蔵書035『遠くのさよなら』
東京駅のホームに、博多からの新幹線が滑り込んでくる。
半年。指折り数えて、ずっと待っていた今日という日。心臓が痛いくらいに高鳴るのを、私は必死にコートの胸元を押さえて落ち着かせた。
八百キロメートルという、絶望的な距離。それを越えて今、彼が会いに来てくれる。
彼――博史が、福岡へ転勤になった日。私たちは空港で、「距離なんて関係ないよね」と泣きながら誓い合った。毎日のLINE。週末に見た映画の感想を語り合う通話。
私たちの愛は、物理的な距離なんかに絶対に負けないと信じていた。
人混みの中から、少しだけ日焼けした懐かしい彼の姿を見つける。
「博史!」
思わず駆け寄って、その腕に飛びついた。半年ぶりに感じる彼の匂い、胸板の厚さ。
でもほんの少しだけ、抱きしめ返してくれる腕の力がぎこちないような気がした。
「元気だったか、恵子」
「うん! 博史こそ、なんか焼けたね」
「ああ、こっちは日差しが強くてさ」
駅の構内を歩きながら、途切れ途切れに言葉を交わす。
おかしいな。会う前は話したいことが、聞きたいことが、山のようにあったはずなのに。いざ目の前にすると、どこから話せばいいのか分からなかった。
毎日待ち受け画面で顔を見ていたはずなのに、なんだか、少しだけ知らない人と話しているみたいだった。
二人で暮らしていた、私の部屋へ。
『ただいま』と彼が言うのを、ずっと待っていた。
「……おじゃまします」
でも彼の口から出たのは、そんな他人行儀な言葉だった。
部屋の中は、半年前、彼が出て行った日のままだ。彼が使っていたマグカップも、読みかけで置いていった本も、全て。いつでも彼が帰ってこられるように。
でも彼は部屋を見回して、「ああ、懐かしいな」なんて、まるで観光地に来た旅行客みたいなことを言う。
違う。ここはあなたの『懐かしい場所』じゃない。私たちの『家』だったはずの場所だよ。
その言葉は喉の奥でつかえて、声にはならなかった。
今夜のために、腕によりをかけて彼の大好物だった煮込みハンバーグを作った。
テーブルにつき、久しぶりに向かい合って食事をする。
「……おいしいよ」
彼はそう言ってくれたけれど、どこかうわの空だった。
沈黙が、痛い。
かつて私たちの間で流れていた心地よい沈黙は、もうどこにもなかった。今は無機質な気まずい空気が、フォークと皿が触れ合う音を不自然に響かせるだけ。
「……そっちの仕事は慣れた?」
私が尋ねると、彼は待ってましたとばかりに話し始めた。新しい上司の話。ユニークな同僚の話。最近見つけた、美味しいラーメン屋の話。
彼の話に出てくる人たちの顔を、私は誰も知らない。彼が熱心に語る街の風景を、私は一度も見たことがない。
私は、ただ「へぇ、そうなんだ」と、相槌を打つことしかできなかった。
彼もまた、私が話す、会社の愚痴や、最近ハマっているドラマの話を、聞き流しているのが分かった。
私たちは、違う世界で生きていた。
毎日画面越しに繋がっているつもりになっていただけで、本当は、八百キロメートルという距離に、少しずつ、確実に、心を蝕まれていたのだ。
同じものを見て、同じ空気を吸って、同じ時間を共有しなければ、育たない感情がある。そして、失われていく感情がある。
その夜私たちは、一つのベッドで、背中を向け合って眠った。
触れたいのに、触れられない。私の知っている博史のままなはずなのに、もう、私の恋人ではない、遠い誰かのように感じられた。
翌朝、彼は私が起きるよりも早く、帰る準備を済ませていた。
「ごめん、急な仕事、思い出しちゃって。もう一本、早い新幹線で帰るわ」
嘘だとすぐに分かった。
彼はこの気まずい空気に、一秒だって耐えられなかったのだ。
駅まで、見送りに行った。
昨日来た時と同じ改札。でも昨日あった、あの胸のときめきは、かけらも残っていなかった。
「……じゃあ、また、連絡する」
「……うん」
ホームへ続く階段に消えていく彼の背中を、私は黙って見つめていた。
きっと、彼から連絡が来ることはないだろう。
そして私も、彼に連絡をすることはないだろう。
誰も、何も言わなかった。「別れよう」なんて野暮な言葉は、私たちには必要なかった。
私たちは、この半年という時間と、八百キロメートルという距離に、静かに、そして、完全に、負けたのだ。
どちらが悪いわけでもない。
だからこそどうしようもなく、悲しかった。
一人取り残された私の鼓膜を、遠くから聞こえる新幹線の発車ベルが震わせた。
それはまるで、あまりにも長すぎた夏が終わったことを告げる、さよならの合図のようだった。




