第2話 九龍後宮の雑用妃
トラベラーは上品で知的な若い女性の髪を櫛ですいていた。
「路遥」
「はい、紅玉様」
皇帝四妃の一人、紅玉妃がトラベラーを呼ぶ。路遥はこの第466並行世界で活動するための偽名だ。
「簪をもってきてちょうだい」
「かしこまりました」
トラベラーは箱の蓋を開ける。中には上品な簪が数本並んでいた。
今日の紅玉紀は銀の簪を選ぶとトラベラーは分かっていたが、それを表には出さない。
「今日はこれにします」
紅玉紀は予想通り銀の簪を選んだ。
「あなたを私のところに送ってきた龍神様は、ご壮健ですか?」
「はい。たいへんお元気でいらっしゃいました」
トラベラーは紅玉妃の髪を結い上げ、簪を刺す。
「そろそろ陛下の元へ向かいます。路遥も付いてきて」
「かしこまりました」
トラベラーは仕事に必要な物を収めたつづらを背負う。
皇帝の執務室がある外廷と九龍後宮は11階の渡り廊下で繋がっていて、そこから外の風景が見えた。
龍国の首都は無数の木造高層ビルが建ち並んでいる。
本来なら木造では強度が足りずに自壊する。ここに来たばかりの頃、興味をもったトラベラーは建物を調べた。
その結果、呪術によって建材が強化されていると判明した。
トラベラーは並行世界調査員の任務で、不思議な風景は数え切れないほど見てきたが、龍国の街並みもそれらに決して劣らなかった。
「〈破滅の嵐〉とその眷属によって人類が滅びかけて200年。龍神様と英雄たちが〈破滅の嵐〉を討伐した後も、〈嵐の眷属〉は地上に蔓延り、安全な土地は香港とその周辺地域しかありません」
渡り廊下を歩きながら、紅玉妃は木造の摩天楼に憂いを帯びた目を向ける。
人々は狭い場所に押し込められながら生活しなければならず、貧困層に至っては寝床すらままならないほどだ。
「生き残った〈嵐の眷属〉を討伐し、少しずつ土地を奪い返しているとはいえ、人々が伸び伸びと生きられる時代はずっと先になるでしょう」
紅玉妃は「しかし……」と言って立ち止まり、振り返る。
「それでも陛下は、少しでも民が暮らせる場所が広がるよう尽力されています。私はそれをお助けする栄誉を授かりました。あなたにも手伝ってもらうつもりです」
「紅玉様のご期待に背かないと誓います」
トラベラーが言うと、紅玉妃は満足そうに笑みを浮かべ、再び歩き出した。
『わしじゃ、龍春花ちゃんじゃ。今、呪術でお主に念を送っとる』
頭の中で幼い少女のような声が響く。
『聞こえています龍神様』
トラベラーは相手に念を返す。
『わしのことは春花ちゃん呼んでおくれ。わしは人間と友だちになりたいのに、みんなよそよそしく神様扱いする。悲しいのう、よよよ……』
『……それで春花ちゃん、要件はなんでしょう?』
トラベラーは本題に入るよう促す。
『いやなに、紅玉とこに送り出した手前、様子を聞こうとおもっただけじゃ』
『侍女としての仕事は問題ありません。ある程度信頼は得られています』
『よしよし。そのまま紅玉の護衛を頼んだぞ。守りきったら、約束通りにわしの鱗と呪術の知識をしたためた書をやる』
『ええ、まかせてください』
トラベラーはこの世界にやってきた直後を思い返す。
春花は突然あらわれて、命を狙われている紅玉妃の護衛をしてほしいと言ってきた。
想定外だったが、都合は良かった。春花が提案した報酬を得られれば、超自然存在である彼女の遺伝子情報と呪術知識が手に入り、この並行世界の調査任務は完了する。
トラベラーと紅玉妃は渡り廊下を抜けて外廷に入る。
暗殺の兆候を見逃さないよう、活性心肺法で五感を強化していると、ひそひそとした話し声が聞こえてきた。
「雑用妃のご出勤よ。今日は侍女を連れているわね」
「鋼治陛下に侍女扱いされている妃が、侍女を連れているなんて滑稽ね」
「しょせん、余った妃の席を埋めるための数合わせさ」
誰かとすれ違うたびに、ひそひそと話す声が聞こえる。
中には露骨に聞こえるように話すものもいるが、紅玉紀は気にもとめていなかった。
呪術で動く昇降機に乗って最上階に向かうと、龍が描かれた両開きの扉が現れる。この先が、皇帝の執務室だ。
トラベラーが扉を開くと、龍国の若き皇帝、鋼治帝が待っていた。
「おはようございます、皇帝陛下」
「ああ、おはよう。今日も良き働きを期待する」
「御意に」
鋼治帝が柔らかな笑みを紅玉妃に向ける。
「紅玉、1ヶ月前に〈嵐の眷属〉から奪還した土地だが、近い内に開拓状況を視察したい。あの土地は私の代で最初の開拓地だ。しっかりと自分の目で見ておきたい」
「かしこまりました。日程を調整いたします」
二人は手際よく業務をこなしていく。
「ふう、少し休むか」
「かしこまりました」
皇帝の執務室にはテラスがあり、そこで二人は仕事終わりに茶を飲むのが、いつもの日課だ。
トラベラーは侍女として茶の準備をしようする。
「陛下には私がお茶を淹れます。路遥は茶器の準備だけで良いわ」
「かしこまりました」
この仕事も紅玉紀にとって大事だと悟ったトラベラーは素直に従う。
「路遥、茶菓子をお出しして」
命じられて、つづらから出したのは月餅だった。
それは昨晩、紅玉妃が鋼治帝のために自ら作ったものだ。
茶の用意ができた。だがその前に毒見をしなければならない。
トラベラーは侍女である自分がやるものだと思っていた。
「ほう、月餅か」
あろうことか鋼治帝はひょいと月餅を手に取ると、そのまま齧り付いた。
「うむ! 餡がずっしり入っていて美味い」
「!?」
毒見を省略した鋼治帝の予想外の行動に、トラベラーは思わずギョッとしてしまった。
「陛下、少々はしたないかと」
「ははは、許せ。週に一度、お前が作る菓子が楽しみで待ちきれなかった」
二人のやりとりをトラベラーは唖然と見る。
トラベラーの表情を見た鋼治帝は、いたずらぽい笑みを浮かべる。
「紅玉が作った菓子だぞ? 毒見など必要なかろう」
彼は茶も毒味せずに飲んだ。
「この控えめな甘さが茶とよく合う」
トラベラーはこれで良いのかと困惑の眼差しを紅玉妃に向けた。
「陛下にお出しするものは、私が呪術で検査しています。路遥の毒見は必要ありません」
「そうだぞ。紅玉と飲む茶は格別だ」
「もったいなきお言葉です」
それから、休憩を終えた二人は残った仕事を片付けた。
「今日はここまでとしよう。それと紅玉に渡したいものがある」
鋼治帝は小さな漆塗りの木箱を、紅玉妃の前に置く。
それを受け取った紅玉妃は胡蝶蘭が描かれた蓋を開け、中身を手に取る。
「筆、ですか?」
「お前の働きに報いろうと思って、私の職人に作らせた。これからも変わらぬ働きぶりを期待する」
「こんなにも良いものを……大変嬉しく思います」
紅玉妃は仕事を評価されて喜んだ。
それを見るトラベラーは、紅玉妃の喜びに共感していた。
(少し紅玉紀に入れ込み過ぎてるわ。彼女は彼女よ。私自身ではない)
トラベラーは自分に言い聞かせる。
●
秘書業務を終え、紅玉妃とトラベラーは九龍後宮に戻った。
「今日はもう休みます。路遥も明日に支障がないよう、ちゃんと休むように」
「かしこまりました。それではおやすみなさいませ」
「ええ、おやすみ」
トラベラーにとっては、ここからが本番となる。
九龍後宮全体が寝静まったころ、スマートグラスに反応が出た。
Hi-SADのセンサーアプリに、何者かが引っかかったのだ。
トラベラーは反応のあった場所へ向かう。
侵入者は暗闇に溶け込む真っ黒な装束を纏っていた。同じ色の布で顔を隠しているから人相はわからない。体格から女性だということはわかった。
紅玉妃の死を望む何者かが送り込んだ暗殺者に違いない。
暗殺者はトラベラーを見るなり、投擲用短刀を放った。
トラベラーは短刀を受け止めて、そのまま投げ返す。
「!?」
侍女と思っていた相手の思わぬ反撃に、暗殺者は一瞬だけ動揺するが、すぐに冷静になって、戻ってきた短刀を避けた。
トラベラーは床を蹴り、間合いを一瞬で詰め、鳩尾を狙って拳を繰り出す。
暗殺者は体を半回転して、紙一重で避ける。
トラベラーはすぐに下がった。
直後、トラベラーの首があった場所を、カミソリのような回し蹴りが通りすぎる。
もし下がっていなかったら、首をへし折られていただろう。
活性心肺法を使うトラベラーと互角の身体能力だ。
『脅威B+、フォースエナジー反応。気功力による内部循環強化』
かなりの使い手だとトラベラーは感じた。
手持ちの装備をフル活用すれば、暗殺者を倒せるだろうが、殺してしまう。そうなったら黒幕の情報を引き出せない。
強化された脚力で踏み出す。床板が砕けた音が聞こえた時には、すでに敵と至近距離にいた。
暗殺者は防御しようとするが、一瞬だけトラベラーが速い。
打撃が暗殺者に直撃する。
暗殺者は大きく吹っ飛ばされるが、床に叩きつけられる前に受け身を取った。
「ちっ」
こちらを忌々しそうに睨みながら、暗殺者は立ち上がる。
格闘の才能にかぎれば暗殺者は自分と互角だとトラベラーは感じた。だが、実戦経験では上回っている。
暗殺者は警戒しながら間合いを計っている。
(できれば相手の手の内を出させたいところだけど……)
並行世界調査員は、つねに想定外を想定して戦わなければならない。
未知の能力、未知の技、未知の武器。それらによって優秀な調査員が何人も殉職している。
対応を誤れば、トラベラーも彼らの一人に加わるだろう。
敵の体が一瞬だけ光る。
『脅威A+に上昇。フォースエナジー反応。呪術による外部付与型強化』
暗殺者は手刀を繰り出してきた。その速さは、先ほどとは別物だった。
(気功と呪術の二重強化!)
敵の手刀がトラベラーの首に襲いかかる。おそらくはそのまま首を切断するつもりだろう。
(活性心肺法をレベル2に……いえレベル3!)
更に身体強化したトラベラーはその攻撃を腕でガードした。
防がれると思っていなかったのだろう。暗殺者の瞳に驚きが宿る。
相手が動揺から復帰しない内に、顎を狙って掌底を突き上げる。
暗殺者は床を蹴って真後ろに飛ぶ。トラベラーの打撃が顎先をかすめただけに終わった。
相手の体がぐらりと揺れる。あと1発、あるいは2発当てれば無力化できるだろう
「お前達、何をしている?」
男の声がした。後宮に立ち入りが認められている男は一人しかいない。
鋼治帝が戸惑いながらトラベラーと暗殺者を交互に見ていた。




