外伝 ~七夕の客人~ 第8話
黒髪ののぞみが笑っている。
デニムの上着にデニムのロングスカート。そして、足元はなぜか編み上げのごついブーツである。
笑ったものだった。
笑った? いつ? どこで?
疑問に思うが、笑ったと知っていた。
紅の髪のほむらが、右手に紅の刀身を持つカタナを持っている。振り回すだびに、焔が翻っていた。
ウツロウモノにたいして一歩も退かない姿は、感動を受けたものである。
ウツロウモノ?
知っていた。
人にあらざる人を喰らうもの。
飢えと言う欲望を満たすために、ただそれだけのために人を喰らうものだった。
ほむらとウツロウモノの非常識な戦いを見ていた事がある。
ほむらが嬉しそうに、口付けをしていた。
のぞみが顔を赤くして、跳び下がっていた。
そして……。
(どうなった?)
疑問が浮かんでくる。
忘れていた記憶なのか。それとも、ただの願望なのか。
ほむらに言った言葉。
『俺の名を取れ。おまえは……』
嬉しそうにほむらが笑う。
(なんだ……これは……)
記憶とは違うはずだった。覚えていない事を知っている。知っているから、疑問に思うのだった。
ほむらが口を開く。
「涼。寝ておったのではあるまいな」
目をしばたたかせて涼は、ほむらを見ていた。ブラウスにサマージャケットを羽織ったほむらが、目の前に立っている。
「……着替えたのか……」
「何を寝ぼけた事を抜かしておる」
「?」
ガードレールに腰を預けていた涼は、じっとほむらの顔を見て、不思議そうに首を傾げていた。
「白昼夢でも見ておったか?」
「白昼夢……?」
呟くと同時に考え込んでしまう涼を、ほむらはため息をついて見ている。そして、何を思ったのか、涼の手を引いて立ち上がらせると、唇を重ねていた。
白昼、それも人通りのあるところである。
通行人からは、野次と喝采が湧き上がっていた。中には口笛まで聞こえてきた。
「ばっ……なっ……」
言葉ならない声で、涼は慌ててほむらを引き剥がしていた。対してほむらは、ニッコリと笑って言う。
「戻ってきたか、愚か者め」
何も答えられなかった。考える事さえ思い浮かばない。
「世話のかかる客人よの。ぬしは」
ほむらの呆れたような声に、涼は大きく息を吐いていた。
「おまえ、ほむらだよな」
返ってきたのは、無言で涼の耳を引っ張って行く事である。
「いつつつ……耳を引っ張るな」
抗議を無視してほむらは、どんどん引っ張って行った。やがて公園に足を踏み入れたほむらは、無言で水道を示した。
「何だ?」
そう言う涼に、ほむらは実力行使に出る。
蛇口を捻り、流れ落ちる流水に涼の頭を突っ込ませた。
「うわっぶ……ちょっ、ちょっと待て、ほむら」
七月だから良いものの、これが冬場であれば冷たいだけでは、済まされなかったはずである。
「何すんだ!」
頭から滴を垂らした涼が叫んだ。
「目が覚めたか、ぬしよ」
声の調子が落ちている事に、気が付かなかった事が涼の敗因である。
「目が覚めたかじゃねぇ!」
「ぬしは我といて楽しくあらぬか。我の言葉は届かぬのか」
少し顔を伏せて静に言うほむらに、涼は戸惑った。こんなにしおらしいと、言うべき姿は初めて見る。豪快で口が悪く……?
「あれ?」
何を勘違いしているのか、分からなくなった。
ただ、眼の前のほむらは毅然と顔を上げて、真っ直ぐ射抜くような瞳を見せていた姿しか思い浮かばない。だから、今の態度は想像がつかなかった。
おかしなものを見たと言う思いが、涼を戸惑わせて言葉を発せなくしている。
「ぬしは……」
濡れそぼった涼の頬に片手を添えていた。
「我をどう……」
続く言葉が出てこない。
ほむらは自分が、何を言おうとしていたのか気がつき、眼を見張って手を下ろしてしまった。
(なぜ、こうも心が騒ぐのだ……我は狂っておるのか……)
七夕だけ存在。七夕だけの間柄であるはずなのに、人ではないはずなのに、ほむらはそれを惜しく思い始めている事に気がついてしまう。
その事に、戸惑い、迷い始めていた。
(我は人にあらず。我は七夕だけの……存在……なぜ、われが……)
胸が締め付けられる。
苦しいと感じていた。
「ぬしよ。我はなぜ、こうも苦しいのであろう……」
顔を上げて、涼を見るほむらの紅の瞳が濡れている。
言葉が返せなかった。
人にあらぬものが、揺るがない瞳を持つものが、こんな顔をするとは反則である。これでは、人そのものではないか。
ほむらのこんな顔を見るのは、二度目だった。
伸ばしかけた涼の手が止まる。
(二度……目?)
知っていた。
一度だけこんな顔を見た事があると、知っている。
忘れていた事を、思い出したとは違う感覚だった。しいて言えば、覚えが無いのに知っていると言う事である。
(な、ぜ…)
「ぬしは、おかしな客人であるな……我がこのように感じるとは……」
ほむらの声が、遠くに聞こえているようだった。
固まってしまった涼に、ほむらは怪訝そうに首を傾げて見ている。そして、両肩に手をおいて、覗き込むように顔を近づけた。
「どうした?」
「俺は……何を忘れている……」
「涼?」
身体が震えそうになる。
「俺は……何を知っている……」
心臓を鷲掴みされるような恐怖が、知らないはずの事を知っている恐ろしさが、身体を硬直させかけた。
こんな恐怖と恐ろしささえ、知っていたのである。
思わず涼は、ほむらを抱きしめていた。
砕けそうになる心を、ほむらに繋ぎとめて欲しかったのかもしれない。
「わっ、なっ……」
突然の事にほむららしくなく、慌ててバタついてしまった。
「すまん……砕けそうだ……」
涼の言葉から何かを感じたのか、ほむらはバタつかせていた手足を静め、涼の背に腕を回して抱きしめる。
「ぬしは砕けぬよ。ぬしは客人。七夕の結末を見定めねばならぬ」
優しい声音で、ほむらは涼に語りかけていた。
「我がほむらであるように、ぬしは神野涼であろう。他の誰でもなく」
その声音と言葉が、震える心が落ち着かせていく。同時に、腕の中にある女の身体を意識してしまった。
「すまん。もう大丈夫だ」
離れようとする涼を、ほむらは離さずにじっと見つめる。真っ直ぐ揺るがずに射抜くような瞳は、ほむらそのものを現しているようだった。
「ぬしは、いずれわかるであろう。その時、どうするかはぬししだい。我はぬしがどう行動しても後悔はせぬ。ぬしが示すままにしよう」
予言めいた事を言われても、理解できなければ意味はない。
が、一つだけわかった事があった。
いずれ、七夕の間に選択しなければならない時が来る。
漠然とした不安が、涼の心に湧き上がって来た。
それを気にし始めると、動けなくなると知ってる。だから涼は、不安を押し殺す事をせずに、内に秘めておく事にしていた。
「涼よ……」
ふたたび、ほむらは涼の頬に片手を添える。
「我は人を喰らう人にあらぬもの……」
呟くほむらに涼は、心臓が跳ねるのを感じた。それは恐怖からではないと知っていた。
「我は人にあらぬ。あらぬが……」
困ったように、ほむらの紅の瞳が再び力を失っていた。
「我はぬしが、欲しいのだ」
やると、言うべきではないとわかっていた。
言うべき言葉は違う。
「俺が欲しいのなら、おまえの全てを差し出せ」
ほむらの目が丸くなって行った。そして、ゆっくりと首を振る。
「それはできぬ。我は消滅する存在。ぬしと共に長くいられぬ」
「俺も同じだ。元々俺は、この地の者じゃない。七夕が終れば、この地を離れる。だから客人なんだろ」
「ぬしは、ヒドイな」
「どっちがだ。俺を振り回して、それで消えるか」
「我は七夕のみ存在しかあらぬ……」
力のない言葉に、涼は言う。
「だから、何だ?」
「我は……」
ほむらが涼に対して、好意と呼べるものを持ち始めているようだった。そして、涼もまたほむらに、好意以上のようなものを感じ始めている。
肌を重ねて情が移ったとは違っていた。
涼自身も信じられなかったが、自分の内に人にあらざるものに対して、恐怖を感じていない事が起因していると思える。
知っていると言う事が恐いと思った事は、一度もいままで無かった、しかし、覚えがない事を知っている状況は、自分でも不自然だとわかっている。
忘れたのか、それとも埋め込まれたのか、どちらにしろ涼はほむらや力のカケラが、どういう存在かを知っていた。
確証は無かったが、ほぼ間違いが無いと思っている。それに知っている事は、それだけではなかった。
自分の名が、何を示すのかも知っていた。
それが七夕に対して有効なのかはわからないが、有効なら力のカケラが一つもなくてもどうにかなる。
七夕に関して知らない事が多く、涼は自信が持てなかった。だからこそ、この状況が気に入らないのである。
どうにかしたいと思っても、ほむらはほとんど何も知らないと言っても良かった。それ以外に七夕に関して知っている者にも、心当たりはないのである。
残るは戦うと言う相手が現れるのを、待つしかないのかも知れなかった。
話し合う余地があれば話し合えるが、話し合う余地がなければ戦うしかないと思っているし、その事は理解している。
できれば、そんな事にならないようになって欲しいと思っている。




