蔵書043『取り消せない』
全ての始まりは、私の指先からいとも簡単に滑り落ちた。
水曜日の午後、私は自室のベッドの上で親友の彩とLINEをしていた。彩が新しくできた恋人との刺激的なデートの話を楽しそうに送ってくる。
少しだけ羨ましかった。
『わかる。うちの直樹は優しすぎるくらい優しいんだけど、たまにそれがちょっと退屈だなって思っちゃう時があるんだよね。その点は元彼のが刺激的で良かったかも』
何の気なしにほんの少しの愚痴を私は文字にした。彩にだけ見せる私の本音。そう、彩にだけ見せるはずだった。
送信ボタンを押した0.5秒後、血の気が引いた。
トーク画面の一番上に表示されている名前が『彩』ではなく『直樹』であることに気づいてしまった。
心臓が氷の塊みたいにどくんと大きく跳ねる。
震える指で間違えて送ってしまったメッセージを長押しする。早く「送信取消」を。
しかし操作が完了するよりも速く、私のメッセージの横に絶望的な小さな二文字が表示された。
―――既読。
見てしまった。彼が。
頭が真っ白になる。どうしよう。なんて言い訳をすれば。冗談だよって笑えばいい? アカウントが乗っ取られたと嘘をつく?
パニックに陥る私の思考を現実が無慈悲に追い越していく。
直樹からの返信はない。
静寂だけがそこにあった。
彼はまだ会社にいる時間だった。
帰ってくるまでのあと五時間。それは私にとって人生で最も長い拷問のような時間になった。
部屋の中を意味もなく何度も歩き回る。心臓はずっと嫌な音を立てていた。
大丈夫、きっと大丈夫。誰だって恋人の愚痴くらい言うものだ。彼なら笑って許してくれる。
そう自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、彼のいつも優しすぎるくらい優しい笑顔が脳裏にちらつき胸が苦しくなった。
やがて玄関のドアの鍵が開く音がした。
私は息を止めてリビングのドアを見つめる。戦場に向かう兵士のように身体が強張っていた。
「ただいま」
入ってきた彼はいつもと何も変わらなかった。
「おかえり」と返した私の声はひどく上擦っていた。
私の異変に気づいた様子もなく「今日、部長がさ」と会社であった出来事をいつも通りに楽しそうに話してくれる。
食卓についても、彼はおかしいくらい普通だった。
「このハンバーグ、うまいな」
そう言って笑う。でも笑顔は、どこか薄い膜が一枚かかっているように見えた。目が笑っていない。
彼はあのメッセージについて一言も触れてこなかった。
あえての無言が、どんな罵倒よりも私を追い詰めた。
その日から私たちの間には見えない、けれど決して越えることのできない壁ができてしまった。
彼は以前よりももっと優しくなった。
私が何も言わなくても食べたがっていたケーキを買ってきたり、「疲れてるだろ」と全ての家事を完璧にこなしてくれたり。
でも優しさはどこか作り物めいていた。それは心からの愛情ではなく、まるで完璧な恋人を『演じている』かのようだった。
私たちは笑い合う。でも笑い声は部屋の天井に虚しく響くだけで決して混じり合わない。
夜、同じベッドで眠っていても彼が私に触れてくることはなくなった。
そして悲劇の誤送信からちょうど一週間が経った夜。
私たちはソファに座って映画を見ていた。少しだけ距離を空けて。
息の詰まるような穏やかな時間に、私はもう耐えられなかった。
「……あのさ、直樹」
怯えながら彼に話しかけた。
「先週の、メッセージのことなんだけど……」
彼はゆっくりと私の方を見た。
顔にはいつもと同じ、優しい完璧な笑顔が浮かんでいた。
「……なんのメッセージだっけ?」
そっか、もう駄目なんだ。
彼はこの件を永遠になかったことにするつもりなんだね。
喧嘩にもならない。話し合いのテーブルにさえつくことができない。彼は私を傷つけないために、私を拒絶しないために、優しさという分厚い壁の内側に完全に閉じこもってしまった。
私が壊してしまった信頼を、彼がその優しさで塗り固めてしまった。
どこまでも優しい拒絶。
それこそが、私のたった一度の過ちに対する最も残酷な罰だった。
私たちの関係は、あの『既読』の二文字がついた瞬間に死んでいたのだ。
その事実に私は今ようやく気づいた。
映画の明るいエンディング曲が、静まり返ったリビングに寂しく流れていた。




