
「リツ!? 周り見えてる!? ちょ、ちょっと嵐、助けて! どうにかして! リツ、正気に戻って!」
いまは、輝いて見えた。