19.静かの海
中川冬美の一件は、僕の心に消えない尾を引いたままでいた。山崎にとっても同じだろう。あのとき以来、山崎は元気がなくなったように見える。
駅のホームで見かけても普通に会釈はするが、どこか思いつめた雰囲気が伝わってきた。その様子は、少しだけ中川冬美の諦観した表情を連想させたが、さすがにそれは考えすぎというものだろう。
僕は、山崎の過去の扉の向こうで出会ったという人物のことが気になっていた。浮世離れした格好の人間、使いの人、表現はそれぞれだが、いずれは僕の前にも現れるだろう存在。
だから、山崎とは早いうちに話をする機会を持とうと思ってはいたのだが、同じ車両に乗るのはルール違反のような気もして遠慮していた。せめて夜にでも会って話をする約束を取り付ければよかったのだが、それもなんとなく出来ないでいた。
いや、正直に言えば、僕もまた一人でいたかったのだ。
僕よりも過去の扉を開けた回数の多い山崎ほど、差し迫ってはいなかったかもしれない。だが、中川冬美の運命を他人事とは思えなかったのは僕も同じなのだから。
数日が過ぎ、会社帰りの電車の中でアナウンスを聞いた。
「本日早朝5時30分頃に東桜堀川台駅で発生した人身事故の影響により、今朝はダイヤが大幅に遅延しましたことをお詫びいたします。ご利用のお客様にはご迷惑をおかけし、まことに申し訳ございませんでした」
嫌な連想が始まった。いつもと同じ電車に乗って、東桜堀川台駅で下車し、過去の扉を開いて、再びホームへ戻ったとしたら、次の電車は5時30分頃の通過になるのではないか。
中川冬美の行動が山崎に重なる。すぐに、まさかと思った。だが、そのうち、もしかしたらと考え始めた。
山崎の中川冬美を思わせるどこか諦観したような表情が考えすぎではなかったとしたら。
やがて、その考えを止めることが出来なくなり、それしか考えられなくなった。僕は神林駅に到着して電車を降りるとすぐに山崎の職場へ電話を入れた。
何度呼び出してもつながらない。
山崎は海外雑貨の仕入れ交渉は夜にやっていると言っていたから、当然、店にいる時間のはずだ。もしかすると、今日は休業日なのだろうか。そうであって欲しいと思いながら、山崎の自宅へ電話をかけてみた。すると、数コール鳴らしたところで、
『もしもし』と言う山崎の声が聞こえた。
僕は安堵した。自分の悪い想像が危惧に終わったことを、心の中で喜んだ。
「ああ、山崎さん。笹井です。ちょっと心配してたんですよ。あの日から元気がなさそうだったから。でも良かった。今日、お店は休業日だったんですか?」
少しためらうような気配が感じられた後、
『兄の知り合いですか?』
電話の向こうの声が意外なことを言った。
「えっ?あなたは、その、山崎さん……、ああ、すみません。健一さんではないのですか?」
『はい。おれは健一の弟の宗次です。よく兄と声が似ていると言われるんで、電話では間違われるんです』
「それは、失礼しました。私は健一さんの友人で笹井と申します。健一さんはいらっしゃいますでしょうか?」
またも言うべきか、逡巡するような気配が電話の向こう側から感じられた。しばらく沈黙があった後、
『兄は今朝方事故に合いまして、今ここには居ないんです』
「事故?」
嫌な連想が、確信に変わりつつあった。
「お怪我をされたのですか?」
『電車に飛び込んだんです』
山崎の弟が苦しそうな声で言った。
「電車に飛び込んだ……。それで命の方は?」
『即死です。警察は自殺だという考えです。なので、遺書が残されていないか探しに兄のマンションに来ているんですが、今のところ何も……』
「山崎さんが死んだ!」
僕は嫌な予感が当たってしまったことに衝撃を受けた。
『あの日から元気がなさそうだったというのは?』
山崎の弟が逆に聞いてきた。
過去の扉のことを話すわけにはいかないと思ったので、山崎とはしばらく前から付き合いがあったこと。先日、中川冬美の飛び込み現場に出くわしてしまったことなどを当たり障りのない範囲で説明した。
「山崎さんは里奈ちゃんが行方不明になったことを思い悩んでいたようでした。いつか戻ってくる日を本当に待ち望んでいましたよ」
『そうですか。兄はまだそんなことを』
山崎の弟は何かを考え込んでいる様子だったが、僕はその言葉にどこか山崎に対する非難めいたものを感じ、思わず反発してしまった。
「まだそんなこと?親として子供を捜す気持ちに終わりなんてあるんですか?」
『ああ、すみませんでした。なんと言うか、あなたにはそのように話していたんですね』
「どういう意味でしょう?」
『いえ、兄があなたにそう話していたのなら、そのとおりです。兄の気持ちを尊重します』
山崎の弟が何を言いたいのか、僕には良くわからなかった。わからないからこそ、その口調に釈然としないものを感じたのだが、
「どうも御取り込み中、申し訳ございませんでした」そう言うと僕は電話を切った。これ以上、電話で話をしている気分にはなれなかったからだ。
予感があったとはいえ、山崎の死を知ったことはショックだった。だから、静かに山崎の死を、現実として自分の心に浸透させたかった。
僕はふらふらとホームの椅子に腰掛ける。
「山崎さん、どうして?」
何度も繰り返しそう呟く。
山崎とは長い付き合いではなかった。だが、すでに心の中を打ち明けられる唯一の存在になっていた。山崎にとっての僕もそうだと思っていた。
しかし、山崎はたった一人で電車に飛び込んだ。
「山崎さん、僕はまた一人になっちゃいました」
気がつくと、そう声に出していた。
翌日、会社の内線電話で一階上のフロアにいる八神に連絡した。彼女が代ノ前に住んでいることを思い出したからだ。
休憩ルームで話が出来ないかと言うと、八神は嫌な顔もせずに付き合ってくれた。
「忙しいところごめん。君は代ノ前に住んでいるんだよね?『静かの海』って言うレストランがあるのを知ってる?」
「帰り道沿いにあったんでよく知ってますよ。でも、最近なくなっちゃいました。どこかに移転したんですかね。雰囲気の良いレストランでしたけど、代ノ前は学生の街ですからね。高級レストランは流行らなかったんじゃないでしょうか」
「やっぱり無くなってたんだね。どうりでインターネットで調べてもよく分からなかったわけだ」
「ああ、笹井さん行きたかったんですね?それで、移転先を調べているとか?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。いや、行きたいというのは当たっているかな」
「でも、移転先が月だったらどうします?」
「はは。お月様のウサギの顔あたりが『静かの海』って名前だったよね」
「ええ。いい場所に移転しましたよ。でも、見ることは出来ますけど、ちょっと遠すぎますね」
「いや、移転先を探しているわけじゃないんだ。実は、僕の知り合いの男性がね、自殺してさ」
八神は僕が何を話し始めているのか理解できないようだったが、それでも真面目な話だとは分かったらしく急に神妙な顔になった。
「その知り合いがね。近所に住んでたらしいんだ。それで、半年くらい前に家族でそのレストランに食事に行って、その帰り道でまだ小さな娘さんが行方不明になったって言うんだよね」
「なんだか、深刻な話ですね」
「うん。そうなんだ。その知り合いは山崎さんって言うんだけど」
「山崎さん・・・ですか?」
八神がおぼろげな記憶を手繰り寄せるような顔になった。
「知ってるの?」
「いえ、知り合いにはいないですけど、聞いたことがあるような」
「まさかね。で、ともかく彼が娘さんの行方不明のことを気に病んでいたことは間違いない。断言できないんだけど、そのことが自殺の直接的な原因であることも、ほぼ間違いないと僕は思ってる」
「いいですよ」
「えっ?」
八神は頭の回転が速い。
「『静かの海』があった場所を知りたいんですよね?」
「そうなんだ」
「今日の会社帰りでよければ案内しましょうか?」
「そうしてもらえると助かるよ」
僕は、山崎が電車に飛び込んだ理由を、少しでも知りたいと思っていた。山崎が死を選んだ気持ちを、僕なりに消化したかったからだ。
同時に、昨日の山崎の弟の電話口での奥歯に物が挟まったような話し方も気になり始めていた。山崎には何かまだ僕に話していないことがあったのではないだろうか。
それを知ることは決して山崎の望むことではないのかもしれないが、僕は知っておきたかった。
自分の境遇や心の苦痛をさらけ出せば、それを聞かされる人間は同じ立場にいない限り反応に困ることも多い。少なくとも、あまり嬉しいものではないだろう。中にはそれを不幸自慢のように捉えてしまう種類の人間もいる。
同病相哀れむという事かも知れないが、山崎は僕にとって、同じく過去の扉を開いた者同士であり、痛みを分かち合える唯一の人間でもあった。つまりは、決して失いたくない存在であったのだ。
その山崎が結果的に死を選ぶ始まりとなった場所を見ておきたい。彼が口に出せない苦痛をさらに抱えていたのであれば、それを共有するのが僕の義務だろう。その上で今よりも深く山崎を悼みたい。そう思った。
そしてそうすることは、僕自身のこれからにも直結する大事な問題でもあった。
山崎は最終回が近いと言った。それで、それを確かめるために中川冬美に話を聞きに行った。中川冬美からは山崎の満足のいく回答が得られたとも思えないが、少なくとも、何かのヒントを得ることは出来た。その直後に中川冬美は線路へ飛び降りた。
山崎は中川冬美の件から、何かを理解し何かを選んだのだ。それは遠からず僕の身にも訪れるに違いあるまい。
「ここが『静かの海』のあった場所です」
八神は言った。
『静かの海』は、今ではコンビニエンスストアになっていて、代ノ前駅の北側を歩いて5分ほどのところ、狭くはないがさほど広くもない道路沿いにあった。
「このあたりが入り口でした」
駐車スペースになった一角を八神が指差す。入り口正面の道は、思ったよりも交通量が多い。
山崎のマンションはどの方角なのだろう。そう思って周辺を眺めてみた。入り口から出て路地を曲がったところで山崎の娘が行方不明になった。
山崎の話を聞いたとき、僕はなんとなく閑静な住宅街の中にある隠れ家的なレストランを思い浮かべていたのだが、それは思い違いであったことに気づいた。商店も多く、あたりは思った以上ににぎやかな場所だった。
今は午後6時半位だが、それが午後7時でも、このにぎやかさは変わらないだろう。こんな場所で行方不明なんて、やはり誘拐でもされない限り起こり得そうもない。いや、誘拐だって、こんなにぎやかな場所で、しかも後ろに父親がいる状況で実行するものだろうか。
そう考えながら辺りを見回していると、『静かの海』の入り口から見て右手50メートルほど先の交差点に花束が置いてあることに気づいた。
「あれは?」
八神に聞いてみた。
「1年ほど前、この少し先に物流センターが出来たんです。それから大型トラックの通行が増えて、このあたりも結構危ない道になったんですよ。見てのとおりあまり広くない道ですから」
「ここで大型トラックによる死亡事故があったってこと?」
「そうです。でも相手は車じゃないです。幼稚園児くらいの女の子だそうです。事故があったとき近所の知り合いがそれを見たそうで、それで私も知ってるんです。トラック運転手は携帯電話を使いながら運転していて、それで、女の子に気づくのが遅れたそうです。女の子はトラックの後輪に巻き込まれて、ずいぶん悲惨な状況だったらしいです。一緒にいたご家族は泣き叫びながら車輪の間から女の子を引っ張り出そうとしていたとか。でも、もうとても生きているとは考えられない状態だったそうです」
「それは痛ましいね。しかし花束はまだ新しく見えるね。この1年間定期的にご遺族が花を替えに来ているということなんだね」
「いえ、物流センターが出来たのは1年前ですけど、事故があったのは7ヶ月ほど前のことです」
「えっ?そうなの?」
僕は花束へ近づくために歩いた。
「笹井さん」
一緒に歩いていた八神が改まった口調で僕の名前を呼んだ。
「今日、会社で聞いた山崎さんって人の話。私あれから考えたんです」
「うん」
「子供の行方不明事件があったんでしたら、ネットニュースや新聞にも載りますよね?場合によっては情報提供依頼のチラシを配ったり看板を設置したりするでしょうし、人の噂にもなるでしょう。ですから、このあたりのことであれば、私が知らないなんてことはないと思うんです」
「そうだね。君の言うことは正しいと思う」
つい陰鬱な声になった。僕は変わらず花束の方へ向かって歩いていた。
最初にオルナツ珈琲館で山崎と話をしたとき、彼は携帯電話が嫌いだと言っていた。辛く苦しい気持ちが、徐々にではあるが確実に心を覆い始めていた。
「私、ここに花束を置く人を、会社帰りに時々見かけたことがあります。ちょっとごつい感じのたぶんお父さん。30代後半くらいで、ヒゲを生やしていていつも同じ服を着てるんです。それと同じ年齢くらいのおとなしそうな女の人。きっとお母さんだと思います。最近は別々に来て花を置いて行きます。この事故は新聞にも載りました。そのときに山崎という名前を見たのかもしれません。なんとなく記憶に、この事故と関係してその名前があったような気がしていましたから」
僕は言葉を返せず、無言のまま頷いた。
「きっと、ここで亡くなった女の子が、山崎さんの娘さんだったんだと思います」
「そうだね……。君の言うことは正しいと思う」
いつの間に泣いていたのだろう。僕は声を詰まらせながら八神に答えた。




