23.青いベスト
『静かの海』を案内してもらった2日後、八神から内線電話がかかってきた。休憩ルームで話をしないかという誘いだった。
当然、山崎の話だと思ったから、僕はすぐに行くと伝えた。
休憩ルームではすでに八神が待ち構えていて、僕が席に着かないうちに話し始めた。
「昨日、山崎さんの奥さん、いえ、元奥さんだって言ってましたけど、花束を取替えに来たところを見かけたんです。チャンスだと思ったので少し話をしました」
「えっ!ほんとうに?」
そう言いながら、僕は席に着く。
「本当です」
低い声で心外を装い、八神は多少おどけた調子で答える。もちろん、疑っている訳ではない。八神の行動力に感嘆して思わず出てしまった言葉だ。
「それで、山崎さんが亡くなったことは知ってる様子だった?」
「知っていました」
「うん。それで」
「笹井さんが、元ご主人と亡くなる直前まで親しくしていたことや、娘さんが交通事故ではなく行方不明だと聞いていたこと、先日、事故現場を見て笹井さんが泣いたことなんかを話してしまいました」
「うん。ありがとう」
「どんな理由があって、山崎さんは笹井さんに娘さんが亡くなったことを話さなかったんでしょうね?」
「話さなかったんじゃなくて、話せなかったんだと思う」
僕の表情が曇ったのを、八神はすぐに気づいたらしい。
「そうですか……。あまり言いたくなさそうですね」
「ごめん。彼の気持ちを思うと少し辛くなるから」
「いえ、良いんです。ちなみに、笹井さんにとって、山崎さんってどういう人だったんですか?」
さすがに、過去の扉を開けた超常体験の共有者とは言えない。
「親友という表現は当たっていないけど、世界観というか人生観を共有できる特別なつながりのある人だった」
「でしたら、心の友と書く方の心友ですね」
「そうだね。僕はそう思っていたよ」
八神の察しの良さには感心する。
「でも、僕は彼の自殺に至るほどの苦しみを結局理解してあげることができなかった」
だから、山崎をもっと深く理解しようと努力しなかった自分に対する後悔と、逆に山崎から置き去りにされたような気分が混在して複雑なのだ。
「元奥さんの携帯電話の番号を聞いておきました。向こうも笹井さんに会ってお礼を、と言っていましたよ」
そう言うと、八神は携帯電話番号を記したメモ紙を僕に差し出した。
これ以上、踏み込んでも良いのだろうか。儀式的な会話では終わらず、きっとデリケートな話も出てくるに違いない。そう思うとためらいもあった。
それに、山崎の本当の苦悩も『静かの海』の跡地に行ったときに、僕なりに理解できたつもりでいた。
しかし、結局、僕はその日のうちに山崎の元奥さんという女性に会うことにした。
僕は彼女こそが、山崎を責めて彼の心を追い詰めた張本人だと思っていた。
たしかに、彼女だって深い悲しみの底に沈んだのだろう。だが、だからこそ二人で寄り添い支え合う必要があったのではないか。そうすれば、山崎が過去の扉を開けてしまうこともなかった。いずれは悲しみを乗り越え、山崎も人並みの幸せを手に入れることが出来たのかもしれない。
そう、考えていた。
一言くらいなら、山崎を見捨てた恨み言を彼の変わりに言ってやってもいいかもしれないとすら考えていた。
彼女は、佐々木春香という名前だった。彼女の現在の住まいが深町だということだったので、深町のファミリーレストランで待ち合わせることにした。
佐々木春香は、僕の想像とは異なり穏やかそうで控えめな女性に見えた。そして、明らかに山崎の死を心から悲しみ、その理由に悩み、憔悴しきった様子に見えた。それは、顔つきや態度だけではなく、力を失った瞳にも表れていた。
そもそも、佐々木春香は、僕が彼女をどんなふうに思っているかなど知る由もない。だから、僕の前で見せている今の姿は、決して演技などではない。
僕は彼女のことを誤解していたのかもしれない。
佐々木春香は言った。
「山崎のことを悼んでいただきありがとうございます」
「いえ、私は山崎さんが自殺されるほどの決意を秘めていたことに気づくことが出来ませんでした。気づいていれば止められたかもしれない。それが悔しいです」
「山崎は純粋な人間でした」
佐々木春香は唐突に言った。僕は黙って頷いた。
「里奈が交通事故であんなことになってから、山崎は自分を責めていました。少しでも里奈から目を離した自分が許せないと、山崎は自分を責めていました」
「あなたも山崎さんを責めたのですか?」
僕はきつい口調にならないように、話の流れから自然に訊ねたふうを装ったが、彼女は一瞬驚いた顔をして僕を見た。
「いえ、私は責めたことはないつもりです。でも、それがかえって山崎には負担だったのかもしれません」
「いっそ、あなたが里奈ちゃんのことで山崎さんを責めた方が、彼にとっての贖罪となったのかもしれないということでしょうか」
「そうだったんだと思います。時間が経てば経つほど、山崎はふさぎ込むことが多くなりました。自分の店に行くにも『静かの海』に近づかないように遠回りしていたようです。そのうち、私に対しても子供を亡くした母親にしてしまった、申し訳ない、と泣きながら謝り始めました。そしてある日、有無を言わせぬ様子で別れを切り出してきたんです」
「それで、別れてしまったのですか?」
「はい。それが山崎の私への思いやりから出た提案だと分かっていましたし、山崎の心が平穏な状態に戻るためにも必要なことなのだと……。そのときはそう思ったんです」
話を聞きながら、僕は思った。選択を誤ったのは山崎だったのかもしれないと。
「私は別れなんて選びたくはなかったんです。私は亡くなった里奈のためにも二人が一緒にいるべきだと思っていました。それに……」
佐々木春香は、少しだけ言葉を続けることをためらう様子を見せた。
「私だって山崎に支えて欲しかった。二人で一生、里奈のことを思いながら生きて行きたかった。そうすることで里奈もまた、私たちの心の中に生き続けることが出来るのだと思っていました」
「よく、分かります」
「山崎は、私に思い切り罵倒して欲しかったのかもしれません。そうされることで悪いのは自分だけだと、里奈の死という現実を自分一人の責任として抱え込みたかったのかもしれません」
「でも、あなたはそうはしなかった」
「はい。『静かの海』近辺の道は、交通量が多くて危ないなとは思っていたんです。あの時、一言でも注意していれば。そう思って、私も自分を責め続けてきたんです」
「しかし、山崎さんはあなたに責任を感じて欲しくはなかった。そうして自分だけの責任にするために、いえ、自分を追い詰めて贖罪を求める道を選ぶために、あえてあなたとの別れを選択した……」
そういうことだったのだろう。
「自分勝手ですね、山崎は……。あの人だって子供を亡くした父親になってしまったんです。その責任は私にもあるはずなのに……。それなのに、一人で逝ってしまうなんて」
「私には里奈ちゃんは行方不明だと言っていました。山崎さんは悲しい現実を抱え込みながらも、認めることを拒絶していたのだと思います」
「どういう意味でしょう?」
「事情を知らない私のような第三者には、里奈ちゃんが亡くなったことを口に出そうとはしませんでした。いえ、口に出せなかったという方が正しいのでしょう……」
僕は、山崎の辛かっただろう気持ちを考え、意図せず、言葉が出なくなってしまった。だが、佐々木春香は、じっと僕の次の言葉を待っていた。
「口に出せば、どこにも里奈ちゃんが生きている世界が無くなってしまう。現実を認めることになってしまう……。里奈ちゃんが生きている世界を、どこかに残しておきたかったんだと思います」
くるみを亡くしたあとに続いたあの祈るような夢のように。
「たとえ空想の世界だとしても。僕のような者の頭の中だけの世界だとしても。それが山崎さんなりの里奈ちゃんとの絆だったんでしょうね」
「だから、私とは離れていたかったんでしょうか」
「人の心は複雑ですから。自分を責めて追い詰めたあげく、里奈ちゃんの死を知っている人間を少しでも遠ざけておきたかったのかもしれません。山崎さんはそうすることで、里奈ちゃんがまだこの世界のどこかで生きているんだと無理やり思い込もうとしていたのかもしれませんね」
「そのくせ、里奈の事故現場には花を置きに来ていました。やっぱり自分勝手ですよ」
涙をためながら佐々木春香は、そうつぶやいた。
「ご存知でしたか?山崎さんはどんなに寒くても青いベスト姿のままで、上着も羽織っていませんでした」
佐々木春香は驚いた様子だった。
「それはあの日の服装ですね……。」
「里奈ちゃんがすぐに自分を見つけられるように、あえて目立つ格好をしているのだと言っていました。最初は里奈ちゃんとの想い出をいとおしむ気持ちから始めたことかもしれません。ですが、里奈ちゃんがこの世界に生きていると思い込むためには、やめるわけにはいかなかったんでしょうね」
「知りませんでした」
「こだわりというには少し悲しいですね。ですが、その気持ち、分かるんです」
「里奈が生きている世界をどうしても残しておきたかった……ですか。でも、山崎の心はとっくにこの世界から離れていたのですね」
外に出ると、月は満ちており、ちょうど東の空の高い位置にあった。
月の黒っぽい部分、つまりクレーターの目立たない平坦な部分を、昔の人は海だと考えた。もちろん、そこが地球で言う海などではないことなど、とっくに分かっている。昔の人は海の部分が月面に形作る模様を見て、そこにウサギの姿を見出した。
ウサギのキャラクターの里奈の壊れた時計。
月のウサギの顔のあたりに位置する『静かの海』。
僕は空想する。
里奈はずっとそこに居て、きっと山崎を見つけることが出来たに違いない。今は二人、月の『静かの海』で楽しく食事でもしているのだろう。
山崎は相変わらず青いベストを着ているのだろうか。
いや、彼にはもうそんなことをする必要はないはずだ。
見つけて欲しいと祈り、見つけたいと願った里奈が目の前にいるのだから。




