白い聖女と二つの色
シルヴィナスという国には、大きな、大きな神様の木がある。大樹と呼ばれるその木は、遠くからでも空を裂くように枝を広げていて、近づけば近づくほど、ただの植物ではないと肌でわかる。
その根元にはお城がある。石と光でできたようなその場所は、けれど大樹に寄り添うように建てられていて、まるで守られているみたいに見える。
そしてその砦の中には、聖女が住む庭がある。
――それを知ったのは、つい最近のことだった。
そして、私が聖女になったのも、まだ一年にも満たない。
今でも時々、朝の空気の中でふと立ち止まると、夢みたいだと思う。自分がここにいることが、どうしても現実と噛み合わない瞬間がある。
私には人と違うところが二つある。
一つは、珍しい髪の色。みんなが白銀だというこの髪は、光を受けると冷たい白色に輝いて、影に入ると少しだけ青みを帯びる。自分が映った鏡を見るたびに、これが自分のものだという実感が薄くて、他人のものを借りているみたいに思えることもある。同じ髪の色の人には、生まれてからまだ一度も会ったことがない。
もう一つは、異能と呼ばれる力が……他の人より、たぶん大きいということ。けれど、それをきちんと扱えているかと聞かれたら、胸を張って頷けるほどではない。触れれば応えてくれるけれど、思った通りに動かせないことも多くて、自分の中にあるのに、自分のものじゃないみたいに感じることがある。
孤児で、魔女と呼ばれて、追い回されて。石を投げられた記憶も、逃げ場を探して森の中を走った記憶も、まだ身体の奥に残っている。あの頃はただ、生き延びることで精一杯で、世界のことなんて何も知らなかった。
そんな私が、この大きな国の神様を助けるために聖女になって、今ここにいる。
不思議で、数奇で、少し怖い縁。
それでもここは、私を初めて肯定してくれた場所でもある。名前を呼ばれて、役目を与えられて、必要とされることが、こんなにも胸の内を満たすのだと知った。
「リシェ、リーシェ。……リシェリア!そろそろ起きろ。仕事の時間だろ」
低くて、少しだけ呆れを含んだ声。肩が軽く揺らされて、私はゆっくりと目を開けた。
視界に入るのは、やわらかな緑と、朝の光。そして声の主の赤い色。木漏れ日が細かく揺れて、小屋の中に斑を落としている。風が葉を撫でる音と、遠くの鳥の声が混ざって、静かな朝の匂いがする。
あまりにも気持ちがよくて、意識がそのままどこかへ流れてしまっていたらしい。
私に裁量を与えられた、お城の中の小さな庭園。その奥にある作業小屋だった。まだ人の手が入りきっていない、土の匂いが残る場所。ここにいると、城の中なのに外の世界に近い気がして、少しだけ息がしやすい。
日の出とともに咲く蕾の様子を見るために、今朝は早くからここに来ていた。まだ固く閉じていた花弁が、光を受けてゆっくりほどけていくのを観察して、忘れないように書きつけて。そのあと、午前の公務まで少しだけ休むつもりだったのに――気づけば眠ってしまっていた。
「……セラン。おはよ」
まだ完全に覚めきらないままの声でそう言うと、視界の端で赤い色が揺れた。朝の光を受けて鮮やかだった。
身を屈めて私を覗き込んでいるセランの顔が、近い。光を背にしているせいで輪郭が少し眩しくて、それでも金色の目だけははっきり見えた。
セランは物心ついた時には、隣にいてくれた人だ。彼の両親が保護してくれて、泣いている時も、逃げている時も、寒い夜も。いつも一緒に育って生きていた。血は繋がっていないけれど、家族と呼ぶことに迷いがない、私の唯一の縁。
「え、あ今、何時?」
まだ頭が回らないまま、慌てて問いかける。胸の奥に、遅刻するかもしれないという小さな焦りが浮かぶ。
「まだ始業まで半刻ある」
その言葉に、張り詰めていたものが少しだけほどけた。
良かった。間に合う。
でも――そこからすぐに、別の現実が追いつく。部屋に戻って朝食をとる時間は、たぶんない。ここから執務室までの距離と、身支度のことを考えると、余裕はほとんど残っていなかった。
仕方ない、と自分に言い聞かせる。
「ありがと。執務室に向かうね。……っ!」
身体を起こして立ち上がり、そのまま小屋の外へ出ようと一歩踏み出したところで、袖を引かれた。
「待てって」
ぐい、と軽く引かれて、体勢が崩れる。次の瞬間には、背中側から包み込まれるように腕の中に収められていた。
抱き締めるほど強くはないけれど、逃がさない程度にはしっかりしている。その距離の近さに、ほんの少しだけ息が詰まる。
「飯食ってないだろ。ほら、これ入れてけ」
低く言いながら、セランは片手で棚の上に置かれていた籠に手を伸ばした。いつの間に用意していたのか、干した木の実や果実がいくつも入っている。
「え?こんなのいつ隠してたの」
思わず素直に驚いてしまう。ここは私の作業小屋のはずなのに、知らないものがあることが、少しだけ可笑しくて。
「秘密」
短く答える声に、少しだけ得意げな気配が混じる。
そう言うと、木苺や小さな実をざらりと手のひらに出して、そのまま私の口に放り込む。
過保護なセランに、思わず小さく笑いがこぼれる。扉に手を掛けたままの姿勢だったから、そのまま身を少しだけ傾けて、差し出された手のひらに顔を寄せた。まるで餌をもらう犬みたいだと、自分でも少しだけおかしくなる。
掌の上の木苺や木の実を、口先でひとつずつ拾う。乾いた果肉が歯に触れて、すぐにじんわりと甘さが広がった。朝の空気の冷たさと混ざって、身体の奥にゆっくりと染み込んでいく。
「ふふ、甘い。元気出た、ありがとね」
軽く目を細めて言うと、セランの気配がほんの少しだけ緩むのがわかる。どこかでほっとする。
「じゃあ、今後こそ行くね」
まだ肩にかかっていた重みを、そっと押し上げる。頭に乗せられていた顎を手のひらで押し退けると、離れる直前に一度だけ、頬をすり寄せた。触れるか触れないかの距離で、ほんの一瞬だけ。名残みたいな、癖みたいな仕草。
腕の囲いから抜け出すと、外の光がすぐに背中に触れる。さっきまでのぬくもりが少しだけ惜しくなるけれど、それを引きずるほどじゃない。
「ん。行ってこい」
短い声が背中に落ちる。
振り返らない。振り返れば、行くのが惜しくなる。そうでなくても、二度寝してたくなる空気に引き戻されてしまいそうで。
セランとは、どうせまた夕方には会う。水やりや手入れの時間になれば、自然と同じ場所に戻ってくるのだから。
小屋を出て、石の小径を踏みしめる。朝露を含んだ土の匂いが、靴底越しに伝わってくる。城の中だというのに、この庭だけは少しだけ外に近い。
やがて建物の影に入ると、空気が変わる。ひんやりとした石の冷たさと、静まり返った気配。回廊の柱が規則正しく並び、その奥に薄く影が溜まっている。
その一つに、黒い人影が寄りかかっていた。
それだけで、誰なのかすぐにわかってしまう。
黒い制服に、艶のある暗い鋼色の髪。憂いを秘めた紫の瞳。整いすぎているくらい整った顔立ちは、朝の淡い光の中でも崩れず、どこか現実味が薄い。
目を閉じ、光の加減で影の中に沈んでいれば、そのまま彫像として飾られていても不思議ではないくらい、整った人だった。
――カイル。
彼は、聖女の執務の補佐を行う専属のお目付役、聖女担当官という肩書きを持つ人だ。
そして……私の先生でもある。平民出身の、学も作法も何もなくお城にあがった私を、人前に出せる聖女にするために――今も沢山の教えをくれている人。
そのカイルが、柱に体を預けるようにして立っていた。執務室と宿舎を繋ぐ回廊の奥を、ただ静かに見つめている。誰かが来るのを待っているのか、考え事をしているのか、外からはわからない。でもその立ち姿には、余計な動きがなくて、初めからそこに飾られているのが当然なように空気に馴染んでいる。
カイルはまだ、私には気づいていない。
私は足音を殺して、柱の影をなぞるように近づく。驚かせるつもりはないから、距離を測りながら、声の届き方を考える。
「いつも傍にいてくれる赤と黒の気配に支えられながら、私はまだ慣れない白い役目の中を歩いている。」
そっと声をかけると、彼の肩がわずかに揺れた。
「え、あれ?おはよう。リシェリア」
振り向いた顔が、すぐに柔らかくほどける。その変化が思っていたより近くて、胸の奥が一瞬だけ跳ねた。朝の光を受けた瞳がわずかに細められて、素直に嬉しそうな表情をしている。
顔を見合わせて、あらためて姿勢を正す。裾を広げ頭を下げ、淑女の礼をして見せる。
「うん、いいね。窓から見えなかったから、今朝は庭に居ないのかと思ってた。そうか。小屋にいたんだね」
「ええ、少し今朝はやることがありまして。……もしかして迎えにきてくださったのですか?」
問いかけながら、彼の立っていた位置を思い返す。偶然にしては、あまりにも自然すぎる場所だった。
「ああ。午前に聖女への治癒依頼があって外に出ることになったんだ。用意はすでに済んでいるから、このまま執務室ではなく馬車口まで行こう」
簡潔で無駄のない説明。それでもどこか、私に合わせて言葉を選んでいるのがわかる。
「そうでしたか。畏まりました、急ぎましょう」
言葉にすると、自然と背筋が伸びる。さっきまでの長閑な庭の空気が、すっと引いていく。
カイルが静かに腕を差し出した。
動きは慣れていて、ためらいがない。差し出された腕はエスコートのためのものだとわかっているのに、触れる瞬間だけはいつも少しだけ緊張してしまう。
私はその腕に手を添える。
指先が重なって、温度が伝わる。強くも弱くもない力で支えられて、自然と歩き出した。
「今日はこの後も予定が詰まっている。昼餐は伯爵との会食になったから、そのつもりでいて。普段の修練の成果を発揮するいい機会だ」
「あ、……その。まだ会食の作法は……自信がありません」
「そのために俺がいる。君は俺を見ていればいい」
石の回廊に、二人分の足音が重なる。
朝の静けさを壊さないように、カイルは抑えた声で柔らかく囁いた。
大樹様に力を捧げ、人々の希望になって、癒しを与える。
これが、聖女となった私の日々だった。
いつも傍にいてくれる赤と黒の二人の間で、私はまだ慣れない白い役目の中を歩いている。




