プロローグ「断罪と87点」
「クロエ・ド・サヴァラン! 貴様との婚約を、ここに破棄する!」
第一王子ジルベール・フォン・エクレールの声が、夜会の大広間に響き渡った。
その瞬間、わたくしの鼻が、コンソメの香りを捉えた。
壁際の長テーブル。招待客のための立食料理が並んでいる。銀の器に張られた琥珀色のジュレ。あの透明度は尋常ではない。鶏がらと香味野菜を半日は煮出して、卵白で丁寧に灰汁を抱かせた、本気のコンソメだ。
「——聞いているのか、クロエ!」
聞いていますわ。半分くらいは。
シャンデリアの下、楽団は演奏を止め、招待客たちは扇の陰からこちらを窺っている。中央にはわたくしを指差す王子殿下。その隣には、庇われるように立つ男爵令嬢のソフィー様。震える肩。潤んだ瞳。完璧な構図。
ああ、これだ。
これは乙女ゲーム『スプーン一杯の恋』、断罪イベントの場面だ。
わたくしには前世の記憶がある。神谷澄香、28歳。食品メーカーの商品開発研究員。平日は試作品のスープを1日40杯すすり、週末は覆面食レポブロガー「点付けのS」として王都——ではなく東京の食べ歩き記録を更新していた。最後の記憶は、徹夜明けの早朝。3か月待ちの幻のプリンが当日販売されると聞いて駅の階段を駆け下りた、あの瞬間で途切れている。
プリン、食べたかった。
気づけば公爵令嬢クロエとして生きていて、この世界が前世にプレイしたゲームの中だと理解したのが8歳のとき。悪役令嬢として断罪される運命だと思い出したのが9歳のとき。
そして10歳のとき、王宮の晩餐会で仔羊の香草焼きを一口食べて、すべてがどうでもよくなった。
この世界の食は、磨けば光る原石だらけだった。
「クロエ・ド・サヴァラン。貴様の罪状を読み上げる」
王子が羊皮紙を広げる。会場がしんと静まる。コンソメの香りだけが、空気の底をゆっくり流れている。
「一つ。フローレンス侯爵夫人の茶会において、供された焼き菓子を『砂糖の暴力』と評し、夫人を卒倒させた」
評しましたわ。あれは小麦粉の風味を殺す量の砂糖でした。バターの質は良かったので、配合を変えれば化けると申し添えたはずですけれど。
「一つ。建国祭の祝宴において、王家伝来の祝い料理に65点なる点数をつけ、料理長を3日寝込ませた」
つけましたわ。200年前のレシピを一切見直していない味でした。保存技術が進歩した現代であの塩の量は、もはや伝統ではなく怠慢です。これも改善案を10項目、書面でお渡ししました。
「一つ。我が母上、王妃陛下お気に入りの菓子店を『香料で誤魔化した張りぼて』と評し——」
会場のあちこちで、頷く頭が見えた。
あら。皆様、心当たりがおありなのね。
「貴様のその高慢な舌が、どれだけの者を傷つけてきたか! 恥を知れ、クロエ!」
王子の指先が、びしりとわたくしに向く。ソフィー様がか細い声で「殿下、わたしは平気ですから……」と袖を引く。観客のご婦人方がうっとりとため息を漏らす。
完璧な断罪劇。主役はお二人。わたくしは悪役。
筋書きは分かっている。ここで悪役令嬢クロエは顔を歪めて喚き散らし、衛兵に引きずられて退場する。ゲームではそうだった。
でも、ごめんなさい。
さっきから、どうしても気になるものがある。
コンソメジュレの隣。白い陶器の上で、つやめく断面を見せている、あのテリーヌ。
層が、美しすぎる。
豚肉の赤と背脂の白が幾何学模様のように整然と重なって、断面の縁には澄んだ煮こごりが薄く張っている。あの艶は崩れていない。つまり火入れの温度を最後まで制御しきったということ。この世界にオーブンの温度計は存在しないのに。
誰。あれを作ったの、誰。
「クロエ! 何か申し開きはあるか!」
申し開き。
わたくしは一歩、前に出た。会場がざわめく。王子が身構える。衛兵が腰の剣に手をかける。
そのまま、すたすたと歩いた。
王子の前を、素通りして。
「……は?」
壁際の長テーブルへ。
給仕の少年が凍りついている。構わずに皿を取り、銀のサーバーでテリーヌの一切れを掬った。断面が崩れない。ナイフを入れた瞬間の、この僅かな弾力。期待で指先が痺れる。
一口。
——来た。
舌に乗せた瞬間、背脂が体温でほどけて、豚の旨味が層ごとに時間差で開いていく。最初に香草、次に肉の甘み、最後に胡椒の尖りがすっと鼻に抜ける。設計されている。この皿は、口の中で起こることを全部計算して組み立てられている。
気づいたら、膝の上にノートを開いていた。
いつもの癖。ドレスの隠しから出した手帳に、ペンを走らせる。
「……火入れ、完璧。香草の比率も良い。層の構成に明確な意図。ただし煮こごりの塩がわずかに強くて、後味の余韻を一段削っていますわ。そこだけ惜しい。——87点」
声に、出ていた。
大広間が、水を打ったように静まり返った。
楽団の誰かが楽器を取り落とす音がした。からん、と乾いた音が壁まで転がっていく。
「は……87、点……?」
王子の声が裏返っている。振り向くと、殿下は指を突きつけた姿勢のまま固まっていた。突きつける先にいたはずのわたくしが移動したので、指先は今、誰もいない空間を差している。
「あ、失礼いたしました。続けてくださいまし。断罪の途中でしたわね」
「お、おま……貴様、この期に及んで料理の点数を——」
「だって殿下」
わたくしは皿を掲げた。
「このテリーヌを作った方は、天才ですわ。87点。わたくしが王都で食べた皿の中で歴代3位。この方の名前を記録せずに退場するわけには参りませんもの」
「そんなことを訊いているのではない!」
「まあ。では何を」
「貴様の罪を——」
「罪状でしたら、すべて事実ですわ」
会場が再びどよめいた。王子が口を半開きにする。
「砂糖の暴力も、65点も、張りぼても、すべてわたくしが申しました。撤回はいたしません。美味しくないものを美味しいと言うほうが、よほど不誠実ですもの」
扇の陰のご婦人方が、ひそひそと囁き交わす。「……実際、あの店の菓子は香料くさい」「祝宴の料理、確かに塩辛かったわ」「むしろあの改善案のおかげで侯爵家の菓子は美味しくなったのよ」
殿下のお顔が、ゆでた海老の色になっていく。
「と、とにかく! 婚約は破棄だ! 貴様は王都の社交界から追放……いや、その、追放を、だな……」
台本が崩れたらしく、王子の口上が迷子になっている。傍らのソフィー様が困った顔で殿下とわたくしを見比べている。ごめんなさいね、ソフィー様。あなたに罪はないわ。あなたはただ、この茶番の主役に選ばれてしまっただけ。
わたくしは皿を置いて、ドレスの裾をつまみ、この上なく正式な礼をした。
「謹んでお受けいたしますわ、殿下。婚約破棄も、追放も」
「……え。受けるのか」
「ええ。喜んで」
だって考えてもみてほしい。
王太子妃になったら、毒見を経て冷め切った料理しか食べられない人生なのだ。揚げたては一生口に入らない。スープは温い。パンの耳はカットされる。あんなもの、食の終身刑だ。
それよりも。
このテリーヌを作った料理人が、この王都のどこかにいる。87点の腕を持つ誰かが。そして城下には、わたくしがまだ点数をつけていない店や屋台や市場が、数え切れないほど広がっている。
口の端が、勝手に上がってしまう。
「クロエお嬢様」
静かな声がして、振り向くと侍女のアガットが立っていた。いつの間にか、わたくしの外套と旅行鞄を抱えて。
「……アガット。準備が早すぎませんこと?」
「お嬢様が夜会の招待状を受け取られた時点で、この展開は予想しておりました」
無表情のまま、アガットは鞄を掲げてみせる。
「ノートの予備を12冊、詰めてあります」
「あなた、最高の侍女ね」
わたくしたちは並んで、大広間の出口へ歩き出した。背後で王子が「ま、待て、まだ断罪が終わって」と何か言っていたけれど、両開きの扉が閉まる音に呑まれて、最後までは聞こえなかった。
廊下は静かで、夜会の喧騒が遠い。窓の外には王都の灯りが瞬いていて、その一つひとつの下に、誰かの台所がある。
歩きながら、ノートの新しいページを開いた。
1ページ目。
『王宮夜会のテリーヌ・87点。火入れ完璧、塩のみ課題。作り手不明——必ず探し出すこと』
「お嬢様」
アガットが半歩後ろから、抑揚のない声で言う。
「また点をつけていますね」
「つけていませんわ。記録しているだけ」
ペンを滑らせながら、わたくしは答えた。
悪役令嬢クロエ・ド・サヴァランの社交界人生は、今夜で終わった。
でも、わたくしの食レポノートは、まだ1ページ目だ。
次話:「世界一まずいシチューですわ」




