第十七録 『正しさ』の教科書は
聞こえる音で風が荒々しく吹き荒れているのが分かる。
「……自分の言っている事が分かっているの?」
「はい。貴方が話したくない事である事も、それを聞く事で僕は貴方を否定しなければならない事もよく分かっています。」
自分から式を手放すなんて事例は歴代の神野家の記録にも、なんなら時雨全体でも見つからない。緒梨さんが、手放した理由はきっと乙梨紫音にあるはずだ。そして、この出来事があるからこそ乙梨さんは緒梨さんに執着している。
「私に直接聞いてきた理由は?知っている奴は燐にいくらでもいるでしょ。」
「禁術を使って、緒梨さんの記憶を十年ほど見ました。そこでキャパシティの限界を迎えて話を聞く方向に転換しましたが、金扇さんからは『本人に聞け』と言われましたし、天威さんは出戻ってきた僕を警戒しています。澄は論外、賭さんは……そっとしておいた方がいいなと。姫宮百合香に聞こうか迷いましたが……単純に僕はあの人が苦手なのと、貴方も嫌だろうと踏んだので。」
『姫宮百合香』の名を聞いた瞬間に乙梨さんの視線が鋭くなったが、僕があの人と話す気がないと分かるとすぐに軟化した。
「そう、あの老害に聞かなかったことだけは褒めてあげる。」
ため息を吐いて、乙梨さんは続けた。噛み付く寸前の獣のように敵意を隠す事なく。
「でもね、ポッと出でしかないアンタが、一年ちょっと燐にいただけの他人でしかないアンタが……先輩が残したものを知る権利なんてないのよ。」
吐き捨てるような言葉。けれど、その言葉には明らかにただの信仰とは違う何かが滲んでいる。
「……アンタは先輩ことも、燐の事も、時雨のことも、なんにも、何も知らないでしょ!?式に振り回された事もない!初めから霊が視えていたわけでも、霊に何かを奪われた事もない!普通の家に生まれて、普通の日常を過ごして、平和に生きてきたんでしょ!?」
初めて、彼女が声を荒げるところを見た。静かだと感じていた彼女の印象は今の姿を見て跡形もなく消し去っているように感じる。
「自分の意思て決めることの出来ない幼子を奉る大勢の大人達を見た事がある!?親が自分の名前を読んでくれなくなった苦しみが分かる!?分からないでしょ!!何度祈っても救ってくれない神を恨んだことだってないんでしょう!!」
僕は乙梨さんがいうように大勢の大人を見た事がないし、親というひとが名前を呼んでくれなくなって苦しくなった事がない。救いを祈った事もないし、神を恨んだ事もない。……誰かに救われたことだってない。14歳まで霊に触れず、ただ平和に生きてきた。
「そんな中、現れた『光』が救いなんて陳腐なもので片付けられるわけがない!先輩は私の全てなの!!それを、なんにも知らない、普通に生きてきたアンタが気安く触れて良いはずがない!!……っないのよ。」
でも、何もなかったわけじゃない。
息を吸って、声を荒げず、けど確かにはっきりと僕はそれを言う。
「……乙梨さん。僕は、ーー。」
貴方には、これを話したって何も言われないだろう。
『それ』を聞いた彼女の顔は、困惑と、衝撃と、一部の哀れみが入り混じっていた。迷うような目が僕を見る。
「……『なんで』、なんて不躾ね。」
「……あの時の僕には、思いつく術がそれしかありませんでした。驚きましたか?」
「……ええ、でも納得した。」
『納得』?いったい何が。
「アンタは、始めから歪まされてたのね。正しさなんて最初から理解してない。」
「僕なりの『正しさ』の解釈はありますよ。罪も理解できています。」
「でもその『正しさ』に自分を当てはめていないでしょう?……罪人を気取るのは楽?正しくあろうとするのは苦痛かしら。」
何が言いたい。何を僕に分からせようとしている?
「それは貴方もではないんですか。」
「私は『自分は正しい』と思って生きてる。限りなく、この世界の中では。」
正しさなんて時によって変わる。場所によって変わる。人によって変わる。『正しさ』を基準にするのはこの世界では生きづらいんだ。正しさなんて信じれない。
「ねぇ、アンタは何を信じたいの?何を信じれないの?私は神を信じれない。私は先輩が信じてると言った私を信じたい。ねぇ、惟芽胤。」
「……僕は、」
「アンタの中の正しさは何?」
僕?僕に『正しさ』なんてない。だって、僕はひとごろしだ。先生の事も裏切った。信じたいのものなんかない。ないはずなんだ。だって、教えてもらえなかった。あの人からも、先生からも。先生は、先生。先生、先生?先生はいつも教えてくれた。話してくれた。でも、でも!
「……せん、せい……は、」
「『先生』?先生って……」
信じたかった。違う、期待してたんだ。
先生の話は、いつだって本の中の空想みたいだったから。先生は信じれなくても、先生の言葉を信じてみたかった。
頭がクラクラする。分かんない。なんで、どうして……。
「……先生……僕は、。」
「ねぇ、アンタは……一体何を……っ!」
音がズレる。『あれ』が最善だった。あれしか方法がなかった。ねぇ、先生。僕は、僕は……!
呼吸が、整わない。目の前が霞む。
「……っ惟芽!」
そこで、意識が途切れた。
「……どこで、」




