25.色を問う者
〈それ〉は柔らかな微笑みを浮かべながら、外見からの想像に反した低い声で僕に話しかけてきた。
「使いとして来ました」
想い出の世界から時を刻む音が消えた。動くものは使者を名乗る〈それ〉と現在の僕だけだった。僕はついに〈それ〉と対峙することになった。
覚悟を決めるしかないのだろう。中川冬美が電車に飛び込んだ日、山崎が覚悟という言葉を繰り返していたことを思い出した。
何事にもいつかは変化という名の終わりが訪れる。恋人はいつか家族になり、家族はいつか死という別離によって想い出になる。ハッピーエンドであれバッドエンドであれ、いつかは何らかの終わりが来る。
〈それ〉は、過去の扉を行き来する僕へ、変化をもたらすためにここに現れた。そのことを僕はすでに知っている。〈それ〉のもたらす変化を、僕は山崎や中川冬美の結末という形で知っている。
喪失感に満ちた現実に苦しみ、だからこそ人並みな幸せを求めていた者たち。
それは僕も同じだ。山崎たちの結末が、理不尽なものであったのか、それとも救いの形の一つであったのか、そのことに僕はまだ答えを出せないでいる。
いずれにせよ、その結末は、目の前にいる〈それ〉が運んで来たものに違いあるまい。
しかし、今この目の前にいる〈それ〉が纏う、ふんわりと空に漂うような安心感は何なのか。少しでも気を抜くと、無防備な心を全部さらけ出してしまうに違いない。
だから僕は、本来持たなければならない危機感を奪い取られないように、あえて高圧的な態度で訊ねた。
「誰の使いだ?」
〈それ〉は変わらぬ微笑を見せながら答えた。
「名前を持たない、もしくはあらゆる名前の者です」
「山崎さんと中川さんをどうした?」
「名前を持たない、もしくはあらゆる名前の者が、決めることを促しました」
要領の得ないやり取りが続く中で、〈それ〉の微笑に含まれるわずかな憐憫の色に気づいた。だが、それは決して優位な立場にいる者のそれではないように感じた。漠然とした違和感を覚えながら、僕は続ける。
「なぜ、私に想い出を見せ続けた?私の運命を握っていることを示すためか?」
「私は使いに過ぎません。あなたは忘れているのです。私とご一緒いただけますか?」
「何を忘れていると?」
使者はそれには答えず、また繰り返した。
「私とご一緒いただけますか?あなたは選択することが出来ます」
〈それ〉は、山崎や中川冬美の過去の扉の中に出て来た使者と同じ存在であることは間違いない。そして、おそらく〈それ〉は死神だ。そう考えた。
「いいえ、私は死神ではありません。名前を持たない、もしくはあらゆる名前の者から使わされたものです」
〈それ〉は、僕の心を即座に読み取った。
「断ったらどうするつもりだ?」
「あなたには、選択の時間があります。次に、またお会いすることになるでしょう」
僕としては、じわじわと来るべき時間を延ばすよりも、今すべてを知りたかった。
「わかった。同行する」
〈それ〉は小さく頷くと、柔らかな微笑みを絶やさぬまま、右手を上に突き出した。
そのとき、〈それ〉の体に、ごく淡く光る半透明の翼が見えた。それは三対六枚の翼だ。
二枚で頭を、二枚で体を覆い、残った二枚の翼は今まさに羽ばたくためにゆっくりと広げられようとしていた。
瞬間、世界は闇になった。僕は驚き、周囲を見回した。寒くも暑くも無い、まったくの闇。僕は息を潜めた。わずかに耳鳴りがする。
(僕は死んだのだろうか)
そう思う間もなく、闇の中から、暖かなオレンジ色の丸い光が現れ、バレーボールほどの大きさになった。光は僕のすぐそば、顔の高さに浮かんでいる。
その光に照らされ、横には先ほどの〈それ〉がいた。
だが、すぐに〈それ〉は光に近づくと、その光に吸い込まれ消えてしまった。そのとき、光は大きさを変えずに、ほんの少しだけ明るさを増したように見えた。
僕は、もともと、過去と現在を行き来するような異常体験をしている。だから、この上何が起こっても不思議ではないと思っていた。そして、何が起ころうとも、それを受け入れる覚悟をして、この場所に来たのだ。
今、眼前で起こっていることは、まったく理解を超えたものだ。だが、覚悟を持っていたがゆえに僕は落ち着いていることができた。
その光は、ゆっくりと脈動しており、命があり人格のようなものすら備わっているかのように見えた。もし、これが死神の本体なら、僕の想像とは大きく異なっていたと言うべきだろう。闇の中でもさらに暗いものというのが、僕の死神に対するイメージだった。そこからすると、この柔らかで暖かい光は、正反対のイメージを持っている。
『ここでリタイアするか?あなたは選択することが出来る』
突然、その光の中から声が聞こえた。はるか遠い距離からわたってきたような響きだ。
その声は、大勢が同時に出す声のようでもあり、一人の声のようでもあった。また、男の声のようでもあり女の声のようでもあった。年齢を感じさせず、それでいて、どんな経験をも乗り越えてきたかのような説得力に満ちた声だった。
『私は直接あなたの世界に入ることが出来ない。一人ひとりの世界は私を迎え入れることが出来ないほど小さい。だから、私は私の一部を使いとして向かわせたのだ』
男の声で言った。
(やはり、僕はもう死んでいるのだろうか)
しかし、不思議と恐怖感はなく、懐かしい気持ちが心を満たしつつあることに気づいた。
(やはり、僕はもう死んでいるのだろう)
僕は先ほどのような高圧的な話し方をやめた。そうすることが正しい事のように思えたからだ。
「あなたはいったい何なのですか?」
『私はここに在る者です』
女の声が答えた。
「ここに在る者?」
光は答えない。
「では、こことはどこです?これが死後の世界なのですか?すると、私はすでに山崎さんや中川さんのように現実世界では死んでしまったのでしょうか?」
男の声で光は言った。
『あなたはまだ実在している』
(生きているということか)
『ですが、あなたには迷いがあります』
女の声で言った。
そのとおりだった。現在の世界での苦悩を受け入れるのだったら、僕は過去のみに生きていたい、そう考え始めていたのも事実だ。過去の扉の中で、美しい想い出だけを反芻しながら、漂うように生きて行きたい。言い換えれば、現在の世界へ戻りたくないと考えるようになっていたのだ。
しばらくの間、その光は敢えて沈黙の時間を持ったように思う。そうして光は、年齢を感じさせず、しかし深い経験を重ねた声で唐突に僕に問いかけてきた。
『あなたの想い出は何色だろうか?』
いつの間にか僕は、上も下も分からない浮遊感の中に身を置かれていた。
「私の想い出の色?……もしも想い出に色があるとすれば……」
考える。
『色があるとすれば?』
大勢の声で光は再び問いかける。
「もしも想い出に色があるとするならば……。それは白です」




