八の②
ガタン……はい……はあ……まさか……ちょっと!
「う、うーん……ふあーぁ」
小川は大きく伸びをした。寝起きはあまり心地良いものではなかった。それも固い場所で眠ったせいで、身体の節々が痛い。それでも少しは気が紛れたような気がした。
既に外は月に照らされている。窓からもその明かりが、真っ暗な部屋に差し込んでくる。月とはこんなに明るかったか、と小川は窓辺に近寄った。そこでは青木がまるで死んだように眠っている。……しかし騒々しいいびきだ。
小川には、外を眺めていて少し心配になったことがあった。猛獣のことである。あの長身の男が言っていた。……一眠りして忘れてしまったその男の名前を、小川は見た目にはぼうっとしながらも、必死に思い出そうとした。
そう、マルチだ! まん「まる」い月を眺めながら、小川は思い出した。そのマルチが言っていた『猛獣』とやらが本当に出るのだろうか。そうだとしたら、こんな不用心な部屋で大丈夫なのか、と小川は気がかりになり出したのだ。
腹が空き、持ってきた飴を舐めだした。しかし、ちっとも足しにはならない。たまらず青木を揺さぶった。
「青木はん、青木はん」
「はにゃらふにゃら、ふ〜」
寝ぼけた言葉しか発さない青木を起こすのを諦めて、小川は玄関へと向かった。そっと覗き穴から辺りを確認する。……それらしき生き物はいないようだ。
錆びた音とともに、ゆっくり扉を開けると、隣の部屋の前に行き、インターホンを押した。ちゃんと呼び鈴が鳴っているのか、外からは確認できないタイプのものらしい。……いくら待っても出てこないので、小川はその手応えのないインターホンを何度も押してみた。終いにはドンドンドンと扉を叩いてもみたが、どうも人の気配がない。
もしかすると、こんなに暗いが、まだ夜の六時か七時かそのくらいなのかもしれない。そうすると、まだ住人が帰ってきていない可能性もありうる。
「何やってんだ」
不意に声をかけられ思わず驚いたが、そこに立っていたのは青木だった。
「青木しゃん……お腹すきましぇん?」
「何食ってんだお前」
「飴でしゅよ」
小川は不便に思って、ガリッと飴を噛んだ。
「今ちょうど夕食の時間くらいだろ。俺たちも行くぞ」
「えっ、でもマルチさんはそんなこと……」
「このままじゃ飢え死にするぞ」
青木は過ごしやすい夜風にふかれて、辺りを確認しながら外股で歩き出した。小川もゴクンと飴の残骸を飲み込むと、急いで小カバンを部屋へ取りに戻って、青木を追いかけた。
月の光のおかげで難なくあのトンネルまで辿り着き、ランプの灯ったその中を歩いた。
農園への扉の前には、兵士が二人立っている。青木たちが目の前までやって来ても、微動だにしない。ただ、一定の距離以上近づこうとすると、手に持っている槍で門を塞いだ。
「ここは通せません」
「俺たち腹が減ってるんだ。何か食べ物は……」
「……夕食であれば配給済みのはずですが」
青木と小川はお互いに顔を見合わせた。
「来なかったぞ」
「……少し、お待ちを」
片方の兵士が、何やら外国語で無線連絡をとり始めた。もう片方は依然として槍を構え、鋭い目つきで青木たちを監視している。
「あとで届けますので、部屋で待っていてください」
「ああ……助かります」
「そういえば、猛獣ってここには来ないんですか? 危なくないですか」
小川が洞窟の入口をチラッと見て言った。
「ばかやろ、だから門番の人がいるんだろーが」
「あっ、そっか」
兵士たちは首をかしげた。
「猛獣ですか? そんなものがこの島に出るなんて、聞いたことがないですが」
「えっ? じゃあなぜ門番を……」
「それは……」
「おい!」
兵士は肩をつついて、もう一人が喋りそうになったのを制した。
「話しすぎだ」
「いいんじゃないか? 別に黙っておくことでも」
「な、何なんでしょう」
青木も小川もここまで言われると気になって、身を乗り出した。
「いや……儀式ですよ」
「儀式?」
「毎晩、中では儀式が行われるんです。何か『世界中を幸せにするエネルギー』を貯めているとかなんとか」
話した兵士ではない方が手を額に当てた。
「マルチ様に怒られるぞ」
「いいだろ。別に」
話した兵士は素っ気ない顔をしている。
「『世界中を幸せにする』なんて、夢があっていいですね」
小川が笑顔で言った。
「そうか? 俺はどうも胡散臭いと思うのだが」
「青木さん! こういうのは『夢』でいいんですよ」
「はあ……」
青木は興味なさそうにして、「では、夕食必ず届けてくださいね」と後ろを向いた。小川も兵士たちに会釈をして、帰途についた。
「青木さん」
「何だ」
「僕、何か引っかかってるんですよね……」
「何なんだ」
二人がトンネルの外に出ると、小川が「あっ!」と声を上げた。
「何だぁ?」
青木がくたびれた声で聞く。
「また何かあるのか」
「そういえば……」
小川はゴソゴソカバンを探り始めた。
「見てください! 前、試験のために腕時計買ったの忘れてました」
「おー、それがどうした」
つまらなさそうに青木はアパートへの歩みを早める。
「ほら、やっぱりおかしいですよ」
小川は早歩きで追いかけながら言った。
「見てください」
「何だ」
青木は面倒くさそうに時計の針に目を凝らした。
「三時? 時計壊れてるんじゃないか?」
青木の表情がだんだん曇り始める。
「ちょっと整理しましょう」
小川は短い芝生になっている地面に座り込んだ。
「僕らはずっと、今は夜の六時か七時かそのくらいだと思ってましたよね」
小川はメモに七時と大きく書いた。
「そして時計は三時だった」
「そうか! 分かったぞ」
青木はほっとしたように手を叩いた。
「時差だ。時差でこうなってるんだ」
「いや、おかしいですよ。ここって、日本とは真反対の場所にあるんですよね」
小川は冷静に反論した。
「反対側なら時差は十二時間で、時計の時刻表示にはほとんど変わりないはずです!」
「な、何ー!?」
二人はしばらく絶句した。そして、夜空を見上げた。星が天球を埋め尽くしている神秘的な光景に、二人は思わず見入っていた。
「……はっ、星空を見ていても何も分かりません」
小川が我に返ったのと同時に、ガシャンと音が聞こえた。その方向を見やると、兵士が一人夕食の盆を持って歩いてきている。
「あれ、こんなところで何してらっしゃるんですか」
「ああ……そうだ! 今って何時だか分かりますか?」
「今ですか?」
兵士は首をかしげた。
「正確には分かりませんけど……もう大変ですよ。こんな深夜まで警備しなきゃならないんですから」
「えっ……今なんて」
「まあ、ねぇ。しょうがないですよ。仕事ですから」
兵士は青木に盆を渡すと、そのまま戻って行ってしまった。
「やっぱり! そうなんです。時計の故障じゃないですよ! そもそもこれ、新品ですし」
青木は首をかしげた。だとしたら、なぜなのか。
二人は狐につままれたような気分であった。眠り始めたのがまだ日の沈まぬうちだったのに、二人揃ってそんなに眠ってしまっていたというのか。
「おいおがわぁ……重要そうだからメモとっておけ……」
「はい……」
「今のだけじゃねえ、あの兵士が言ってたこともだ」
「兵士が言ってたこと?」
「ああ、門番が言ってたろ。『世界中を幸せにする』っつう話だよ」
青木は、真っ暗でどんよりとした海を眺めた。どうやら、リンが自分たちに知らせようとしたことが見え始めてきたようだ、と青木は胸の鼓動の高まりを感じていた。
小川も座り込んで、いよいよ月夜のピクニックである。何しろ、数時間、いや、十時間以上食べていなかったから、二人ともすごい勢いで飯をかきこんだ。小川はメモを綴りながら、青木はうっすら青白く浮かび上がり出す水平線を眺めて、何か考えながら。




