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氷の聖女のテラリウム  作者: 風木水空
9章 悪夢
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遠くも近くも届く真心

なんとか、外遊の一連の行程を終えた。

あとは撤収をして王都へ帰るだけ。


思えば長いようで、あっという間の道のりだった。

出発前には、ひとつひとつの日程が途方もなく遠く見えていた。知らない土地へ行き、知らない人々の前に立ち、聖女として祈る。そう考えるだけで胸の奥が固くなって、何か大きなものに押し潰されそうだったのに、終わってみれば、記憶は細かな光の粒のように散らばっている。


行く先々で人に迎えられ、祈りを捧げ、微笑んで――そのたびに、少しずつ肩の力が抜けていった気がする。

最初は不安でいっぱいだった。外へ出るのも、知らない土地で眠るのも。

どこかで何かを間違えてしまうのではないか。聖女らしく振る舞えなかったらどうしよう。誰かの期待を裏切ってしまったら。そんなことばかり考えていた。


けれど、ふたを開けてみれば、難しいことは全部カイルがしてくれた。

事前の確認も、相手との調整も、私がどこで立ち、どこで手を差し伸べればいいのかまで、彼は静かに整えてくれた。私が戸惑う前に、次にするべきことが目の前に置かれている。だから私は言われた通りに祈り、手を差し伸べるだけでよかった。


意外と、忙しさと目まぐるしさが心を満たしてくれたのかもしれない。

人の声、馬車の揺れ、慣れない部屋の匂い、朝ごとに変わる窓の外の景色。そういうものに追われているうちに、不安が入り込む隙間が少しずつ埋まっていった。

行く前に恐れていたような、うなされることは一度もなかった。


もちろん――私には、セランのおまじないがあって、

サフィアの細やかな心配りがあって、リカリオおじ様が守ってくれて。

そして、カイルまで気にしてくれていたから。


「旅先だと寝付けないこともある」と言って、カイルは夜に話しかけてくれた。

「そういう時は、話でもしよう」と。


領主邸に泊まった夜、少し月明かりの差す回廊で、彼はこの地方の古い伝承を話してくれた。

大樹の枝に宿っているという精霊の話、隣の国の神話のお話――どれも静かで優しい響きだった。

カイルの声は、昼間に書類や段取りを説明するときよりも少しだけ柔らかくて、夜の空気に溶けるみたいだった。難しい話ではないのに、言葉の端々にその土地で生きてきた人たちの祈りや畏れが感じられて、私はいつの間にか聞き入っていた。


サフィアが持ってきてくれたお茶には、ほんの少しお酒が混じっていて、飲むと胸がふわりと温かくなった。

普段の城内では絶対にしないような、そんな夜の過ごし方。

眠る前に誰かと静かにお話をして、見知らぬ土地の月明かりを眺めて、温かいものを少しずつ飲む。城の部屋で過ごす夜とも、セランと野宿していた頃の夜とも違う。どこかきちんとしているのに、少しだけ秘密めいていて、私はそれが不思議だった。

静かな楽しさに包まれた、不思議な夜だった。


そうして、私はなんとかこの旅を乗り切った。


だから――最終日前日の朝、サフィアが告げた言葉には、本当に驚いた。


「結局お使いにならずに済みそうですが。もし、うなされるようだったらと、こちらをセラン君から預かっていました」


差し出された包みの中にあったのは、見覚えのある襟巻きだった。

セランにあげたはずのもの。


指先で触れた瞬間、胸がきゅっとした。

見間違えるはずがない。私が毛糸を選んで、私が編んで私が渡したものだ。セランが使ってくれているところを見て嬉しかった、その襟巻き。それが、綺麗に畳まれて、ここにある。

どうして、と一瞬思って、それからすぐにわかった。

私のためだ。


「使わなければ、そのままお返しするように言われていましたが……セラン君の気持ちはお伝えしておきたくて」

サフィアは少し恐縮したように言った。

「出過ぎた真似かもしれませんが、勝手に相談していたんです」


「ううん。教えてくれてありがとう。……私もセランにありがとうって言いたいから」


サフィアが気を使ってくれていたことは、セランが心臓の音を聞かせてくれた時に、もうわかっていた。

けれど、まさかそれだけで終わらせず、こんなふうにまで気にかけてくれていたなんて。

私が怖がらないように。遠い場所で眠る夜に、少しでも安心できるように。自分のものを私のそばへ渡してくれていた。

セランの手の温もりがまだ残っている気がして、嬉しくなった。


「これ、やっぱり使っていい? 帰り道が寒くならないように巻きたいの。……そのまま私が返しておくから」


「もちろんです。もし差し支えなければ、リシェリア様からお返しいただくほうがセラン君も喜びます。お返し前に洗った方がいいかもしれませんが……ほとんど使ってないから大丈夫ですね、きっと」


サフィアの言葉に微笑みながら、私は襟巻きをそっと抱きしめた。

柔らかい布地に頬を寄せると、ほんの少しだけ胸が落ち着く。匂いがするほどではないのに、なぜかセランを思い出す。彼の大きな手や、少し乱暴なのに優しい仕草や、私を見る時だけ緩む目元のこと。

また、何かお礼を考えなきゃな。いまから旅のお土産を探す?

今度は靴下でも編もうか。それとも……帰ったら今度は両頬に往復で口付けしてあげようか。セランはあれだけで随分機嫌良くしてた。


照れたみたいに目を細めて、でも素直じゃないから、別にこんなの嬉しくない、何でもないって顔をする。

それを思い浮かべるだけで、旅の疲れが少し軽くなった。


そしてその後から――

公務の最中や、人前に出る必要がない移動時間などには、その襟巻きを首に巻いて過ごすことにした。

黒い布地に包まれるたび、セランの優しさが静かに息づくようで、胸の奥まで温かくなった。


まるで、旅の間ずっと見えないところで守られていたような気がした。

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