赤と黒の均衡
公務の天幕。
淡く陽を透かす布の影が地面に揺れ、昼下がりの風がゆっくりと通り抜けていく。
今日は外遊の日だった。
街道沿いの分霊樹を視察しながら、各地の祭祀官や従騎士たちに顔を見せる。
馬の脚を休ませるため、一行は小高い丘の上で休憩を取っている。
主天幕には、当然ながらリシェリアの姿もあった。
公務中の彼女は、いまや私の婚約者として扱われている――すなわち、常に隣に立つ義務がある。
私は机の上に積まれた報告書に筆を走らせていた。
出発前に片付けきれなかった書類だ。こうでもしておかねば、いつまでも終わらない。
少し離れたところで、リシェリアは静かに茶を嗜んでいた。
薄衣の袖越しに光が透け、そのたびに花弁のような影が卓に落ちる。
彼女はひと口、茶を口に含み、柔らかな声で言った。
「大変ですね」
穏やかな微笑を浮かべながら、書類の束に視線を向けている。
その目は労わりに満ちていた。
私は筆を止めずに答える。
「……たまに休みを取れるようにしないと、逢瀬の時間も取れないからな」
口にしながら、自分でもわかっていた。
“逢瀬”――その言葉に、アスティの影を含ませたことを。
リシェリアは、彼女の名が間接的にでも出ると決まって機嫌が良い。
本当に、単純で、そして――純粋だ。
「何もお手伝いできなくて、心苦しいです。せめて、疲労感を癒しで軽くしてさしあげましょうか?」
茶器を置いた音が、静かな空気を震わせた。
ああ、その手が俺に触れれば、筋肉の緊張、胃痛、倦怠……確かにそういった疲労などすぐに霧散するだろう。
だが、今ここには余計な視線が多すぎる。
「……いや、まだ大丈夫だ」
そう口にした時だった。
外から、土を踏む音が近づいてくる。
まっすぐに、躊躇いのない足取り――厄介な奴のものだ。
幕の外から低い声が響いた。
「失礼いたします」
そして、躊躇なく幕が上がる。
風とともに、あの男――カイルが入ってきた。
入ってくるなり、こちらには一瞥もくれず、目当ての少女へ視線を吸い寄せられていた。
「やあ。リシェリア」
その名を呼ぶ声は、まるで恋人に再会した男のそれだった。
手にしていた書類を、ほとんど投げるように机に置く。
リシェリアが立ち上がり、挨拶のために軽く裾をつまもうとする――その瞬間、
カイルの手が伸びた。
その手が、リシェリアの手を取り、自然な流れで、肩を抱き寄せようとする。
あまりに淀みがなさすぎて、私でさえ一拍遅れた。
「カイル。やめろ」
この男は先日の休日を過ごした後、わずかに苛立ちをのぞかせながら私の所に苦情を言いに来ていた。
『先日は、俺を出しにして意中の女性と私的な外出をなさったとか』
『あんなに渋面で俺の振る舞いに苦言していたのに、その裏で好奇心が抑えられないとはね。総長として人の上に立つようになっても本質はそんなに変わらないものだな』
『そんなに、俺の無様な姿が見たかったのなら、今後見えるようにして差し上げる。……だから二度と、覗かないでくれ』
不快そうな表情の下に、わずかに傷心のような色の見える声だった。
そして今はもう、――開き直ることにしたのだろう。
わざとらしく逸脱して見せている。
たしかに。内情を知る人間の前でなら、誤解も何の醜聞にもならない。必ず大事に至らず喜劇として終わる。それ以上転がらないように止める配役があるからだ。
――そしてその役を、私を舞台に引き揚げてやらせようとしている。
この天幕は外からは姿が見えない。だが光の影が透けてしまう可能性はある。
だからこそ、余計な噂を生むことは避けねばならない。その配役に今は抗えない。
――狐め。理性を取り戻したな。
カイルは狡猾だ。私ですら利用する。それが出来ると知っている。
「用件を言え」
一言で十分だった。
筆を置く音で、空気が切り替わる。
カイルの腕が、肩を抱く寸前で止まった。
中空で静止したまま、わざとらしくその形だけが残る。
カイルの口角がわずかに上がった。
「失礼しました」
カイルは、感情のない声で報告を始めた。
形式的な内容――だが、視線はリシェリアから離れない。
まるで言葉ではなく、目で会話をしているようだ。
リシェリアは、微笑を保ったまま何も言わない。
その笑みが何を意味するのか、私には読めない。
だがカイルには、読めるのだろうか。
「そういえば、先日の件、実証させていただきたいのですが」
筆を止める。
何の話かと思った次の瞬間――
リシェリアの髪に手を伸ばし、
カイルが――吸おうとした。
リシェリアの表情が、一瞬で強張る。
顔がはっきりと語っていた。
――“また!?”
「今日はいい。やめろ」
短く言い捨て、ため息をつく。
堪えるような声が出た。
その直後、別の足音。
「失礼いたします。先行より伝令がございます」
間髪入れず、天幕の幕が再び上がる。
セランだった。
彼は兵らしく、いつも通りの無駄のない動作で入ってきた。
一瞬で室内を見渡し、状況を把握したらしい。
だが余計なことは何も言わない。
カイルも、彼が入ってきた瞬間、石のように動かなくなった。
互いに言葉を交わさず、無言の応酬だけが流れる。
セランは必要な報告を淡々と述べると、リシェリアのそばへ回り、自然な手つきで間に割り込んだ。
まるで彼女を守る壁のように。
そして、埃を払うようにそっとリシェリアの肩を撫で、顎に指を添えて唇の色を見、わずかに顔を傾げて健康状態でも確認したようだった。
その所作が、あまりにも自然で――熟練の世話人のようだった。
「リシェ。ちゃんと水分とれよ」
外に響かない程度の音量でリシェリアに告げると、誰も何も言う隙を与えずに、さっと敬礼をして天幕を出て行った。
リシェリアは一瞬目を丸くしてから、小さく笑った。
「まるで使用人だな」
無感情に、カイルが呟く。
その声音に、わずかな嫉妬が滲む。
私は筆を再び手に取る。
思う。
――そう言うお前は、もはや狂信者だ。
「お前も、退出しろ」
短く言い渡すと、カイルは名残惜しげにリシェリアを一瞥し、深く息をついてから、渋々天幕を出て行った。
風が再び幕を揺らし、静寂が戻る。
リシェリアがこちらを見て、詫びるかのように苦笑した。
見たところ、リシェリアは明らかにカイルを持て余していた。
どう見ても、御しきれていない。
彼女の柔らかな笑みの裏には、常にどこかで「困っている」色が見える。
それを隠そうとして、かえって分かりやすくなっている。
カイルは、あの手の男にしては素直すぎる。
理屈で制御しているつもりが、感情が先に滲み出る。
理論を武器にしている人間ほど、情に足を取られるのだ。
「改善どころか悪化したかもしれんな。まだ困っているようなら、……遠ざけるか?」
自分でも冷たい言葉だと思う。
けれど、それができる立場にあるのも事実だ。
処理は少々面倒だが、できないわけではない。
カイルは荒れ、祭祀庁はまた混乱に陥るだろうが、王都の秩序が崩れるほどのことではない。
だが、返ってきたのは即座の否定だった。
「いいえ」
まっすぐな声。
揺らぎのない瞳。
その一言だけで、空気が変わった。
「もう、大丈夫だと思います。カイルは、確かに……ちょっと困ったところもありますけど。すごく助けられています」
彼女は少しだけ、息を整えて続ける。
先ほどまでの形式ばった口調ではない。
人間らしい、柔らかさを含んだ声だった。
「いてくれるから……道に迷う時や、力に振り回されずに、聖女でいられます。……た、多分」
最後の一言で、目が泳ぐ。
いつもの彼女らしい不器用さだった。
完璧な答えを持たないことを、恥じているようにも見える。
言われてみれば――確かにそうだ。
セランの方は、あらゆる意味で“受け入れすぎている”。
彼は、リシェリアの在り方に口を出さない。
何があっても黙って寄り添い、干渉せず、ただ守る。
優しさとも、忠誠とも違う。
それは、ほとんど「奉仕」に近い。
だが、それだけに、そこには“停滞”がある。
リシェリアがどれほど変わっても、彼は受け入れてしまう。
正すことも、導くこともない。
だからこそ、二人の間には歪みはないのに、どこかずれている。
均衡しているが、動きがない。
――その停滞を揺らすのが、カイルという存在か。
激情を、論理に隠す男。
だが、彼はリシェリアを変化させる。
時に傷つけながらも、確実に前へ進ませる。
なるほど、そういうことか。
カイルとセラン。
二つの極。
それがあって初めて、彼女は真ん中で“聖女”として立てる。
一人では傾き、二人で支える。
……そう考えれば、排除する理由はない。
むしろ、必要だ。
彼ら二人の存在そのものが、彼女の均衡なのだ。
私は、頭の中で進めていた“カイルを盤面から外す”という計算を、そっと止めた。
二人の配置が、中心に立つ彼女の軸を支えている――そう結論を置く。
「それに」
リシェリアがふと、柔らかく笑った。
「グラント様の存在も重要です。鳥の目があるから、向かう先に道があるってわかるでしょう?」
……。
一瞬、言葉が出なかった。
笑っているのに、ぞっとした。
まるで、己が既に彼女の掌の上にあるかのような錯覚。
あれは、計算の目ではない。
けれど、無邪気な信頼だけでもなかった。
彼女は時々、理屈を飛び越えて、配置そのものを見ている。
――聖女の方は、私も駒の一つと見ているのだな。
「肝に銘じておこう」
そう答えると、彼女は満足げに微笑んだ。
その笑みの奥に、冷たい知性の光が一瞬だけ覗いた気がした。
あの魔女に排除されぬよう、立ち回らなければならない――
自嘲のように、そう思った。




