26.逃げたくないけど逃げる
あと少し。
私の指先が、その影に触れようとした瞬間。
彼――シェーゼは、逃げなかった。
ただ静かに、
まるで観念したかのように、彼はゆっくりと振り返った。
彼は長く走っていたはずだが、荒い呼吸すらなかった。
ただ、静寂だけだった。
(……こんな表情を、していたのですね。)
シェーゼの表情は、 “冷たい”わけではなかった。
けれど“温かい”とも言い切れない。
まるで、
触れられることも、触れることも知らないまま
ずっと止められていた人形が――
「……セレスティ」
その声は、かすかに震えていた。
音量は小さいのに、私の胸だけに真っ直ぐ落ちてくるような声。
ずっと聞きたい聞きたい願っていた声。
私は触ろうとする手を下ろした。
一歩だけ近づく。
それ以上近づけば壊してしまいそうで。
「やっと……貴方と、話せました。」
私がそう言っても、
シェーゼはすぐに目を合わせない。
でも、視線を逸らすわけでもなく。
ただ、どう振る舞っていいのかわからないという迷いだけが動いていた。
彼はもう誤魔化せない。
恐れ、ためらい、戸惑い。
人の感情だ。
「私から逃げたのですね、シェーゼ」
囁くように言うと、
彼のまつげがわずかに震えた。
「……ああ、逃げた。」
その答え方は、
命令に従う人形の返答ではなかった。
自分で選んだ言葉だった。
「でも……」
シェーゼはそこで、初めて顔を上げた。
絵に描いたかのように美しい、けれどどこか痛みを宿した表情だ。
「逃げたくは……なかったが。」
静かな声。だが少しだけ声が震えている。
私と彼の間に沈黙が落ちた。
その沈黙は苦しくはなく、
むしろようやく同じ場所に立てた、という安堵に近い。
「シェーゼ。」
私はそっと、もう一度彼の名前を呼ぶ。
呼ばれた彼は、
一瞬だけ目を閉じ、
そしてまるで覚悟を決めるように再びこちらを見る。
逃げない。
もう、逃げる気配はまったくない。
静かに、真正面から私を受け止めようとしている。
その姿が、
どうしようもなく愛しくて、胸が痛くなった。
ブクマ、評価等よろしくお願いしますね(´・ω・`)




