蔵書044『シンデレラタイム』
「茉莉奈、髪色変えた? すごく似合ってる」
待ち合わせ場所に現れた彼は、開口一番そう言って笑った。私が昨日、美容院で三時間かけて悩んだアッシュグレー。誰にも気づかれないかもしれない、と思っていた些細な変化を、彼は会って五秒で見抜いてくれる。
「……わかる?」
「当たり前だろ。俺、茉莉奈のことしか見てないんだから」
彼はそう言って、当たり前のように私の荷物を持ってくれる。そのスマートな仕草と、心臓を直接掴むような甘い台詞に、私の頬が熱くなるのがわかった。
彼――誠也くんと出会って、もう半年になる。
三年間付き合った元カレに「お前は重い」と振られて以来、私はすっかり恋愛に臆病になっていた。そんな私の前に現れた彼は、まさに理想の恋人だった。
デートはいつも素敵だ。
私がこの前、「ここのパンケーキ、美味しそう」とSNSで見せた画像を、彼はちゃんと覚えていて、次のデートで予約してくれる。
私が仕事でミスをして落ち込んでいると、決して「こうした方がいい」なんて説教はしない。「茉莉奈は頑張りすぎだよ」と、私が一番欲しい言葉で頭を撫でてくれる。
私の好きなもの、嫌いなもの、全部わかってくれてる。
彼といると、私は「愛される価値のある人間だ」と、心から信じることができる。
……ただ、時々、胸が苦しくなるほどの違和感が私を襲う。
「ねえ、誠也くんは、いつもお仕事なにをしてるの?」
夕暮れの公園。二人で歩きながら、私はずっと聞けなかった質問を口にした。
彼は一瞬、困ったように目を伏せ、すぐにいつもの優しい笑顔に戻った。
「俺のことはいいよ。それより、茉莉奈がこの前話してたプロジェクト、どうなった?」
まただ。
彼はいつもこう。私が彼のテリトリーに踏み込もうとすると、驚くほど巧みな話術で、私に気づかれないように話題を逸らす。
彼の家族のこと、友達のこと、仕事のこと。私は何も知らない。
私だけが、私のすべてを彼に曝け出している。
そんなアンバランスな関係が、まるで薄いガラスの壁みたいに、私と彼の間に横たわっていた。
(……でも、いいか)
彼が私をこんなに大切にしてくれる。今は、それだけで幸せだ。
そう自分に言い聞かせた。
もう一つ、彼との間には不思議な「決まりごと」があった。
どんなにデートが盛り上がっていても、時間になると彼は「ごめん、明日早いから」と私を送ってくれるのだ。
几帳面で、真面目な人なんだろうな。そう思っていた。
今日は、私の二十六歳の誕生日。
彼は、私がずっと憧れていた、高層階のフレンチレストランを予約してくれていた。
「すごい……どうしてここ、わかったの?」
「茉莉奈が好きそうだと思って」
窓の外に広がる、宝石をちりばめたような夜景。完璧なエスコート。甘いデザートプレート。
私は、幸せの絶頂にいた。
送りの車。静かな車内に、ロマンチックなクラシックが流れている。
この時間が、永遠に続けばいいのに。
マンションのエントランス前で、車がゆっくりと止まる。
ああ、嫌だ。
今日もまた、「お別れ」の時間が来てしまう。
いつもなら、ここで「ありがとう、またね」と笑顔で別れる。
でも、今日は……。
「誠也くん」
「ん?」
「……私、もう、こんなの嫌だ」
「え?」
溢れそうになる涙を堪えて、彼をまっすぐに見つめた。
もう、我慢の限界だった。
この、完璧だけどどこか他人行儀な関係は。
私が欲しいのは、マニュアル通りの完璧なデートじゃない。あなたの「本当」が欲しい。
「私、誠也くんのことが、本気で――」
好き。
そう言い切る前に、彼の顔から、ふっと表情が消えた。
さっきまで私を愛おしそうに見つめていた瞳が、静かな湖面のように凪いでいる。
「……茉莉奈さん」
その声は、私の知っている彼の声ではなかった。
低く、冷たく、どこか疲れたような、知らない男の人の声。
「……え?」
――マリナさん?
彼は、初めて私を「さん付け」で呼んだ。
「困ります」
「……なんで、敬語……?」
「再三注意させていただきましたが……あくまでも、レンタル彼氏というサービスの範囲内でお楽しみください。」
彼は、私が今まで聞いたこともないほど流暢な敬語で、そう告げた。
頭が、真っ白になる。
「本日の『バースデー・スペシャルプラン』は、22時までとなっております。……ご延長なさいますか?」
あはは。
そうだ。私は、わかってたじゃない。
彼が素敵なのも、私のことを何でも知っているのも、当たり前。
全部、私が「お客様カルテ」に、びっしりと書き込んだんだから。
元カレに言われたトラウマも、「こうして欲しい」という理想の彼氏像も。
時間厳守なのも、彼が「真面目」だからじゃない。
それが、私の「契約時間」だったからだ。
わかっていた。わかっていたのに。
私は、この「お仕事」の彼を、本気で好きになってしまった。
そして、このルールを破って、本物の彼を手に入れられるかもしれないと、愚かな夢を見てしまった。
「……ううん」
私は、震える手でバッグを開け、財布から数枚の紙幣を取り出した。
今日の「完璧な誕生日」の代金。
「……延長、しなくて、いいです。……これで、足りる?」
彼は、それを事務的に受け取ると、いつもの「営業スマイル」を顔に貼り付けた。
「はい、確かに。本日のご利用、誠にありがとうございました」
「……誠也くん」
最後に、彼の名前を呼ぶ。
「はい?」
「……楽しかったのは、本当?」
これが、私にできる、最後の告白だった。
彼は一瞬だけ、本当に一瞬だけ、悲しそうに目を伏せ、そして、完璧な笑顔で言った。
「もちろんです。お客様との時間は、いつも最高に楽しかったですよ」
車を降りて、エントランスの自動ドアが閉まる。
ガラスの向こうで、彼の車が静かに走り去っていく。
私はその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
お金で買える恋に、ハッピーエンドなんてなかったんだ。




